第1話②

 午後九時の閉店に合わせ撤収したが、美夜はすぐに帰宅の電車に乗り込むことができずにいた。


 一枚も売れずに残った絵が、美夜の肩に重くのしかかる。


 この最悪の結果を持って、休日の満員電車に乗る自信はなかった。他人の陽気さは美夜の心を蝕む。


 美夜はシャッターが閉まった宝くじ売り場の前でしゃがみ込み、ただ行き交う人を呆然と眺めた。


 夜は嫌いだ。夜が深くなればなるほど、人の中に人ならざるモノが混じっていく。新宿のような人が多く集まる場所は特に多い。


 駅前の巨大モニターでアイドルのライブ映像が大音量で流れ始めた。駅前広場に人が溜まり、みんな空を見上げる。


 名前も知らないアイドルのライブはうるさいだけだった。しかし、静か過ぎるよりはありがたい。雑音が多ければ多いほど、何も考えなくて済む。


 美夜はリュックの中から水筒を取り出し、蓋を開けた。今朝入れた水道水はもう入っていない。最大限傾けたが、水の一滴も落ちては来なかった。


 美夜は目を閉じる。雑音の中に身体が溶け込んでいく感覚に身を任せた。


 このまま、夜に溶けることができたらいいのに。そしたら、楽になれるのに。


 疫病神やくびょうがみ


 子どものころ、美夜につけられたあだ名だ。


 生まれる前に父と祖父を車の事故で亡くし、生まれてすぐに母が帰らぬ人となり、わずか零歳ぜろさいで天涯孤独の身となった。


 幼いころの記憶はほとんどない。ただ、親戚の家を転々としているだけの人生だったように思う。


 大学に入るまでのあいだ、不思議と引き取るという親戚が現れ、寝起きする場所には困らなかった。しかし、どの家に引き取られても長くは続かなかったが。


 どういうわけか、美夜を引き取った家は不幸に見舞われる。短くて数ヶ月、長くても三年待たずに引っ越しを余儀なくされた。


 どの家にも馴染めず、絵ばかり描いていた。絵を描いているときだけは寂しくない。そして、大人たちも静かでいいと思ったのだろう。美夜が絵を描くとわかりやすく褒めてくれるようになった。


 それが美夜の絵を描く原動力になったことは、言うまでもない。本物の家族にはなれないし、本物の子どもたちと同じようには接してもらえなくても、絵を描けば褒めてくれるのだ。


 その時から絵は美夜にとって、唯一のアイデンティティーになった。


 美夜は毎日毎日目に飛び込んできたものを描き続けてきた。絵が上達するのに、時間はあまりかからなかったように思う。


 しかし、そんな大人たちの褒め言葉も長くは続かなかった。


『美夜くん、これは何?』

『昨日、公園のベンチに座っていたおじさんだよ』

『おじさんにはこんな角生えていないでしょ? もしかして、このおじさんは怒っていたの?』

『ううん。ずっとみんなのこと見てただけだよ』


 騒がしい公園で一人佇んでいる姿が不思議で面白く、こっそり描いたものだった。


 その日から、美夜を家に置いてくれていた保護者の態度が明らかに変わったのを覚えている。


 まだ幼い美夜は知らなかったのだ。――美夜に見える人ならざるモノは他の人には見えないということを。


 この眼のせいで、どれほど苦労しただろうか。引き取ってくれた親戚からは奇異の目で見られ、友人は離れていった。隠すことを覚えたのは、大学に入ってからだ。


 見えないフリを覚え、わざと絵にも描かないようになった。


『なんで真実を描いてナイの?』


 ウィリアムの声が頭の奥に響く。まるで、わざとバケモノを描かないようにしていることがわかっている様子だった。


 なぜ? 単純な理由だ。


 普通の人間になるため。生きるため。嫌われないため。


 美夜を一時的にでも引き取った保護者たちは、美夜が描くバケモノを見ると態度を変えた。まるで、美夜自身がバケモノになったかのような感覚に陥るのだ。


 駅に向かう階段を昇る人の背中を眺め、駅の階段を降りて歌舞伎町に消えて行く人を見送る。


 誰も美夜を気にする素振りは見せなかった。こういうとき、バケモノの気持ちが少しだけわかるような気がする。


 気づいてもらいたいのに、誰も気づかないのだから。


 終電間近になり駅に向かう人が増えころ、美夜は重い腰を上げた。


 ずっしりと両肩にのしかかるキャンバス。酔っ払い挟まれながらこれを持って帰ることを想像して辟易した。


 今朝方買った切符を握りしめ、改札を通る。ちょうど来た電車の一番前の車両に乗り込もうとしたとき、足が止まった。美夜のすぐ側に立っている男に見覚えがあったからだ。


「ウィリアム……さん?」


 いや、違う。整った顔立ちも金の髪も双子のようにそっくりだったが、瞳の色が明らかに違っていた。真っ赤だ。血を思わせる深い赤の瞳。吸い込まれそうなほどに美しく、そしておそろしい。


「やあ、ミヤ」


 男がニッと口角を上げた。鋭い犬歯が顔を覗かせる。


 電車に乗り込む人々が不思議そうに美夜を見て行く。みんな、美夜だけを見て行くのだ。こんなにも美しい容姿を持った男が隣にいるというのに。


 その時、美夜は悟った。この男は人間ではないのだと。

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