廃団地の少女(2/2)

川畑さんに急かされ、こそこそとバリケードを跨ぐ。

敷地内の街灯に明かりは灯っていなかった。黒色のセロファンで視界を覆ったかのように、目に入るもの全てが暗色で塗られていた。十メートル先の景色は殆ど闇と一体化していた。


「山田よ。これを使うんだ。私は夜目が効く」

後ろに立つ川畑さんから差し出されたものは懐中電灯だった。グリップを握りスイッチを押してみると、丸い光が強烈に闇を暴く。これは片手に収まる大きさながら、数十メートル先まで照らすことができる優れものだった。

頼れるアイテムの登場に私の気持ちはわずかに軽くなる。


歩みを進めると、入り口近くに案内看板を発見した。

敷地内の地図が記されているようだが、水色のグラフィティアートで上書きされていた。空気がパンパンに詰まったようなフォントで、かろうじて英語が書かれているということは分かる。

看板の足元には空き缶やタバコの吸殻が散乱していた。どうやら訪問者は少なくないようだ。

案内図の左手には公園が附置されていた。遊具には茶色い枯れ葉が降り積もっている。その塗装の剥げたブランコや滑り台は、今も子どもたちの来訪を待ち続けているように見えた。


案内図の先に団地郡が広がっていた。コンクリートの道路を挟んで、左右に四棟ずつ並んでいる。

出入り口から最も近い場所の左側に立つ団地は、外壁の側面にアルファベットのAの文字が刻印されていた。そして右側の団地にはBと記されている。これが棟を区別しているのだろう。

すなわちH棟は敷地の最奥にあるようだ。私は頭を抱えたくなった。今すぐにでも此処から帰りたいのに、此処から最も遠い場所を目指さねばならない。


「ほらほらー。どんどん歩きたまえよー」


「わ、分かりましたよ」


背後から能天気な声が聞こえる。この状況で落ち着いていられる川畑さんが羨ましかった。

懐中電灯の光をなぞって、重い足取りで進む。夜の静けさ、風の冷たさを受けて自然と口数が減る。青々と茂る雑草の中から虫の声が聞こえる。団地に人は住んでいないにも拘らず、方々から視線を向けられているような気がする。すぐにでも団地群を抜け出したくなり、今度は自然と足早になってしまった。自分の足元だけを見つめ、早急に目的地を目指した。

H棟は他の棟と同じ外観をしていた。しかしどこか不気味さを放っているように感じられる。噂を知ってバイアスがかかっているのだ。

吹き付け塗装の外壁は長らく雨風に晒され続け、土埃で薄汚れている。部屋は全てレースカーテンが閉めきられており、中の様子を伺い知ることはできない。棟の側にはネットがくたびれたゴミ捨て場があり、吹き溜まりに枯れ葉が集まっていた。


「うむ、そろそろ時間だ」

"少女の死亡時刻である午前二時二十一分に団地H棟を見上げると、少女の霊が姿を見せるという。"

川畑さんは腕時計に視線を落として頷いた。二人並んでH棟のベランダ側に立つ。例の時刻まで既に一分を切っていた。心の底から沸々と不安が湧き上がってくる。

平静を取り戻すために、私はゆっくりと呼吸を繰り返した。丹田の位置を意識しつつ、鼻から冷えた空気を吸い込む。そして吸気よりも長い時間をかけて、口から息を吐く。これまで試合中に何度も繰り返してきた、身体に染み付いた呼吸法だった。しかしこんな形で役に立つだなんて夢にも思っていなかった。

川畑さんがカウントダウンを始める。『廃団地の少女』は、どうか作り話であってほしい。私は心に強く祈った。


「三、二、」

一と同時に意を決して懐中電灯の明かりを高く掲げる。矢印に幾本ものトゲが生えた見た目のテレビ用アンテナ、すり鉢型の衛星放送用パラボラアンテナ、円柱型のくすんだ給水塔……。そして空に散在する星々の輝きが可愛らしい。


「……いませんね」

屋上に人影は見当たらない。噂は作り話だったのだ。私はひとまず胸を撫で下ろした。

しかし川畑さんは眉間に皺を深く刻み込み、未だ団地を見上げ続けていた。視線を端から端まで繰り返し往復させ、いかなる異変を見逃すつもりはないようだ。

続いて自身のスーツのポケットからシルバーカラーのデジカメを取り出した。シャッターを押す度に暴力的な眩しさの閃光が放たれる。

川畑さんは様々な角度から団地の全景をカメラに収めつつ、ぶつぶつと独言を漏していた。


「まだ団地が利用されていた頃の話である。家族と暮らしていた当時十四歳の少女は、学校でのいじめを理由に自死を選択してしまった。深夜に自分の部屋を抜け出し、四階建ての団地の屋上から身を投げた……」


それは少女に関する噂話だった。


「なるほど、すなわち……」

川畑さん納得した様子で頷くと、カメラを地面に向けた。つられて私も視線を落とす。

僅か三メートル先、うつ伏せで倒れている人間の姿があった。顔は地面に伏せられているが、服装と髪型で女性であることは想像がつく。

元は純白であろうセーラー服はどす赤い汁気をたっぷり含み、懐中電灯の光を浴びててらてらと照っていた。肩まで伸びた黒髪からも赤い液体が滴っている。四肢は関節に逆らう形に折れ曲がり、それぞれが別の方向を指し示していた。


「素晴らしい……!!!」

川畑さんの声は喜びに震えている。

音もなく現れたその少女が生きている人間ではないことは、素人の私でもすぐに理解できた。心臓の鼓動が痛いほどに激しく跳ね上がる。

今すぐにでも逃げだしたい。しかし噂が真実だったからには、スクープを掴まねばならない。さっさと結果を出して、こんな編集部から異動してやるのだ。今日だって私の運転で来たのに、ガソリン代は一円も支給されないし。

夢を誓い怯える気持ちを奮い立たせ、私は霊に向き合った。


少女の霊は突っ伏したまま、右に左に連続して折れている腕を振り上げる。勢いよく振り下ろすと地面に指を突き立て、両腕の力だけで自身の体を引きずり移動を始めた。掠れた血の跡が地面に残る。下半身は力が入らないように見えた。その動きは緩慢だが、確かに私の方に近付いてきていた。鉄の匂いが鼻をくすぐる。

徐々に少女の頭がもたげる。眉まで伸びた前髪の先から血が滴り落ち、地面に丸い模様を残す。

私は露になっていく少女の表情に目を奪われた。怒りか、悲しみか。霊と化した少女は今現在、何を想っているのだろうか。


「山田よ。霊とは目を合わせないように、ゆめゆめ注意したまえ」


咄嗟に目を逸らす。視界の隅に生気を失いひび割れた、青白い唇がちらついていた。その口はほんの僅か上下に動いており、私たちになにかを伝えたがっているように見えた。



「うむ、真偽の確認は完了した。撤収するぞ」

川畑さんは少女から顔を背けたまま、最後に一度だけシャッターを押した。そしてデジカメをポケットにしまうと、出入り口の方向へと駆け出す。私は慌てて後を追った。


「ま、待ってくださいよ!」


「許……い……」


恐らく少女の幽霊だろう。腹の底から轟くような、しかし消え入りそうな、背反した声が背中越しに届く。

私は決して振り向かず走り続けた。地面を蹴りあげる度に、足元を照らす懐中電灯の光が激しく揺れる。パンプスのエナメル素材が足を硬く締め付ける。出入り口のバリケードがゴールラインのように見えた。勢いをつけてハードル走の要領で飛び越えた。敷地から脱出した私は膝に手を突き、乱れた息を整える。


「ぐぇあっ!」

車に轢かれたカエルのような声が聞こえた。振り向くと川畑さんが仰向けに倒れていた。どうやらバリケードに足を引っかけて転倒したらしい。


「か、川畑さん? 大丈夫ですか?」


「うむ……。ここまで来れば……安全だろう……。地縛霊は……死亡した土地から……離れることができない……」

その言葉を聞いて無事に逃げおおせたことを確信した私は、今度こそ胸を撫で下ろした。


「いや、そうじゃなくて……転んで怪我はしてないですか?」

川畑さんはこの寒空の下で顔中から大汗を流し、短い口呼吸を繰り返していた。川畑さんの体力の無さは読書好きの女子小学生に匹敵するのだ。

川畑さんの指示を受けて、私は近くの自販機でジュースを買った。サイダー缶を三本も空にして、川畑さんはようやく元気を取り戻したのだった。


「定められた時刻に屋上を見上げるという行為は、降霊の儀式だった。実際に幽霊が姿を現す場所は屋上ではなく、命を落とした地面だったというわけだ」


コインパーキングに停めてある社用車の白いプロボックスに乗り込み、高速道路で帰路を辿る道中、助手席の川畑さんは解説を始めてくれた。

曰く、少女の幽霊は最初からあの場所にいた。定められた手順を踏まえたことで、霊感の無い私たちでも霊の存在を五感で認知できるようになったのだという。


「あの幽霊、『許してください』って言ってました……」

団地から逃げる際に聞こえてきた少女の言葉は、今も私の脳にこびりついていた。

許してください。その哀願の言葉は、誰に向けられたものなのだろう。少女をいじめていたクラスメイトたちに向けた願いの言葉か、残された家族に向けた先立つ不考を謝罪する言葉か、いくつもの悲しい想像が頭に浮かんだ。


「うむ。記事は書けそうだ。写真の出来はどうだろう?」

川畑さんはポケットからデジカメを取り出すした。私も横目で眺めてみると、血にまみれた少女の霊の姿がありありと画面に写し出されていた。肉眼で見るよりはまだマシだが、あまり眺めすぎていると夢に出てきそうだ。


「おっ! この一枚はベストショットだ! 山田よ、これだけでも見てくれたまえよ!」


「危ないですよ! 運転中なんですから……」


ハンドルを握る私の視界にデジカメが挿入される。

その写真は降霊の儀式を行ったあとに撮影された一枚だった。

フラッシュの光を浴びた団地の全景が枠内に収められている。そして地面から無数の腕が生えていた。フラッシュを浴びても、なお黒さを保ったままでいる。その長さは様々で、中には屋上に届くほど高く伸び上がっているものもあった。


「な、なんですかこれ……? あの幽霊と関係あるんですか……?」


その写真を見た私は、ただただ戸惑うことしかできなかった。


後日、私たちは廃団地を再訪した。

敷地を囲む形で二メートルほどのガードフェンスが配置されており、中に侵入することはできなくなっていた。フェンスには『安全第一』と書かれた目隠しシートが掛けられており、中の様子を覗き見ることもできなかった。どうやら解体作業が開始されるようだ。


あの黒い手の正体はなんだったのだろうか?

少女は本当に自死だったのだろうか?

「許してください」という言葉は誰に向けられたものだったのだろうか?

全ては謎のままである。


「Mystical Mysterious……そそるねぇ」


廃団地の入り口に立つ川畑さんは、満足げな笑みを浮かべていた。

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