第21話
会計を済ませて表に出ると、空は早くも夕方の気配だ。
「これからどうする?」
腕時計から目を上げたチカルは、店の外観を撮影しているリョウの方をさみしそうな目で見る。
「私……17時には家に帰らないといけないの」
「秋葉原あたりに行きたいと思ってたんだけど、あんまりゆっくりできなさそうだね?」スマホをジャケットのポケットに突っ込みつつ彼女の元へ戻ると、「そうだな……じゃあ、毛利庭園まで行こうよ。日本っぽい写真撮りたいんだ」
ほんのわずかにオレンジがかった光。セピア色の記憶に迷い込んだような気持ちになりながら、彼らはのんびりと歩いていく。
「この辺りに遊びに来たりするの?」
「昔はそれなりに。でも最近はぜんぜん」チカルは澄んだ瞳で辺りを見回し、「いつ来てもここは、夢みたいな場所ね……」
そう独り言のように口にする。
田舎から東京に来て、シュンヤと初めてデートしたのはここ六本木だった。
東京タワーが見える場所でふたりで写真を撮った。携帯電話の自撮りモードでの撮影に四苦八苦したことを、昨日のことのように覚えている。ふたりの顔を画面におさめようとすると東京タワーがほとんど写らず、東京タワーを写そうとすると自分たちが写らない――何度チャレンジしても思ったように撮影できずに、ふたりで大笑いしたっけ。当時の光景が胸をよぎり、彼女の頬がわずかに上がる。
互いのあいだに東京タワーの明かりがちょこんと写っているあの一枚だけは現像して、財布のなかにおまもりのように入れてある。まだガラケーが主流の時代で画質もざらざらしているが、ふたりが楽しそうに笑っている。
「姉さんはさ、シュンヤ君とまだ一緒に暮らしてるの?」
唐突に訊ねられ、彼女は弾かれたように顔を上げた。息を詰めたまま、答えられずに沈黙する。
リョウとシュンヤは幼い頃からよく遊ぶ仲だった。チカルの目にはいい友人関係を育んでいるように見えたが、姉の恋人になったと知るやリョウはシュンヤと距離を置くようになった。
その理由を話してくれることはなかったが、シュンヤのことが話題になるたびにリョウの表情が曇るので、チカルは彼の名を口にするのを意図的に避けるようになった。今日も彼の話題にならないようにと、アメリカでの生活について事細かに訊ね、彼の話を聞く側に徹していたのだが――
「あいつとの仲、続いてるんだ?」
黙っていることを肯定と取ったのか、前を向いたままリョウが問う。
「姉さん。確かにシュンヤ君は友達としてはいいやつだよ。でも恋人には向かない。俺はあいつの悪癖を知ってる……ずっと傍で見てたから」
「いまは違うわ」
「嘘だね」
きっぱりと言い切るリョウの横顔には怒りが滲んでいる。
「『就職したらチカルと結婚して、女遊びはやめる』。あいつが大学生のときはっきり俺に言ったんだ。姉さんとまだ結婚していないってことは……そういうことだろ。結婚後の生活から子どもの人数まで……調子よくいろいろ話してたけど、それも全部うるさい俺を黙らせるための方便だったってわけだ。あいつは、なにかと都合のいい姉さんの存在が欲しかっただけで、女遊びをやめる気なんてない」
チカルの顔が青白いのは、冷たい風のせいだけではない。彼女は細い声で言う。
「――シュンヤがあの家から私を連れ出してくれたの……」
「だから何?」
やっとチカルの方を見て、リョウは苦しそうに眉根を寄せたまま続けた。
「恩義とか情で一緒にいるならやめとけよ」
「シュンヤのやりたいようにすればいいと思ってる。私が見ないふりすればいいだけ」
「どうして?……姉さんはいつもそうだ。あいつを甘やかしてばっかり」
「愛しているから」彼女は弟を振り仰いで、「それ以外に理由がいる?」
「姉さんの言う『愛』って、我慢すること?してほしくないことに目をつぶって耐えることなの?」
「もうやめましょう……往来を歩きながらする話じゃないわ」
「じゃあいつだったら話してくれる?ずっとはぐらかしてきたくせに」
彼の指摘する通り、電話でも、メッセージでも、シュンヤの話題を避けてきた。それは弟の表情を曇らせないためだったはずだが、最近は自分のためになっていたような気がする。この変化に彼は敏感に気付いていて、こうして噛みつくタイミングをずっと窺っていたのだろう。
本心を引き出してどうするつもりかはわからない。心の奥に隠された感情を暴けば、別れを選ぶだろうと考えているのだろうか?それとも……
弟の真剣な眼差しに射貫かれて、彼女は眼鏡の奥の瞳をまぶしそうに細めた。
「――そうね……」
思案顔のままゆっくりと立ち止まった姉に、リョウは振り向く。
彼女は地面を見つめたままで言った。
「父さんは、母さんのすべてを丸ごと受け入れていたでしょう……あれが愛だっていうなら、私のシュンヤへの気持ちも、愛だと思うの」
彼は苦い顔のまま重く押し黙り、彼女の腕を取って再び歩き出す。しっかり腕を絡めたままで、怒ったように口にした。
「あんなのは愛じゃない」
「本当の愛を知っているみたいに言うのね」
「姉さん!」
呻くように言うと、必死の形相でチカルの顔を覗き込む。まなざしを交えた彼女はふと口元を崩してつぶやいた。
「偽物だって知らなければ幸せなままいられるじゃない」
その口調は穏やかで、卑屈さは微塵も感じられない。弟を仰ぎ見て更に目を細めると、ゆっくりと声を紡ぐ。
「シュンヤと結婚してもしなくても、どっちでもいいの。私は彼との子どもを産むつもりはないし……彼の本質は、籍を入れたくらいじゃ変わらない。どんな道を選んでも、今までどおりの生活が続いていくだけよ」
「あきらめてるみたいに聞こえる」
「そう……きっとそうね」
上京してシュンヤと生活するようになりもうすぐ16年。彼のことを深く知れば知るほど、あきらめの連続だった。そしてこれから先も彼に期待しては失望し、多くのことをあきらめていくだろう。
それでいいとチカルは思う。そうするしかない、とも。
落日の刻が迫り、ますますオレンジが濃くなる街を歩く彼女の心は、不気味なほど穏やかに静まり返っていた。
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