第20話

 タビトがすぐ横にいたことに気づくはずもないチカルは、弟のリョウと一緒に順番待ちを続けていた。

 ようやく席に着いたころには13時半を回っており、ふたりともすっかり空腹だ。じっくりメニューを見る時間も惜しいといった様子で、彼らは揃って天ざる蕎麦を注文する。

「天ぷら食うの久しぶりだあ」

 ライトグレーのサングラスをシャツの胸ポケットに引っ掛けたリョウは、早くも口の中をよだれでいっぱいにしている。

 素顔をこうしてまじまじ見ると、本当に母に似ているとチカルは思った。日本人離れした彫りの深い容貌と、健康的な小麦色の肌。しっかりした骨格と高身長は父に似たらしく、彼は両親の秀でた部分を凝縮したような男だ。

 それに比べて自分は、身長と体格以外のほとんどが父に似ている。父は筆で描いたような顔と――周囲の老人はみな口を揃えて公家顔だと言い笑っていた――ミルクのような白い肌をしていた。例えるならリョウはエレガントな芍薬で、チカルは道端でひっそりと風に揺れている鈴蘭だ。姉弟だとは誰も思わないだろう。

「向こうに住んでいると日本食が恋しくなったりする?」

「いや、実はそれほどなんだよ。小さいころからハンバーガーとかピザとかステーキに憧れがあったからさ。14年経ってもまだアメリカの食文化を満喫中」

 憧れる気持ちはチカルにも覚えがある。田舎にはハンバーガーショップもなければファミリーレストランもなく、ピザのデリバリーも配達圏外で来てくれない。学生の頃は、コマーシャルやグルメ番組を見てはうらやましいと思っていた。上京して初めて宅配ピザを頼んで、きちんと届いたときは酷く感動したものだ。

「たまには日本食をと思って、味噌汁とか肉じゃが作ったりはするけどね。でもやっぱり……なんか違うんだよな」

 テーブルの隅に置かれた調味料をあれこれとチェックしながら彼は唸った。

「ところで姉さんは料理の腕上がったの?家事代行の仕事を始めるときに、食事も作れた方がいいから頑張るって言ってたじゃん?」

「ああ……そのこと?」チカルはめずらしく言い淀み、「一通りやったけれど、人には向き不向きがあるってわかったわ」

「つまり諦めたってことか」リョウは大口を開けて笑い、からかうような口調で続ける。「姉さんでも途中で投げ出すことがあるんだね。“失敗しても最後までやり抜きなさい”ってよく俺を叱ってたのに」

「歳をとってわかったのよ。時にはあきらめも肝心だってことが」

「いま担当してる人は食事作ってとか言わないの?」

 チカルはタビトと契約を交わした日のことを思い出す。あの若者も、こちらに料理のスキルがあったならば保存がきくものを作り置きしておいて欲しいと依頼してきたかもしれない。そう考えると申し訳なかった。

「食事は作らなくていいんだって……。だから掃除と洗濯が主な仕事」

「そうなんだ。ならよかったじゃん」

 あっけらかんと言ったリョウの前に、天ざる蕎麦が運ばれてきた。続いてチカルの分も。

「うわあ、これ」彼は箸をつける前から目ざとくそれを見つける。「舞茸だ……姉さんにあげる」

「じゃあ、海老と交換しましょう」

「いいの?」

「今日は特別」

「ありがと!」

 嬉しそうにチカルの皿から海老を箸で取って、

「このやり取り久しぶりだねえ」

 過去を懐かしむようにしみじみと言う。同じく懐旧の念で頷いた姉に満面の笑みを向けると、小皿に用意された藻塩をつけて、くちいっぱいに頬張った。

 リョウは昔からキノコが苦手で、食事に出たときにはいつもこうして交換していた。特に、故郷の村にある蕎麦屋で天ぷら蕎麦を頼んだときのトレードは恒例行事だ。哀感と郷愁とが入り乱れる思いで当時を回想しながら、チカルは蕎麦をすする。

 ふたりはしばらく無言で蕎麦と天ぷらに舌つづみを打っていたが、やがて感極まったような顔でリョウがつぶやく。

「旨い。蕎麦も天ぷらも最高。うちの兄弟にも食べさせてやりたいな」

 その言葉にチカルは視線を上げ、

「ヒロとレイは日本に来たことあるの?」

「ある。一年前くらいかな……ナーコと3人でね。彼女の実家の両親も交えて、あちこち観光してきたみたい」

 ナーコとは彼の妻の愛称だ。本名はナエコで、彼女が幼いころ自分の名前を上手く発音できずにナーコと言っていたことから親族はみんな彼女をそう呼んでいた。リョウは自分の親族と絶縁状態だが、妻側の親族とはいい仲を築いているらしく、今回の帰省で久しぶりに会いに行く予定だという。

「ふたりとも小さい頃は日本に全然関心がなかったんだけどさ。アニメとかゲームの影響もあって、最近は興味津々なんだ。今回の帰国も『パパだけずるい』ってさんざん責められたよ。おみやげをたくさん買って帰らないと一生恨まれそうだ」

「今年で9歳と7歳よね」

 チカルは指折り数えて言う。

「そう。24と26のときの子だからね」

「どんどん大きくなっちゃうな……」すこしさみしそうに微笑んで、「ナエコさんとも一度も会ったことがないし、今度みんなで日本に来ることがあったら連絡をくれる?」

「もちろんだよ。今回連れて来られなくてごめん」

「いいの。あなたに会えただけでじゅうぶん嬉しいわ」

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