第20話 アメリカシロヒトリ
言葉のパズルが散らばっていた。元々図形を取りそろえる作業は得意じゃないし、部屋の大掃除にも似た取捨選択は忌避的ですらある。
そんな私の頭の中に、みかんさんに言われた数々の言葉が、彼女の声を鮮明に再生しながら並べられている。
家に帰ると真っ直ぐ部屋に戻り、すぐに雨白のチャンネルを開いた。再生リストを古い順にすると、一年前のギアテニ配信のアーカイブが表示される。どれもだいたい十回そこらの再生数だけど、ひとつだけ百回も再生されている動画がある。
その動画を再生すると、すぐにゲーム画面が表示される。今は待機画面を先に表示しておいて、挨拶をしてからゲーム画面を映しているから、こう見るとすごい唐突な始まり方だ。
私が視聴者だったら、絶対に見ないなぁ……。
自己分析しながら、自分の動画を見返していく。分かってはいたけど、うんともすんもとも喋らない。たまに「あ」と掠れた声は聞こえるけど、それを喋りとは言わないだろう。
その動画はおよそ七時間ほどの長さだった。そういえば、ギアテニをやっていたときはだいたいそれくらいの配信時間だった。意識していたわけじゃなくて、夢中になって、朝日が昇り始めてようやく寝なくちゃと思い布団に入っていた。
今はもう、そんな長い配信はできない。考えなきゃだし、疲れるし。そもそも、私はもう……。
進展がないので、動画を適当なところまで飛ばす。すると、動画の四時間あたりのところで、チャット欄にコメントが付いた。
――なんでこんな昔のゲームやってるんですか
ユーザー名は、アルファベットと数字交じりで、おそらくデフォルトのものだろう。アカウントの画像も、初期設定の絵だった。
それからまた、コメントが付く。同じ人からだ。
――誰も観てないですよ
なんか、絡まれてるのかなぁ……パッと見で、そのコメントに良い印象は受けなかった。
だけど、言ってることはもっともで、私はなんて返したのか気になって、動画を続けて見る。
『す、好きなので』
しゃ、喋った……。
自分のことなのに驚く。それにしても、なんでこんなに声掠れてるんだろう。
喋らなすぎて、声帯がカチカチになっちゃってる。
――やめたほうがいいですよ。こんなの悲しいだけです。どうせ後悔しますよ
またコメントが来る。
――好きって無害じゃないです。迷惑なんですよ、そういうの
このコメントをくれた人が誰なのか、どんな人なのか分からないけど、似てるって思った。
私も同じだった。毛虫を好きで、部屋に持って帰って飼っていた。それを見たお母さんは悲しそうで、辛そうで、傷つけてしまった。自分の好きを誰もが受け入れてくれるとは限らない。普通でいることは、なによりも難しい。
でも、それを隠すのがマナーとか、人間関係とか、大人になるとか、そういうものの類いなのかと思っていた。
でも。
『しょ、しょうがないじゃん。好きなものは、好きで、やめるとか、やめないとか、そういうんじゃ、ないもん』
敬語も忘れて、むくれた子供みたいに言ってのける私。
なんてことを言うんだ。リスナーさんのコメントには基本肯定的に、笑顔で、明るく、社交的に親しく返せっていうのが配信者の常識なのに。
顔が青ざめる。
だけど、カッコいいって思った。
空洞じゃない。押しても、叩いても、音が鳴る。きっとこの身が滅びて火葬されたとしても、褪せることなく在り続ける芯のある骨組みが、まるでぐらついた私までもを支えてくれるかのようだった。
動画を見ている最中にお母さんからお風呂に入れと言われたので、急いで脱衣所に向かう。
「後がつっかえているのだから、早くしなさい。
扉の向こうからお母さんの声が聞こえる。
「聞こえてるの?」
「ぅ、え]
返事ができない。声が出ない。言葉の出し方を忘れた。人との関わり方を忘れた。
「うん」
三十秒後に、相槌を打つ。
みかんさんに出会う前の頃に、後戻りだ。親睦会を断ったあの日の、私だ。
湯船に浸かりながら、浴室の電灯をぼーっと見つめる。中に、黒いものが見える。虫だろうか。当然だけど死んでいる。どうして虫は、いつも明るい場所に向かっていくのだろう。どうせ死ぬくせに。
でも、人間だって同じか。いつか死ぬくせに、いつも何かに向かって走っている。
「お姉ちゃん、入るよ」
そんなとき、曇りガラスの向こうに影が見えた。返事する間もなく、胡桃が浴室に入ってくる。
私はビックリして、湯船から半分身体を出す。胡桃は素知らぬ顔で、頭を洗い始めた。
胡桃と一緒にお風呂に入るのは、小学生ぶりだ。背も伸びたし、性格も大人で、聡く、自慢の妹。だけど、あぐらをかいて髪を洗うのは昔から変わっていない。
あれだけやめたほうがいいって、注意したのに。
「わたしさ、リンスをシャンプーと間違えて、使いまくってたときあったよね」
胡桃が水をかぶりながら、昔を思い出すように話す。
「リンスの減りがおかしいってお母さんが怒ってさ、あのときわたし、怖くてなんにも言えなかった」
そういえばそんなこともあった。十年くらい前だろうか。お互い、まだ鼻水を垂らしながら走っていたときのことだ。
「そしたらさ、お姉ちゃん急に飛び出してきて『私ですごめんなざい!』って言ったじゃん」
「そ、そうだっけ」
「うん。でも、大泣きしながら言うもんだから、お母さんも困っちゃって。わたしが『お姉ちゃんじゃない』って言おうとすると、お姉ちゃん何言ってるかわからないくらい叫ぶしで、結局うやむやになったけど、あれ、庇ってくれてたんだよね」
泡が流れ落ち、排水溝に流れていく。汚れを落として、潤いを帯びた胡桃が、髪をかきあげてこちらを見る。
「もうちょっと寄ってよ」
胡桃が湯船に入ってくる。
向かい合おうとするも、お互い、身体が大きくなってしまって湯船に収まらなくなっていた。しかたなく、私が胡桃を抱っこする形になった。
「お姉ちゃん、配信やめたの?」
胡桃の方から配信について聞いてくることはあまりない。いつも私がしたいと言うと、胡桃は淡々と用意をしてくれていた。
そんな胡桃が、踏み込んできた。
「だって、パソコン壊れちゃったし」
「まぁ、あれはもうダメだね。元々友達のお父さんの自作PCを譲ってもらったやつだから。友達に聞いてもらったけど、修理は部品がないからできないってさ」
「そ、そう……じゃあ、ダメだね」
「スマホでも配信できるよ。イラストは動かせないけど、縦画面で配信できるってメリットもあるし、需要もあるんじゃない?」
ちゃぽんと、水の中に手を落とす。胡桃の体重は、浮力が肩代わりしてくれている。だから支える力はなくていい。
「喋り方、わすれ、忘れちゃって」
「だよね、最近、おかしいもん。どもり癖も治ったと思ったのに。でも、配信してないから喋れなくなったわけじゃないでしょ? お姉ちゃん、ここのところ家でも、学校でも、なんだか楽しそうだったし。もしかして、友達?」
「み、みかんさん」
その名前を口にすると、焦燥感に貪り食われそうになる。
「学校に、こなくて」
「そうなんだ。体調不良?」
「って、先生は言ってるけど、たぶん……」
胡桃にみかんさんとのことを一通り話した。胡桃は黙って聞いてくれていた。時々手で水をすくって、顔を洗っていた。
浴室は声が響いて、自分の声が返ってくる。ひどい、怯えた喋り方だった。
「配信、もあるけど、そうじゃなくって。ここ最近はずっと、人間でいられた気がするの」
みかんさんと知り合って、登録者数十万人目指そうなんて目標を立てて、配信活動を頑張ってきた。でも、私にとってそれはそこまで重要じゃなくって。
みかんさんと出会うことで、みかんさんという友達ができて、みかんさんのおかげで一歩前に進むことができて、クラスの人たちとも仲良くなった。体育祭では私に頑張ろうって言ってくれたし、転んだ私にも「気にしないで」って優しく声をかけてくれた。
私はたしかに、この二ヶ月間、この世に存在していて、それを許されていた。
だからたくさん喋った。嬉しくて、伝えたいことがあって、下手くそだけど、私なりの言葉を必死に紡いだ。
そんな日々が楽しくて、どうしようもなく、眩しくて、目を細めることを、やめられない。日差しの下で、私は過ごしていたんだ。
「そんなみかんさんを、傷つけた」
視界が歪んだ。
汗と涙が、湯船に溶けていく。拭わなくても、ここでなら思う存分流せる。
「数字ってさ、生きている以上はどうしても付き纏うものだよ」
私が泣いていることに、胡桃は気付いていないだろう。だけど、声を出したらきっと震えてしまう。私は返事をしなかった。
「人と比べたり、一番上を見上げちゃったりして、自分がどうしようもなく無力に見えて絶望して、その日のメンタルによっては全部投げ出してやるって思っちゃうのも、当たり前にあるものだよ」
胡桃がぎゅっと身体を縮こめる。そのときだけは、小学校の頃の、胡桃の抱き心地だった。
「わたしもそうだった。将来はイラストレーターになるんだって息巻いてたけど、周りの評価とか、界隈での振る舞いに疲れてアカウントも消しちゃった。その途端にさ、絵を描くこともつまらなくなって、苦痛になった。結局、わたしは絵を描くのが人より得意で、その得意なもので認められたかっただけなんだ。承認欲求の化け物だね」
自虐的に言う胡桃だけど、私にとってはそうやって自分だけじゃない周りのことも鑑みることのできる胡桃はすごいと思う。
「でもさ、お姉ちゃんは違うよね。お姉ちゃんは、全然人からの評価とか、気にしてなかった。一年も同じゲームの配信してさ、どれも再生数は十回もいかないのに。それでもお姉ちゃんはやめなかった。たしかにコメントはあんまりこなかったかもしれない。まぁ、お姉ちゃんって、性格悪いし、人に好かれたり、愛されたりするような人じゃないから」
「ひ、ひどくない?」
さらに泣きそうになった。とんだ誹謗中傷だ。
「でもさ、憧れちゃうんだよ。お姉ちゃんみたいな人って」
好かれないのに、憧れ? まったく繋がらない。
「しんどいときとか、どこを目指せばいいのか分からなくなったときってさ、正解がわからないんだよ。でもお姉ちゃんを見てると、これでいいんだって思える。やり遂げることとか、自分に従う生き方とか、そういうの。触発されるっていうか、一種の感動さえ覚える。別にコメントしたり、仲良くなろうとは思わないかもしれないけどさ、お姉ちゃんのギアテニ配信は、そのみかんさんも含めて、いろんな人の背中を押したと思う」
「そ、そんなこと、ないよ……私なんて」
「あのね、何年お姉ちゃんのこと見てきたと思うの? どんなリスナーよりも、お姉ちゃんのことを知ってるのはわたしだよ」
それは、そうに決まってる。だって胡桃は妹だし、十六年、赤ちゃんのときから一緒だったんだから。
「だから分かる。あの日、お母さんからわたしを守ってくれた日から、お姉ちゃんにはそういう力があるって信じてた。だから配信を勧めた。わたしみたいに、救われる人がいるんじゃないかって。そんな力があることに、お姉ちゃんも気付いてくれるんじゃないかって」
「か、買いかぶりすぎだよ。だって私、配信頑張ってみたけど、全然だったし……誰も観てくれなかったし、コメントも、全然来なくなっちゃったし」
「あのねお姉ちゃん、お姉ちゃんはどうせ人付き合い下手くそなんだから、リスナーさんと仲良くしようなんて思わなくていいんだよ。数字だって気にしちゃだめ。お姉ちゃんにそんな器用な真似はできない。実際、お姉ちゃんの配信って、数字を気にし始めてから面白くなくなったし」
「う……」
少しだけ心当たりがあった。最初に比べて、数字を気にするようになってからおっかなびっくりになったり、思ったこともリスナーさんの気持ちを配慮して否定的なことは言わないようにしていた。そうやっていろんなものを制御していたら、いつもみたいに話せなくて、それで……。
「でも、みかんさんは、そんなこと言ってなかったよ」
「お姉ちゃんのこと好きなんでしょ。好きな人の配信に文句なんか言うわけないじゃん」
「なんで、私、なの」
どれだけ言葉を重ねられても、それだけが理解できない。みかんさんは私にはもったいないくらいの人だ。眩しくて、優しくて、明るくて、いつでも手を引いてくれるような人だ。そんな人が私を好きな理由なんてどこにあるというのだろう。
「お姉ちゃんがそれ言う? 分かってるくせに」
そう、胡桃の言う通りだ。私は分かってる。昔からずっと、知りたくもないのに知っていた。ただ壁にぶつかるのが怖くて逃げ道を探してる。腰をあげるのが億劫で、挑戦が苦手で、失敗が怖い。
習い事も全部、そうやってやめてきた。だから今回も一緒だって、それでいいはずなのに。
「好きって言うのは」
「やめられるものじゃない」
自然と口が動いていた。それと同時に、私は湯船からあがって浴室を出た。身体を拭くこともせず、私はびしょ濡れのまま自分の部屋に走った。
好きだけど、好きになってはいけない。だから好きを諦める。
その辛さと苦しさがどれだけのものか、私が一番分かってるはずなのに。
アメリカシロヒトリ。
私はまだ、未練を断ち切れずにいる。諦めたことなんか一度もない。怖いけど、諦めたくないから、私は私に『雨白』なんて名前を付けたんじゃないか。
「お、お姉ちゃん! 水、水!」
慌てた様子で胡桃がタオルを持ってくる。
「胡桃!」
「わ! ビックリした!」
「スマホで配信する方法、教えて!」
汗なのか、涙なのか。ただの水なのか分からない。タオルを絞るみたいに、様々なものが指先から垂れていく。
濡れたスマホを受け取ると、胡桃が困ったように肩を竦めた。
「まず、服着たら?」
私は雨白だ。
まだ、
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