本編

第1話

 月をみていた。

 夜のとばりがおりた街は埃に汚れ人影もまばらだ。心身ともに疲弊し鉛のように重くなった体に、12月の乾いた風が絡まっては流れていく。

「おい!タビト!」

 名を呼ばれ我に返り、声の方に顔を向けた。街灯を受けてきらめく黒塗りのミニバンが路肩でゆっくりと停車し、半分ほど開いた車窓から再び怒声が飛んでくる。

「んなとこでなにやってんだ……早く来いって!」

 彼は急いで車に駆け寄ると、薄暗い車内にひらりと飛び乗った。車は低いエンジン音を響かせ、スライドドアが完全に閉まるのを待たず発進する。 

「空なんか眺めてどうしたの?流れ星でも見た?」

「寒い……窓閉めて。そっちも」

「ホズミさーん、明日何時くらいに迎えに来てくれるん?」

 次々と言葉が飛び交う車内には、スナック菓子と甘ったるい香水の匂いが漂っている。

「朝8時にスタジオ入りだから5時から順次迎えに行くよ」

「3時間くらいしか寝れねえじゃん」

 ヤヒロは溜息をつき、不機嫌な顔でスマホをいじっている。定位置を彼に取られ仕方なく別のシートに座ったタビトは、都会の夜景を遠目に見ながら運転席のホズミに訊ねた。

「また俺の家から?」

「いや、寝起きがいい奴のところからにする。今日はおまえがなかなか起きなかったせいで遅刻寸前だったからな。セナ、ヤヒロ、ユウ、アキラ、タビトの順」

「やった!最後だ」

「おまえなあ……。迎えに行くまでに顔洗っておけよ?」

 バックミラー越しにちらとタビトをにらむ。彼は素知らぬふりで背もたれに身を預け目を閉じた。

 ホズミのかすかな溜息が聞こえたきり会話が途切れると、眉間に皺を寄せたままのヤヒロがスマホから視線をあげる。

「明日のスケジュールってどうなってるんでしたっけ?」

「生歌披露後に千葉のスタジオで雑誌の取材と撮影。東京に戻ってMVの打ち合せ。それから事務所でファンクラブ会員向けの動画撮影……解散時間は未定」

「週末のサイン会、寝ちゃいそう……」

 座席の一番後ろ、三人掛けのベンチシートから弱々しい声が聞こえた。アキラだ。うとうとしているのか、先ほどから頭が左右にぐらぐらと揺れている。その横で窮屈そうに座っているのはセナとユウで、それぞれスナック菓子の袋を手に持ち黙々と食べている。

 ――彼らこそ、稀代のアイドルグループと称される「UR・RADウル・ラド」。

 平均年齢21歳。センターを張るタビトの圧倒的な歌唱力と、息の合ったダンスパフォーマンスに定評のある5人組だ。

「うわー……今週末サイン会かよ」頭を抱えてヤヒロが唸る。「なんでよりによってクリスマスなんかにあんなめんどくせえ仕事入れたんすか……浮かれてる奴らの相手すんのダルすぎる……」

「まあまあ、そう言うなって。ファンという名の恋人たちと過ごせて幸せじゃないか」

 ヤヒロの恨み節を涼しい顔でかわしたホズミは大きくハンドルを切り、静まり返ったマンションの車寄せに入る。

「タビト、ついたぞ。起きろ」

 短い夢から醒めたタビトはゆっくりとシートから体を離すと、手探りでバッグを掴み立ち上がった。みんなに就寝の挨拶をし車を降りかけた彼の肩を、背後から叩いたのはアキラだ。

「今夜泊めて」

「えー……」

 さも嫌そうに顔をしかめるタビトに構わず下車すると、アキラはコートの襟元を直しながらホズミに手を振る。

「タビトのところに泊まるのか」

「うん。いいって」

「いいなんて言ってないんだけど?」

 タビトが横から口を挟むも、アキラは聞こえないふりだ。

「迎えに行く箇所が少ない方が俺も助かる」ホズミはそう言うと軽く手を挙げ、「なるべく早く休めよ。おやすみ」

 遠くなるテールランプを、タビトは途方に暮れながら見送る。

「もー……なんだよホズミさんまで」

「ねえ早くロック解除してよ。寒いし眠いし……」

「あのさあ……どうしてそんなに態度がでかいの?」

 タビトは盛大な溜息と共に肩を落とし、共用エントランスのオートロックを解除する。

 高級感のあるモノトーン調の正面玄関を抜けると、ソファやテーブルが等間隔に配置されたロビーが広がる。磨かれた大理石の床は天井から下がるシャンデリアからの淡い光を受けて輝き、さりげなく飾られた観葉植物が無機質な空間に彩りを添えている。

 エレベーターに乗り込んだ彼らはもう軽口を叩く気力もない。滑るように上がっていく箱の中、疲労の滲んだ顔を互いにさらしている。

 それもそのはず――

 昨年末に発売したファーストアルバム「Pool of Bloоdプール・オブ・ブラッド」が爆発的にヒットしてからというもの次から次へと仕事が舞い込むようになり、息をつく暇もない状態が続いていた。事実、彼らは今年一度もまとまった休暇を取れていない。スケジュールは年末までびっしりだ。

「部屋まで遠すぎない?早く寝たいよー……」

「あとちょっとだから……」

 タビトの部屋があるのは15階の角部屋である。住んだ当初は眺めが良くて最高だと思っていたが、今日のように疲れ果てた状態で帰宅する日には後悔してしまう。エレベーターで上る十数秒も惜しい、一刻も早くベッドに入りたいと思いながら今日も重いまぶたをこする。

 寝静まった部屋が並ぶ内廊下をふらふらと歩き、自宅の施錠を解く。扉を開けると同時に家主よりも客の方が先に入り、まるで自分の家のような振る舞いで靴を脱ぎ捨てた。

「奥に行く前に手を洗ってよ」

 靴下を脱ぎつつタビトが言う。言葉を投げた先に立つアキラは淡褐色たんかっしょくの瞳を見開いたまま絶句している。その背中に溜息をつくと、心底うんざりした顔で背中を丸め、バスルームに消えた。

 シャワーを浴びて戻ると、アキラは自分の鞄を枕にして横になり、部屋の隅で寒そうに丸まっていた。足音に目を覚まして、とがめるような眼差しでタビトを一瞥いちべつする。

「散らかりすぎ」

 指摘され、ばつが悪い顔になりながらも彼は、ネットショッピングで購入した商品やファンからもらったプレゼントなどを見渡しつつ唇を尖らせて言った。

「ゴミはちゃんと捨ててるよ。食べたあとの容器とかペットボトルとか……」

「いま、ゴミは捨ててるって言った?」

 上体を起こしたアキラは、近くにあったくしゃくしゃのラッピング袋を掴み、にっこりと笑う。

「――知らないみたいだから教えてあげるけど、これもゴミっていうの」

 部屋の隅に積み上げられた空っぽのダンボール箱。そして袋に詰められたまま捨てられるのを待っている大量の緩衝材たち……腐りはしないが、放っておけばあっというまに空間を占拠してしまう厄介なものを眺めて、タビトは弱々しく笑う。

 しかしひどいありさまだ……アキラは溜息をつき、改めて周囲を見回した。

 散らばっているのはゴミばかりではない。床に直置きされた何種類ものゲーム機、ソファの座面に無造作に置かれた大量の衣類。ローテーブルやリビングボードに山積みになっているファンからの手紙とプレゼント――それらが室内の混沌をますます深めている。これでは洗練された調度品も台無しだ。

 そこかしこに溜まっている埃の塊を見遣って、彼はタビトに視線を流す。そして穏やかな笑みを絶えず浮かべながら言った。

「みんなそれぞれ一人暮らしをしようってなって、ムナカタ社長に相談しに行ったでしょ。そのとき、了承する代わりにって提示された約束事があったよね。ちゃんと覚えてる?」

「もちろん!」

「じゃあ言ってみて」

「――えっと……。マンションの場所が特定できるような写真とか動画をSNSに載せないこと」

「あとは?」

「女性を招待するときは十分に用心すること。相手にプライベートな場面を撮影させないこと。もちろんツーショットなんて論外」

「うん、うん。それもあるね」

 にこにこと笑って頷くアキラ。タビトは必死で社長の言葉を思い出し、続ける。

「いつも部屋はきれいにしておくこと……」

「そうだよ。なんでだと思う?」

「アレルギー性鼻炎が酷くなっちゃうから」

 それを聞いた瞬間、アキラはタビトの胸倉に掴みかかる。鼻先が触れそうなくらい顔を寄せ、嚙み締めた歯の隙間から言った。

「ふざけてんのか?」

「ちょっ……暴力反対!」

「ゴミはご近所トラブルに繋がりやすいから特に注意しろって社長に言われたでしょ。忘れたの?タビト君……」

「覚えてる、いま思い出した」

 小刻みに首を縦に振るタビトに向かいにっこり笑って、

「覚えてるなら……異臭騒ぎとかボヤ騒ぎとか、そういう大変な事態にならないように気をつけなきゃ」

「や、やだなあアキラってば……ボヤ騒ぎなんてそんな大袈裟な……」

「トラッキング火災って知ってる?コンセントに積もった埃が原因で出火するんだよ」

 襟元を捻り上げる力が強くなり、タビトは目を白黒させる。

 アキラは普段穏やかで優しく、雄々しさを感じさせない可憐な見た目も相まってメンバーの目の保養となっているが――その一方、キレると手が付けられない取扱い注意の男でもある。しかも身長180センチ越え。柔道と空手の有段者であることもこちらの戦意を削ぐ。

「わかるよね?俺の言いたいことが」

「わかったっ!もう二度とこんなに散らかさない!」

 たまらず叫ぶと、圧迫感にあえいでいた胸元が解放された。アキラはゆっくりと室内に視線を戻す。

「ひとりでも約束を破ったら連帯責任。また男ばっかりの不便な宿舎生活に戻りたいの?」

 タビトは乱れた服を直しながら、黙りこくって俯いた。宿舎での毎日は確かに質のいい生活とは言えなかったが、それはそれで楽しかったと彼は思う。しかしこの男にとってはもう二度と戻りたくない場所であるらしい。

(宿舎汚かったしな……きれい好きのアキラにとっては苦痛だったかも)

 かつての暮らしに思いを馳せつつアキラを見ると、先ほどの鬼気迫る表情は消えており、近くにあるゴミを空袋に詰めてくれている。

「シャワー浴びてきなよ。アキラが寝られるように、とりあえず今夜はソファの上だけ片づけとくから……」

「あっ。いいこと思いついた」

 彼の言葉に被せて声をあげ、ほとと手を叩いたアキラが振り返る。

「家事代行サービス頼んでみたら?」

「え?」

「仕事がキツくて家のことまで手が回らないって、ホズミさんに相談してごらん。サフェードでいいなら事務所が仲介してくれるし、かなりサービスしてもらえると思うよ」

 株式会社サフェードは家事代行とハウスキーパーの人材派遣や斡旋あっせんを行っている会社で、タビトたちの所属する芸能事務所オフィスウイルドとは長年の付き合いだ。芸能人宅の家事代行を数多く請け負ってきた実績があり、多少の無理が利く。

 アキラは床に落ちているリボンを搔き集めつつ、タビトを見上げた。

「考えてみれば、俺がみんなに一人暮らしを提案したんだったね。もしかしてタビトは、あのまま宿舎生活を続けていたかったの?」

 一拍おいて、タビトは左右に首を振る。アキラはすこしさみしそうな顔で微笑んで、いっぱいになった袋の口を縛ると立ち上がった。

「シャワー借りるね」

 バスルームで汗を流したアキラはタビトから借りた部屋着を身につけ、当然のように彼のベッドを占拠した。やっぱりこうなるか……と諦めの気持ちで、毛布一枚を引きずってソファに横になったタビトは、枕替わりのクッションをいい感じの高さにすることに四苦八苦している。

「アラームかけた?」

 開けたままの引き戸の向こうからアキラの声が届く。タビトはスマホを手に取った。すでに午前2時を回っている。

「何時に起きるの?4時半くらい?」

「すっぴんで行くから5時でいいよ。どうせここに来るのは5時半すぎるだろうし」

 あくび交じりの答えが返ってくる。タビトは言われた通りに設定しながら訊ねた。

「さっきの家事代行の話だけどさ。サフェードに頼んでるメンバーって他にいる?」

「ヤヒロが利用してるよ。家事代行じゃなくてハウスキーパーを斡旋してもらって、家のこと全部任せてるみたい」

「ハウスキーパーって家事代行と何か違うの?」

「家事代行の業務の範囲は限られてるけど、ハウスキーパーは家事以外の仕事も――たとえば子守りとか介護、留守番、送迎……犬の散歩まで、頼めばやってもらえるんだって」

「へえ……」

「とりあえず最初はさ……家事代行のスタッフさんを紹介してもらって、掃除とか洗濯を頼んでみれば?それだけならそんなにお金もかからないだろうし……」

「うーん……でもハウスキーパーもいいな。ヤヒロのとこに来てるスタッフさんってどんな感じの人か知ってる?」

 返事がない。タビトは手の中のスマホをサイドテーブルに置くと、もういちど頭の下のクッションの位置を直す。

 先ほどまでソファに積まれていた大量の服は床に下ろしてある。それはちいさな黒い山になってすっかり薄闇に紛れている。彼はしばらくそれを眺めていたが、やがてまぶたを閉じた。

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