第3話 『ごめんなさい』


 教室に入ると、そこは異様な空気感が支配していた。悪いわけではないんだけど、新学期特有のあの気まずいやつだ。


 進級だと、仲の良いやつが一人くらいはいるからまだいいけれど、新しい環境に入ったばかりというこの一年生の教室は、やはり緊張感が張り詰めていた。


 正直言って、得意な空気ではない。

 これは俺が長い間苦手としてきて、そして背を向けてきたものだから。


 これに呑まれてはいけない。

 まずはこの空気をぶち壊す。


 ひいてはそれが、俺は喋りやすいというイメージを作ることに繋がるはずだ。


 すう、はあ、と小さく深呼吸をする。


 そして。


「おはよ」


 一番近くにいた女子生徒に話しかけた。メガネをかけたその子はびくりと一瞬驚きこそしたものの、俺を見てぎこちなく笑い、「お、おはようございます」と返してくれた。


 年齢を重ねてしまうと挨拶ができなくなるクソみたいな大人もいるけれど、ここにいるのは純粋な心を持つ子どもだ。


 挨拶をされれば、挨拶を返す。

 それが当たり前で、けれどこの張り詰めた空気感がそれを阻害していた。だから、俺はその空気感を壊そうと考えた。


 その子の次はまた別の、今度は緊張しているのが表情に出まくっている男子生徒に挨拶をする。


「おはよ」


「お、おう。おはよ」


 この調子でできるだけ多くの人に挨拶をしながら自分の席へと向かう。

 そうすることで、誰が作ったわけでもない『声を出すのが何となく悪いような気がする』という空気感がなくなるはずだ。


 緊張はする。

 けど、俺はここにいる誰よりも人生経験を積んでいるから。確かに無駄なことは多かったかもしれない。けれど、その全てが無駄なわけでもない。


 中にはきっと、背中を押してくれる経験だってあったはずだ。


 負け星の数ならそこら辺の奴らには負けない自信がある。


「おはようございます」


 俺に続いて、教室に入ってきた彼方も同じように挨拶をしていく。


 なんとなく分かった。

 今、この教室の空気感を支配しているのは俺と彼方だ。しかも、どちらかというと最初に行動した俺の方が一歩リードしているような気がする。


 挨拶を続けながら、これならばいけると確信した。


 そして、目的地へと到着する。

 もちろんそこは、自分の席ではない。


「おはよう、柊木さん」


 柊木結花。

 俺のヒロイン候補の一人だ。


 結花は既に登校を済ましていて、自分の席で国語の教科書を眺めているところだった。

 他にすることないのかと疑問に思うけれど、スマホもないし、できることといえば雑談を除けばそれくらいしかないか。


 勝手に納得してしまった。


 教科書から顔を上げた彼女と目が合う。


 まるで宝石でも埋め込まれているようだと錯覚してしまうほどに綺麗な瞳だった。


「えっと、たしか、志波くん? おはよう」


 挨拶をする流れを作ったにも関わらず、戸惑われてしまった。

 が、目的は果たした。

 挨拶を交わすことで次の会話の機会を違和感なく作ることができる。


 それに、もう一つ嬉しいことが分かった。


 俺の名前、覚えてくれてた。

 普通に嬉しい。女子に覚えられてるってこんなに嬉しいんだ。男って単純だなー。


 他の生徒には挨拶だけなのに、ここで立ち止まって話し出すとそれこそ怪しまれるからここは一度立ち去ろう。戦略的撤退というやつだ。意味あってるか?


 自分の席に座ると、程なくして担任の先生が入ってくる。ピシッとしたスーツに身を包んだスタイルの良い美人な女性。


 あんなのが小学生の担任とか、性癖歪ませにきてるだろ。俺は既に歪んでいるから大丈夫だけど、他の男子は大丈夫じゃないに違いない。


 なんて、そんなことを考えている暇はない。


 結花のことを考えないと。

 問題はどう話しかけるか、だ。


 前世では、どうやって女子に話しかけていただろうか……。


 頑張って記憶を巡ってみたけど、俺から女子に話しかけたことはもしかしたらなかったかもしれない。

 女子から話しかけてきたといっても消しゴム貸してとか当番代わってとか、依頼系がほぼを占めていた。


 ほんと灰色……。


 俺の経験は役に立たんな。

 そうなると、漫画の知識に頼るしかないか。そうだ。漫画やアニメ、ゲームと二次元の恋愛ならいくらでも目にしてきた。


 それに。


 なんといっても。


 今の俺はイケメンだ。

 ブサイクだった前世の記憶があるからこそ、今の自分の容姿を客観的に見ることができるけど、うん、完璧にイケメン。


 少なくともこのクラスでは一番のイケメンであることは間違いない。胸を張れる。


 イケメンは何やっても許されるんだから、適当に話しかければいい。それはそうなんだけど、根っこは陰キャだからなあ、会話の中とかからそこが漏れたら終わりなんだよな。


 側は所詮、側だから。


 例えば、こういうのはどうだろう。


『なあ、柊木。近くに美味しいって噂のクレープ屋があるらしいんだけど行ってみないか?』


 女子は甘いもの好きだからな。

 クレープ嫌いな女子はいないだろ。


『そんなにお金ない』


 ダメだった。

 小学一年生のお小遣いからすればクレープは高額過ぎる。誘うならばせいぜい駄菓子屋だ。

 おすすめのうまい棒について語り合うか? なにそれ絶対盛り上がるけど女子とする会話の話題じゃないな。


『今日一緒に帰らない?』


 シンプルにな。

 イケメンに誘われて断る女はいないだろ。


 ……。


 …………。


 うん。

 俺の脳内ネガティブ思考もこれに対するネガティブアンサーは持っていない。


 これはいける!


 その後、幾度となく会話のシミュレーションを脳内で繰り返した。話題のストックも準備した。


 好きなイケメン俳優は松潤。

 好きなサンリオキャラクターはマイメロディ。

 好きなプリキュアはキュアイーグレット。

 おすすめの散歩スポットは近くの公園。

 漫画雑誌はなかよしよりちゃお派。


 完璧だ。


 あとは誘うだけ。

 大丈夫だ、たった一言だけで物事が全て上手く進むんだから。イケメンってすごい。


 シミュレーションにシミュレーションを重ねていると気づけば放課後だった。

 授業はあったけど、さすがの低学歴な俺でも小学一年生の授業は余裕で理解できる。聞かなくても問題はないだろう。


 終わりの会が先生の一言によって締められ、みんなが帰りの準備を始めたところで俺は結花のところへ向かった。


 俺の接近に気付いた結花は警戒心をマックスまで引き上げたような表情でこちらを見ていた。


「な、なんですか?」


 戸惑うような言葉に、俺は幼少期から何度も何度も練習したイケメンスマイルを見せながら言う。


「今日、一緒に帰らない? 結花ちゃんとお話してみたいんだ」


 完璧じゃん。

 我ながら文句なしのイケメンムーブじゃん。


 ほら、あとは君が頷くだけだよ、と思ったんだけど。


「ごめんなさい」


「なんで!?」


 イケメンスマイルは一瞬で失われた。


 動揺のあまり、素で驚いてしまう。その俺のリアクションに驚いた結花は引き気味な表情のまま口を開いた。


「ママがイケメンの男は信用するなって言ってたので……」


 そ、そんなバカなぁ。

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