第7話③

 毎日見続けた夜の街と十二単のオンナ。美夜の脳裏にはしっかりと刻み込まれている。美夜はその記憶を辿って、木炭を使い直接キャンバスにデッサンを施していった。


 美夜の眼を通して見た世界がキャンバスに浮き上がっていく。


 それは、けっして写真で撮っても現れない嘘偽りのない世界。


 十年以上、美夜が見ることを拒んでいた世界だ。


 夜という魔物の中にぽっかり浮き上がるネオンの街。一つ一つ輝きは命が宿っていた。夜に生きる人とヒトが交わり合い、一つの大きな怪物ができあがる。


 一番街のアーチが、怪物の口のように人ビトを飲み込んでいく。


 美夜はそんな夜の街の真ん中に、麗しい十二単のオンナを描いていった。アスファルトにまで届く長い髪。


 夜明けを思わせる紫紺しこん唐衣からぎぬと、袖から伸びる梅重うめがさね。裳をはためかせ、紅の長袴を引きずり歩く。


 その表情は憂いを帯びて、一人の女性に向けられていた。


 どこか物憂げに、想いを伝えられないもどかしさを持って、ただ、見つめるばかり。


 真一文字に口を結び手紙を握り絞める女の肩は、強ばっていた。


 隣の十二単のオンナの想いにはまったく気づかず、ただ真っ直ぐ前を向いて、怪物の口に飛び込んでいく。


 美夜は息を吐き出した。


 嘘偽りない、美夜の見る世界。百号のキャンバスに描かれた、美夜にだけ与えられた真実。


 胸がざわついている。


 早く誰かに見せたくて、美夜は急いで部屋を出た。


 そして、家の主の名を呼んだ。



 ◇◆◇



 美夜は一番街のアーチの下で、ユキの腕を掴んだ。ストーカーのようだなと思ったがこの方法しか思いつかなかったのだ。


 ユキのことは『ヴィーナス』で働いていることと、『ポラリス』のショウの幼馴染みであること以外に何も知らない。


「み、美夜さん!? なんで……?」

「あんたに見てほしいものがあるんだけど……時間作れないか?」

「で、でも……私、今日はこれから仕事で……」

「なら、時間があるときにここに来てほしい。昼でも夜でも構わないし、強要はしないから無視してくれてもいい」


 美夜はユキの手に住所を書いた紙をねじ込むと、返事を聞く前に踵を返した。ウィリアムが美夜の後を着いて歩きながら、首を傾げる。


「ミヤ、いいの? 来ないかもしれないヨ? せっかく凄い絵が描けたのに!」

「いい。知らないなら知らないままでも。これは俺のエゴだから」


 あとは、彼女次第。彼女の人生は彼女が決めるものだ。美夜は、選択肢を一つ増やしたに過ぎない。


 もしかしたら、見ないほうが幸せだってこともあり得るのだ。





 ユキが美夜の元を訪れたのは、それから三日後のことだった。


 太陽がさんさんとリビングルームに降り注ぎ、暑さに負けてロールスクリーンを下ろして二人でドラマを見ているときだ。


 後からコンシェルジュに話を聞いたところ、美夜の顔を見るまでユキは終始挙動不審だったという。


「あ、あの……。ここに住んでいらっしゃるんですか?」

「俺は居候だけど。こちらが家主のウィリアム」


 ウィリアムは白い歯を見せ、微笑んだ。完全によそ行きの顔だ。


「ハァイ! ユキちゃん、よろしく」

「よ、よろしくお願いします」


 ユキは呆けるようにウィリアムを見上げたあと、頬を真っ赤に染めた。彼を見たときの女性の反応は大抵同じだ。


 ウィリアムほどのイケメンだと、理解するまでに時間が掛かるらしい。


 エプロン姿のウィリアムが「コーヒーと紅茶どっちがいい?」と聞くころになって、ようやくユキは自身の目的を思い出す。


「あの……見せたいものって何ですか?」

「そうだった。こっち」


 美夜は真っ直ぐアトリエへと向かう。美夜の寝室の隣にある部屋だ。扉を開けた瞬間、油絵の香りが出迎える。


 部屋に入った途端、ユキは立ち尽くして美夜の絵画を見つめた。


「これって……」


 一歩、また一歩とゆっくり近づく。震える指先が十二単のオンナを指す。


 美夜が何か言う前に、ユキの目から涙があふれた。彼女は慌てて袖で拭っていたが、なかなか涙は止まらない。美夜は、ポケットのハンカチを「これも返さなくていい」と言って、差し出した。


「す、すみません。この絵を見たら急に涙が出てきて……」

「まさか泣かれるとは思わなかったから驚いた」


 美夜は「すごい」「きれい」あたりの言葉を予想していた。まさか、泣かれるとは思ってもみなかったのだ。


「これ、美夜さんが描いたんですか?」

「ああ」

「これって、前に言っていた十二単のオンナの人ですよね?」


 ユキの問いに美夜は静かに頷く。


「隣は……わたし?」

「ああ。君だ。事後報告で悪い。モデルにさせてもらった」

「いえ……。実はこの十二単のオンナ性、私が昔持っていた人形によく似ているんです」

「人形?」

「はい。お母さんが作ってれたんですけど、高校生のときにお祖母ちゃんに捨てられちゃって……」


 彼女は言い終える前に悲しそうな笑みを浮かべる。あまりいい思い出ではないのだろう。


「この十二単のオンナはずっとあんたのことを見守っている。あんたを見る目がいつも寂しそうなんだ。俺はそれをただ見せたかっただけだ」

「あの……もう少しここで、この絵を見ていてもいいですか?」

「どうぞ。ご自由に。俺はリビングルームにいるから終わったら声かけて」


 ユキは絵の前に正座して座ると、まっすぐ絵を見つめた。


 こんな風に絵を見てもらったことがかつてあっただろうか。


 嘘で塗り固めた絵はいつも「写真みたいで綺麗だね」と言われてすぐに見向きもされなくなった。


 この絵はただ美夜が見ているまま描いただけだというのに。


 美夜は思わず頬を緩めた。


「ミヤ、ニヤニヤしちゃってあやしいヨ~。もしかして、恋!?」

「うるさいし。違う」

「ミヤはつれないナァ~。ユキちゃんは?」

「絵を見てる」

「ワォ! あの絵のよさがわかる子だ!」


 ウィリアムは美夜以上に声を弾ませた。


 ユキがあの絵に何かを感じてくれたのだとしたら、画家冥利につきる。彼女が一時間も絵を鑑賞していたことは誤算ではあったが。


「あの……。長時間、ありがとうございました。なんとお礼を言っていいか」

「俺はただ絵を見せただけだから」

「あの十二単のオンナ性がわたしに言いたいこと、なんとなくわかるんです」


 ユキはぽつりと呟いた。


 まるで懺悔のようにゆっくりと。


「本当は今の状況がおかしいって、心のどこかではわかっていたんです。なのに、あのとき美夜さんの忠告を無視してすみませんでした」

「俺は別に気にしていない。決めるのは自分だろ?」

「はい。ずっと、ショウくんがいなくなったら、わたしのアイデンティティーがなくなるような気がしていて、こわかったんです。ショウくんの幼馴染み。今まで、それだけがわたしの価値あるものだったので」


 美夜は静かに頷いた。ウィリアムも今日ばかりは邪魔をしてはいけないと思ったのか、妙な茶々は入れずに神妙な顔で聞いている。


 愉快さが消えるとただのイケメン外国人になってしまうのが問題だ。


「実は昨日、ショウくんに売春を勧められたんです。そしたら、なんか怖くなって……。美夜さんのこと思い出して、今日はここに来ました」


 昨日のことを思い出したのか、ユキは俯いた。長い前髪の奥にある表情までは読み取れない。しかし、握り絞める両の手が小刻みに震えている。


 強い怒りなのか、悲しみなのか。長くヒーローだと信じていた男の仕打ちとしては最悪だ。


「普通、売春を勧めるかよ。……虫唾が走るな」

「クズってどこにでもいるんだネ」


 美夜はショウの顔を思い出して奥歯を噛みしめた。ラストソングを歌うショウは恍惚とした表情で美夜を見つめていたのを覚えている。


 苛立ちで奥歯を割ってしまいそうだ。


「もしかしたら、わたしの知っているショウくんはもういないのかもって思ったんです。今日、美夜さんの絵を見せてもらって確信しました。わたしって、あんな苦しそうな顔して新宿の街を歩いていたんですね」


 ユキは曖昧に笑って、頬を掻いた。


 新宿の街も、十二単のオンナも、そしてユキのことも、美夜は見たままを描いただけだ。


 嘘偽りのない世界がユキに届いた。それがなぜか胸が締めつけられるように痛い。


 この痛みの正体がわからず、美夜は冷えたコーヒーを一気に飲み干した。口に広がる苦みが痛みを和らげる。


「……もう大人なんだし、ショウくんに依存せずに、自分一人で立たなきゃ」


 彼女の顔は以前に比べてほんの少しだけ、力に満ちていた。色をのせ始めた絵画のように、彼女は色を持ち始めている。


「今のあんたなら大丈夫なんじゃないか?」

「はい。ショウくんとは縁を切ります。色々とありがとうございました」


 ユキは床に頭が着きそうなほど深く頭を下げた。


「よし。……なら、行くか」

「……え? どこにですか?」


 ユキは困惑気味に美夜を見上げる。ウィリアムは察しがついたようで、青の瞳をキラキラと輝かせた。


「もちろん、『ポラリス』に決まってるだろ」


 美夜はニッと歯を見せて笑う。

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