第29話 聞いてないよお父さん
さて、しきりに真面目な顔をしていたアイラは、ここではたと気が付いた。
入学準備のお礼をまだ言っていないぞ、と。
「はうわああッ!」
アイラは素っ頓狂な声を上げてレオンハルトに向き直ると、ぺこぺこと頭を下げ、慌ててあれこれと礼をまくしたてた。
「ハハ、どういたしまして、役に立てて良かったよ」
レオンハルトは何でもないという顔をして、アイラの陳謝を手の平で軽く制する。
しかしふと、これまでにこやかにしていたレオンハルトが、少し神妙な表情になってこう切り出した。
「ああ、そうそう、万年筆のことだけど――」
そのまま腰を折ってアイラに顔を寄せ、周囲に聞かれないような声量で話し始める。
「ヴィルが君におさがりをやった、と手紙で読んだけれど、今日は新しいものを持ってきたかい?」
「? はい、せっかく先生に用立てていただいたので!」
アイラは明るく答えたが、なぜこの話題でそこまで声を潜めるのだろうと疑問に思った。たかが万年筆ではないか。
レオンハルトは調子を変えずに続ける。
「そうかい。じゃあアイラ、これだけは覚えておいておくれ。ヴィルの万年筆は、絶対に寮から出さないこと。いいかい?」
「……え?」
アイラは思わずレオンハルトから顔を離して、一歩退いた。
最初、何を言われたのかわからなかった。
しかし、穏やかな口調でありながら、レオンハルトの声と表情にいささかの緊張が隠れていることを感じ取り、これまでのいろいろが、頭の中で線となって繋がった。
お父さんがいた頃の王都。
そのころから続く、何かしらの禍根。
名捨て。第四学寮。
そして、新しい万年筆。
レオさんは、私を守ろうとしているんだ。
それが何からかは、やっぱりまだわからないけど。
アイラはレオンハルトの言葉からそこまで思い至って、先ほどとは違った硬い表情で頷いた。
「よろしい。ヴィルの万年筆自体はいいものだから、大事に使いなさい。ただしさっき言った通り、場所を守ってね」
「はい……!」
アイラの返事を受けると、レオンハルトはまた従前の柔らかい表情に戻り、背筋を伸ばして立った。
「さて、では早速、君を儀式の場まで案内するとしよう。ついておいで」
そう言ってレオンハルトはアイラを通路へ誘おうとしたが、アイラは胸の前で手の平を振ってこれを断った。
「いえいえ、私、もう大丈夫ですよ! 他の新入生も一人で向かってますし、そこまでしてもらわなくても、そんなそんな……」
アイラはレオンハルトの心遣いこそ嬉しかったが、ここまで助けてもらった分、一人でできるところを見せたい気持ちもあった。
今はシャルロッテも隣にいなくなり、心細さは否めなかったが、だからこそ自分もできるのだということを確かめたかったのだ。
しかし、そうして意気を張ろうとするアイラの思惑とは裏腹に、レオンハルトは一瞬ぽかんとした顔をした。
「アイラ、何を言っているんだい。君は他の新入生とは違うだろう?」
「え?」
そしてまたアイラもきょとんとしているので、レオンハルトとアイラは数瞬見つめ合って互いに考えた。
やがて先に思い至ったレオンハルトが眉根を寄せて斜め上を仰ぎ、つぶやいた。
「また、ヴィルのやつ……」
「えっ」
その言葉で、アイラも何事かを察するに至った。
お父さん、まさかだけど――。
私に言ってないこと、〈名捨て〉以外にもまだあったんじゃない……?
「いいかい、アイラ――」
レオンハルトはなんとか気を取り直すように一呼吸置いてから、再び腰を落としてアイラの目を真っすぐ見ながら、アイラの父であるヴィルヘルムが伝えていなかったことを初めて伝えた。
それを聞いたアイラは呆然の余り、父への恨み言を脳内に書き綴るしかできなかった。
『拝啓 お父さん
あなたはいつも説明が足りません。
これにはお友達も怒っています。
もちろん私も怒っています。
どうしてこんなに大事なことを言っておいてくれないのですか。』
「いいかいアイラ。君はこのあと入門の儀で宣誓のために登壇する、〈穂先の五人〉――つまり第二十期生成績優秀者のうちの、一人なんだよ」
アイラはまた、自分が何を言われたのか理解するまでに、いくらか時間を要した。
「……えええええええええッッ!?」
『あなたは自分では大事でないと思っているのかもしれませんが、
それは私にとっては、わりと大事です。』
「ど、ど、ど、どっどうすればいいいいですか? せ、センセイってななんですか?」
にわかに慌て出したアイラを落ち着けようと両手で
「と、とりあえず……急いで宣誓の言葉を覚えるんだ。こっちについてきて……」
「は、はいい! すみません、すみません……!」
アイラは涙目になりながら、レオンハルトのあとへついて人の流れをかき分け、儀式が行われる大講堂の裏手へと急いだ。
『いいですかお父さん。
本当に困ります。
あなたの娘は泣いています。
いつか全部、全部教えてください。』
「うううっ、お父さんの馬鹿ぁ!」
『もっと愛すべき娘より 敬具』
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