第8話①

 くっきりと浮いた隈を消すコンシーラー、陶器のような肌を演出するためのファンデーション、血色をよく見せるチーク。


 テーブルだけを見たら、今どきのOLが住んでいそうな空間になった。――この家には野郎が二人しか住んでいないはずだが。


「なあ、これって本当に必要あるか?」


 美夜はウィリアムにアイシャドウを塗られながら呟いた。


「『ポラリス』は男子禁制なんだから必要デショ」


 真剣に化粧を施すウィリアムは、さながらメイクアップアーティトだ。


 美夜は黒のフリルがふんだんに使われたロングスカートを持ち上げる。前回から改良されているのか、パニエを履くとボリュームが増していた。


 袖が風船のように膨らんでいるシャツも、以前よりも着心地がよくなっている。付いているボタンも見るからに高価そうだ。


 そして、今回初のアイテムが追加されていた――腰を締め上げるコルセットだ。


「……なあ、ウィリアム。前よりバージョンアップしてないか?」

「もちろんデショ! 美夜がより快適に美しく着飾れるように改良に改良を重ねてもらっているヨ!」


 ウィリアムは美夜に化粧を施しながら、服について細かい説明を続けた。


 今回はジャボが胸元に着いているせいで、更に煩わしさが増えたような気がする。しかし、ウィリアムは楽しそうだ。


「俺さ、もう二度と女装はしないって言ったじゃん? なんで新作が出てくるんだよ」

「ミヤの『しない』は詐欺みたいなものデショ? 僕くらいになると、先読みができるようになるヨ」


 絵はもう二度と描かないと言いながら、もう一度筆を取った手前、美夜は反論することができなかった。


 美夜とウィリアムの会話を聞いて、ユキが肩を揺らして笑う。


「あの金持ちの女性って、美夜さんだったんですね……」


 ユキが呟いた言葉に、美夜は硬直した。


(そうだ……。ちょうど同じ日に『ポラリス』にいたんだった……)


 一気に羞恥心が増す。美夜はなんと返事をしていいかわからず、苦笑を浮かべた。


「美夜さんが来た後、ショウくん『太客がついた』ってすごい浮かれちゃって。そのあと一回も来ないから焦っちゃったみたいです」

「それで、あんたやレイコに風俗を勧められたわけか」


 美夜が一晩で気前よく豪遊したことが、こんな結果を生むことになろうとは。


「はい。レイコさんとか、他の被りの子たちへの色恋営業もひどくなって……」

「俺のせいだな。……悪い」


 美夜は頭を掻こうとして手を止めた。今は女装中でウィッグを被っているのだ。もし、気分で頭をガシガシとやれば、セットを頑張ったウィリアムが叫ぶだろう。


『ポラリス』でもう少しおとなしくしていれば、ショウに関わっている人が不幸にならずにすんだかもしれない。そう考えると、胸が痛む。


「いえ。美夜さんがいなかったら、多分、まだショウくんのために『ヴィーナス』で働いていたと思います。遅かれ早かれこうはなっていたと思うので、早く本性が知れてよかったんですよ」


 そう言ったユキの顔は、少しだけ寂しそうな色を帯びていた。


「今日は思いっきり暴れてやろうぜ」

「はい。楽しみです!」


 美夜とユキは拳を突き合わせた。



 ◇◆◇



 ホストクラブ『ポラリス』の開店時間に、美夜とユキは二人でショウの元を訪れた。ウィリアムも美夜の隣にしっかりと立っているのだが、ユキにはまったく見えないらしい。


 家を出るときに「そういえばウィリアムさんはどこに?」とユキから尋ねられたときは、ホラー映画を見たようなおそろしさがあった。


 ユキも消えた瞬間はわからないらしい。気づいたらいなかったが、それがいつからなのかはわからないのだと言っていた。


『ポラリス』の扉を開くと、慌てたようにショウが美夜を出迎える。


 まるで主人を見つけた犬のように目を輝かせたときは、ついうっかり足が出そうだった。


「姫~。来てくれたんだ! もう来てくれないかと思ったよ~」


 ショウは美夜の手をとり、満面の笑みを浮かべた。手を取られた瞬間、美夜の全身に鳥肌が立つ。彼はユキを見つけて目を丸めた。


「え? ユキ、なんで?」

「ユキが一緒に行こうって誘ってくれたの」


 美夜はショウの手からするりと逃げると、ユキの後ろに逃げる。自分で出した裏声に恥じらう余裕はまだあった。


「ユキと姫って知り合いだったんだ?」

「まぁね。今日は二人一緒でもいいでしょ?」

「もちろん。さあ、こちらへどうぞ」


 ショウは美夜の隣に腰掛けた。ユキの隣にヘルプの男を座らせる。わかりやすい特別扱いだ。


「俺、姫が来てくれなくてずっと寂しかったよ~。電話も通じないしさ」

「あ~……。電話番号間違えちゃったのかもね」


 前回、連絡先を交換しようと言われて、適当な番号を教えたのを思い出す。まさか二度もくることになるとは思っていなかったので、仕方ない。


「もう会えないかと思って寂しかった」

「はは……」


 全身の鳥肌が止まらない。そして、嫌悪感に溺れてしまいそうだった。


「ミヤ! 嫌なのが顔に出てるヨ。スマイル、スマイル」


 ウィリアムが美夜の前で笑みを浮かべる。彼はわざとらしく人差し指で頬を押し上げて見せた。


「姫、大丈夫? もしかして体調悪い?」

「……え?」

「苦しそうな顔してるからさ」

「あはは……。ちょっと緊張してるのかもね」


 美夜はウーロン茶を一気に煽った。氷が歯にぶつかって冷たい。


 グラスにできた唇のあとが自分のものではないような気がして、妙な気分だ。


 女はどうして口紅なんて面倒なものを唇に塗るのだろうか。アイシャドウやマスカラと違ってすぐに取れてしまう。


 美夜はグラスについた口紅を拭いながら、隣を見る。ユキが唇を噛みしめて足元を見つめていた。ペルプの男がどうにか話題を振っても、返事をすることもできないようだ。


「そろそろ場所チェンジしよう。ユキだってショウくんと話したいだろ?」

「えっ……と。うん。そうだね」


 美夜の提案にみんなが従った。美夜の隣にはヘルプの男が座り、ショウは渋々と言った様子ユキの隣に移動した。


 ユキはぎゅっと手を握り絞める。拳が震えていた。ショウは痺れを切らしたのか彼女が話し出す前に口を開く。


「ユキはいつ美夜姫と知り合ったの?」

「えっと……。十二単捜しをしているときにたまたま……かな」

「へぇ。そんな不思議な縁もあるんだ」


 ショウは満面の笑顔を美夜に向ける。この男はどうしても、美夜と話をしたいらしい。美夜は二敗目のウーロン茶を飲みながら愛想笑いを返す。


 ユキは顔を上げて、ショウの目をしっかり見た。手は震えているし、顔は緊張で強ばっている。だが、前髪の隙間からちらりと見えた目は、しっかりと自分の意志を持っていた。


「ショウくん、わたしね……。実家に帰ろうと思うの」

「は? 聞いてないけど」

「うん……。今日決めたから。夜の仕事なんてわたしには合わなかったし……。実家に戻って一からやり直そうと思う」


 彼女は言い切ると、震えた手でグラスを持つ。カラカラと氷がぶつかる音が響いた。


「そんな、俺のこと捨てるの? ほら、今の店が合わないなら、もっと合いそうなところ一緒に探すし」

「ごめん、決めたことだから」


 ショウはわかりやすく狼狽していた。しかし、ユキの意志は固い。どんなにショウが止めても、ただ頭を横に振った。


 席の周りに重い空気が流れる。沈黙をかき消そうと、ヘルプが慌てて声を張り上げた。


「ユ、ユキさんがもうウチに来なくなるなんて寂しくなるっす! ほぼ毎日来てたじゃないっすか! 実家が飽きたらまた遊びに来てくださいっす」

「そうだよ、ユキ。俺、待ってるからさ」


 ユキは来るとも来ないとも答えはせず、曖昧に笑った。ショウと会話をすることを諦めたのだろう。


 美夜は息を吐き出し、気合いを入れるために両手を叩く。


「よし! ユキの門出を祝って、シャンパンでも入れようかな」


 意味深に笑うとユキは目を丸める。ショウとヘルプの男がワッと湧いた。


「さすが姫さん、太っ腹っすね!」

「姫、俺のためにありがとう」


 ショウが瞳を潤ませて美夜の手を取る。せっかく落ち着いた鳥肌が顔を出した。


(おまえのためなんて一言も言ってないし……)


 ユキのためではあるが、ショウの成績になるので間接的にはショウのためという解釈は、あながち間違いではないのかもしれない。


 美夜は頬を引きつらせながら、高級なシャンパンを二本注文した。


 長いカタカナの名前を並べられながら、ケースから出されたシャンパン。いかにも高そうな面構えだ。ユキはそれを見て狼狽した。


 開封されたシャンパンのボトルをヘルプの男から奪うと、美夜は立ち上がった。


「今日は友人のユキの門出を祝して」


 美夜は大きな声を張り上げた。そして、ショウを見下ろす。


 これから美夜がすることにも気づかず、ショウは呆けた顔で美夜を見上げ、手を叩く。


「ショウくん、シャンパン、大好きだろ? だから、浴びるほど飲ませてやるよ」


 美夜は持っていたシャンパンを傾けた。

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