バブルガムフェロー
フリオ
1章 バブルガムフェロー
第1話
クマノミは一番大きなオスがメスに変身するという。
教室の椅子に座って読んだ図鑑に書かれていた。
その頃のことを僕は鮮明に覚えていた。
隣の席のたかし君はいじめられていた。隣の席になって気づいたことだ。彼はいじめられているのに平然としているから、僕は気になって仕方がなかった。もしかしたら、平気な顔をしているが、内心は限界なのかもしれない。そう思うと、話かけずにはいられなかった。
「助けようか?」
その言葉はあんまり適切ではなかったと思うけど、いじめられている子に話かけるときの語彙力は、これだけしか持ち合わせていなかった。僕は生き物図鑑程度の語彙力しか持ち合わせていないから、助けたいと思ったら、助けようかと尋ねるしかなかった。
この学校というのが、小学校でも中学校でも高校でも関係はない。小さな空間にいろんな人間が集まれば、いじめが存在した。その小さな空間というのが、木造だとしても、鉄筋コンクリートでも、それも関係はない。人間というのも、関係はないかもしれない。クマノミでもイソギンチャクの中でいじめがある。図鑑には載っていないことだ。
「大丈夫」
たかしからは感謝された。助けは必要ないと、笑顔で僕を安心させた。
彼には自信と余裕があった。
何か一つを極めていたから。
いじめられているたかしよりも、それを見ているだけの僕の方が不安になっていた。
たかしは冴えたやり方を知っているようで、僕は不安を解消しようとそのやり方を見ていた。やり方というのは、思ったよりも単純で、しかし簡単ではなかった。どうやら、たかしはいじめが発生した空間で、つまりクラスで一番足が速いらしい。
「そんなことで?」
納得は風だった。体育の徒競走で、僕の目の前をたかしが通り過ぎた。すれ違うときに、風が吹いた。その風から少し遅れて、たかしをいじめていた子たちが後塵を拝する。砂埃が舞っていた。つまり敗北は砂だった。その砂が収まるころには、いじめも消えてなくなっていた。
僕の名前を仮に、りりおとしよう。
たかしの幼馴染の名前が、みさき。
「つまり、何か一つを極めるべきってことね」
みさきは美人で聡明だった。クラスのマドンナでもあった。男子からも人気だった。たかしがいじめられていたのは、嫉妬だろう。
「でもそんなのはつまらないじゃない? 私は何か一つを極めることよりも、色んなことをやってみたいけど」
幼馴染というのは運だ。
ただの運でみさきと仲が良いという妬みや嫉み、不正に幸せになっているという思いからくる歪んだ正義感が、いじめの原因だった。
だが、たかしは証明した。
クラスで一番かわいい女の子に相応しいのは、クラスで一番足の速い男の子だろう。
いじめっ子も認めざるを得ない。
「ピアノもダンスもお習字も、楽しかった。走るなんていつでもできるよ」
このときの僕に、りりおにみさきの話はどうでもよかった。
とにかく、今はたかしの話。何か一つを極めるとして、どうしてたかしは足の速さを選んだのか。自分が極めるべき、何か一つの見つけ方。
まあ、みさきの話も正しいのだけど、それに気づくのは死んだあと。
「たかしの足が速いのは、お父さんが陸上選手だからだろうね。走ることが身近だったから。でも、昔は私の方が速かったんだよ。たかしはいつも私の後ろを走ってた。なんでもそう。遊びも勉強も運動もたかしは私の後ろ。でも、走るのだけは越されちゃった。いつか身長も越されるのかな?」
「男が高い方がいいだろ」
「違うよ。キスする方が高いの。される方が低いの」
みさきの考えは、りりおにはよくわからなかった。
今ではよく分かる。
僕の実家は楽器屋さんを営んでいた。商店街に近い駅の東口付近にあり、その二階が僕の自宅だった。父親と母親、それと妹のハルカで四人家族。裕福でも貧困でもない一般家庭で生まれ育った。
その時点で二択。
音楽を極めるか、経営を極めるか。
今思えば少し視野が狭い。しかし、仕方ない。みさきから聞いたたかしの例しか知らなかったのだ。もし、やり直すなら、そうだな、歌詞を書くのが得意だという話があったから、小説かにでもなっていただろうか。でも、この時点で歌詞を書く才能に気づくはずもないし、結局は二択。だから、仕方がない。
「それなら音楽を極めた方が良い。そして音楽を極めたらスターだ」
「そのつもりだよ」
ポスターを壁に貼り付け、ついでに笑みも顔に貼り付けながら、バイトの若い男がアドバイスをする。彼に言われるまでもなく音楽を選んでいた。彼に話した今までの経緯はただの雑談だ。
そもそも僕は音楽が好きだった。
「音楽といっても色々だから。何を極めるかが問題だ」
四面を楽器に囲まれていた。
悩んでいるのは何の楽器を極めるか。ジャズを極めるロックを極めるではなく、ギターやベースやピアノ。音楽の最小単位から選択していく。何か一つというのはそういうことだ。
「岐路に立っている」
椅子に座っていた。
「思考に囚われるのはよくない。ここは流れに身を任せたらどうだ。足が速いというのは思考の結果ではないはずだから。それの真似だろ?」
「なるほど。いい方法はある?」
バイトの男はエプロンの前ポケットから風船ガムを取り出した。
悩んでいるりりおの手のひらに置く。
小さな箱。
ブドウの絵。
「これは?」
「わらしべ長者。要は物々交換だ。何か楽器に行き着くまで、そのガムを交換し続けろ」
「たどりついた楽器が、僕が極めるべき楽器」
「そのとおり」
「ありがとう。目途が立ったよ」
やっぱり、椅子に座っていた。
バイトの笑顔がさらに笑って、歪んでいるように見えた。
バイトの男というのは、このときから、僕のような視点で、りりおにアドバイスをしていたのだろう。悪いイヌだ。
「いや。気にしないでくれ。これは僕が音楽の神様になる第一歩だから」
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