第36話 アイラは悪い子

「違う違う、いや、ほんと大丈夫だから!」


 アイラの心配を振り払うようにシャルロッテは明るい声で応えたが、アイラはこれを真に受けることはしなかった。


 彼女はただ事の次第を知りたい一心で、静かにシャルロッテに近づいて、じっと顔を見た。シャルロッテはくすぐったいような顔をして視線を合わさず、おどけた調子で言う。


「今のはちょっと、目にゴミが入っただけ! 制服のこれは、ちょっとした手違いっていうか、あたしは全然気にしてないからさ! そんな心配しないでよ、アハハ!」


 傍から見れば、シャルロッテの様子はなんらいつもと変わらない風だったかもしれない。アイラ自身も、そうであってほしいと思った。しかし脳裏には、今朝のシャルロッテの様子が否応なしに浮かんでくる。

 

 緊張して乾いた笑い。何かを見つけて固まった顔。言葉少なに別れたあとの、不安げな背中。それらすべてが、アイラには見逃してはならないもののように思えた。


 本当になんでもないなら、それでいい。


 でも、ダメだ――私にはどうしても、そう思えない。


「……シャル。こっち見て」


「えー? なんだよお……」


 シャル、そんな顔しないで。そんな風に、無理に笑わないで。


「シャル……お願い」


 シャルロッテは、再会してから微妙に逸らし続けていた視線を、とうとう観念したようにアイラの瞳に落ち着けた。


 そうして、その目が捉えた光景に息を飲んだ。


「なんで――なんでアイラが泣いてんのさあ」


 シャルロッテが見たのは、自分の目を真っすぐ見つめながら、大粒の涙を今にも溢れさせようとしている、アイラの青い瞳だった。


「そんなの、だって、シャルが悲しそうだからだよ」


 アイラの震える声に、シャルロッテは次の言葉が出てこず、口をきゅっと引き結んだ。アイラは声を詰まらせながらも続ける。


「……あのねっ、シャル! 私っ、私は、本当にどんくさくて、頼りなくて、思い込みも激しいやつだから、こんなこと、言われて、嫌かもしれないんだけどっ」


 言いながらすでにあふれ始めた涙は、アイラの眼鏡の内側を濡らしながらいくつも彼女の制服に滴った。


「なにか私に、できることないかなあっ!」


「……!」


 アイラの言葉はシャルロッテの目頭を熱くした。彼女の一文字にしていた唇が細かく震え、先ほどなかったことにした涙がまた込み上げてくるのを自分でも感じた。


 だがシャルロッテは涙を流さなかった。彼女は彼女で、輝かしく新学期を迎えるアイラを、自分の問題に巻き込みたくなかったのだ。


「……ありがと、アイラ。嫌なわけないだろ! そうやって言ってくれて嬉しいよ」


「じゃあ、やっぱり、何かあったんだよね……?」


 鼻をすすりながら確認するアイラに、シャルロッテは苦笑しながらついに頷いた。 


「でもごめん、できることは……多分ないや。だからもう、アイラは気に――」


 言葉の途中で、シャルロッテの手がアイラに握られた。そのまま進み出ると、アイラは互いの息遣いが伝わるほどの距離まで近づいて言った。


「ダメだよ、シャル」


 引っ込み思案と思われたアイラが自分からここまで接近してきたことにシャルロッテは驚いたが、それ以上に、彼女の目の色が先ほどの悲しみと気遣いから大きく変わっていることに気が付いて、目を見張った。


「私ね、そんなにいい子じゃない。シャルを泣かせた人のこと、してやりたいって思ってるんだよ」


 まなじりに涙を残しながらも、アイラの目はすでに決意の色に燃えていたのである。


「だからシャル、全部教えて。何があったのか」


 初めて見るアイラの一面に、シャルロッテは少しの間目をしばたかせていた。アイラにもこんなに力強い目ができるのか、と思った。


 そして握られている手に伝わるアイラの力が存外強いことにも気が付いて、ああ、この子は本気であたしのために怒ってくれているんだ、と思い至る。


 シャルロッテの瞳に、溜め込んでいた涙がようやく滲み出てきた。


「なあんだ……悪い子だなあ、アイラは」


 そうして涙が零れ落ちると同時に、急におかしさも込み上げてきて、シャルロッテはやっと本来の笑顔を見せることができた。


「……なんだよ、って!」


「えー? へへ、は、だよ!」


 その笑顔を見て、アイラもやっと硬い表情を崩すことができたのだった。

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