夜の新宿、十二単

たちばな立花

第1話①

 終電を、見送った。


 手の中の切符を見つめる。今しがた紙くずになってしまったものだ。


 シャッターの外には最後の電車を逃した有象無象が、ちりぢりに夜の街へと消えて行く。朝とは違う禍々しさを帯びた輝き。


 ここが新しい地獄だと紹介されても納得するだろう。


 短い眠りに入った駅から追い出され、頑丈なシャッターの前で立ち尽くしていると、腕を掴まれた。美夜みやよりも少し背の高い男が薄ら笑いを浮かべる。


「おねーさん、今夜――って……んだよ、ヤローかよ。紛らわしいな」


 チッと強く舌打ちを打つと、男は他の女の元へと消えて行った。長い夜を共に過ごす相手を求めて、彷徨さまよい歩くのだろう。


 美夜は頬に飛んだ男の唾を拭った。


「ミヤはどこをどう見てもヤロウなのに、失礼な奴だネ。しかも、どこをどう見ても僕との先約があるのに」


 美夜の隣に立つ男は、綺麗な顔を歪めてミニスカートの女に声をかけに行った男を睨む。


「俺は約束した覚えはないけどな」

「でも、電車に乗らなかった。それが答えデショ?」


 隣に立つ綺麗な顔の吸血鬼は笑う。


 この状況が普通ではないことは理解できている。だからといって、逃げればいいという話でもない。


 ここは新宿という名の檻の中なのだから。


 彼は、ウィリアムと名乗った。


 その名に相応しく、西洋系の顔立ちをしている。ただ、昼間にすれ違うような、いわゆる外国人とは明らかに違っていた。


 豪奢な金髪と、薔薇の如き深紅の瞳。人の持つ色ではない。名のある彫刻家が生涯をかけて魂を吹き込んだ作品だと言われたほうが納得できる。


「それで、吸血鬼が何の用だ? 令和になると男の血も好むようになるのか?」

「んー、今のところ血は間に合っているよ。これでもモテるんだ」


 ウィリアムは目を細め、整った顔を崩して笑う。


「それに、君とは対等に話したいしね。まずはさ、どこかゆっくりできる場所で話をしよう」


 当たり前のようにウィリアムは美夜の肩を抱いた。それを、蚊を払うがごとくはね除ける。人の減った駅前に軽快な音が響いた。


 イケメンとはいえ、バケモノと仲よくする趣味はない。


「五百十円。それと、メシも」


 手にあったゴミを無遠慮にウィリアムの手にねじ込んだ。それが全財産だった。少しくらい苛立っても仕方があるまい。明日帰るための金もなくなったのだ。


 夜食という利子を貰ってもいいだろう。


「勿論だよ。ドンペリとフルーツの盛り合わせなんてどうかな?」

「馬鹿は休み休み言え。牛丼大盛りツユダクで」

「へぇ……ミヤは牛肉が好き? 一杯でも二杯でも構わないよ。ああ、でも、牛丼なんて出してくれる店、あったかな?」


 ウィリアムが首を捻る。彼は店の名を上げながら、あーでもないとかこーでもないと言い始めた。このままでは飲み屋に真っしぐらだ。


 なぜ、こんな男の誘いに乗ってしまったのだろうか。ため息すら出ない。


「ついていこい」


 美夜は彼の手首を掴むと、記憶を頼りに歩き始める。


 鉄の塊が動きを止めてもなお、輝き続ける街――新宿。


 この街には、時間の概念などない。鎮まることを知らないのだ。昼に生きる人が去り、夜に生きるヒトが集う。


 一ツ目のオトコがふらりとビルの階段を降りる。大きく口が裂けたオンナは、でっぷりと腹の出た狸にすり寄った。


 夜はよく見える。昼以上に。美夜はゆっくり息を吐いた。熱い息が空気をわずかに曇らせる。


 もう五月だというのに、妙に肌寒い夜だった。


 なぜこんなことになったのか。思い出してこめかみを抑えた。隣を歩くのは、三十分前には赤の他人だった男だ。


 夜は人を狂わせる。判断が鈍ったのは夜のせいだ。



 ◇◆◇



 都内の美大を卒業して二年。


 美夜は命を削りながら生きてきた。


 東京の端、築六十二年のワンルーム。家賃を削り、食費を削り、削れる物は何もかもそぎ落とした。削ったすべてを画材に充てるために。


 絵を描いて食べていくということが如何いかに難しいか。悲しいかな、そんなことはこの令和の時代、SNSで少し検索しただけで嫌というほどわかることだ。


 芸術で食っていける人間は限られている。運がいいか、親が太いか。


 そのどちらでもない美夜には、もう後がなかった。


 最初で最後のチャンスだと意気込んで、新宿の商業ビルのイベントスペースを一日だけ借り、命でできた絵を並べる。


 チラシを作る余力もなければ、宣伝できるようなSNSのアカウントもなかった。学生時代に作ったアカウントのフォロワーはたったの五人。


 それがなんの役に立つだろうか。


 安い額縁に納められた絵画、薄汚れたクロス壁に絵を掛けただけのレイアウト。


 移動のために通り過ぎる人を眺めながら美夜は朝から晩までパイプ椅子に座り続けた。


 誰も美夜と目を合わせようともしない。


(バケオノにでもなった気分だ)


 強めの冷房が美夜の長い前髪を揺らす。後ろの長くなった髪は輪ゴムで無理矢理まとめたが、前髪はそのままだった。


 五年前に買った黒のシャツと、油絵の具で汚れたジーパン。誰だって目を合わせたくはないだろう。


 暇を持て余した白髪の老人が立ち止まり、壁に掛けた絵を見上げた。


「こりゃあ、写真かい?」

「いえ、絵です」

「へぇ……。よくできてるねぇ」


 老人は眼鏡を上下にずらしながら絵をまじまじと見つめる。


「あんたが描いたんかぃ?」

「はい」

「そぉかぃそぉかぃ。うちの孫もねぇ~絵がうまくてねぇ~」

「はあ……」


 美夜は老人の言葉に曖昧に相槌を打つ。とうとう彼は一時間ほどたっぷりと孫の自慢をした後、満足して帰って行った。


 一時間接客をして得たのは、近くの店で買ったという饅頭一つだ。


 美夜は饅頭にかぶりつきながら、ため息を吐き出した。


 現実はいつだって無情だ。


 つい昨夜までは、並べた絵がすべて売れる未来を描いていた。その金を持って画材屋に押しかけ、画材を買いあさるところまで想像していたのだ。


『あなたの絵は確かに繊細で精巧だけど、どこか嘘っぽいのよね』


 学生時代、講師に言われた言葉だ。『写実的なのに嘘っぽい』と何度言われただろうか。


 ならば、と美大に通う四年間で抽象的な絵に挑戦したこともあった。しかし、それは巧妙に誰かの真似をしただけの写真になってしまう。


 美大でどんなに酷評を受けたとしても、美夜の人生には絵しかなかった。大学には美夜の絵のよさをわかる人がいなかっただけ。外に出れば、絵を認めてくれる人が多くいるはずだ、と。


 口の中に広がる餡の甘みとは反対に、胸には苦々しい想いが渦巻く。


 貯金は底を尽きたも同然だった。今日、一枚も売れなければ画家を辞めると、小さな仏壇に手を合わせ両親と祖父に約束したばかりだ。


 甘い饅頭を必死に飲み込む。


 通路で立ち止まりジッと絵を見つめる女に気づいて、美夜は顔を上げた。そして、すぐに視線を逸らす。


 目が、三つあった。


 あれは見てはいけない類いのバケモノだ。けっして目を合わせてはいけない。


 饅頭を持つ手に汗が滲んだ。


 美夜にはが見える。


 それをここで気づかれるのはまずい。人間にも人ならざるモノにもだ。


 緊張からか喉が渇き、水筒の水を煽った。飲み慣れたぬるい水道水が喉をとおり、胃に落ちていく。


 何事もなかったかのように饅頭にかぶりつき、通路を歩く人の足を目で追う。絶対にバケモノを注視したりしてはいけない。


 彼らはどういうわけか人間に気づかれたいと思っているようで、気づいた人間からなかなか離れないのだ。こんなところでバケモノの友達を作りたくはない。


 冷房以上の肌寒さを感じ、美夜は身震いした。


 三ツ目の女が去って行くまでのあいだ、どのくらい時間が経っただろうか。一時間? それとも二時間?


 駅に向かって歩いて行く人が増えてくるころには、バケモノは消えていた。


「失礼、少しお邪魔してもイイカナ?」


 冷や汗を拭っていたところ、律儀に声をかけて来た男がいた。――黄金の髪を揺らした美しい西洋人だ。


 日本で生まれ育った美夜では、どの国から来た人かまではわからない。ただ、奥の血管まで浮き出てきそうな透けるような白い肌と、ガラスを嵌めたような青い瞳が美しかった。


 同級生に人形を作っている男がいたが、その男が作っている人形によく似ている。左右非対称の美しい顔立ちをしているところもそっくりだ。


 男は美夜の返事を待っているのか、なかなか動かない。イベントスペースと通路はキッチリと床材の種類で別れている。その見切りの部分に靴の先端を揃えて待っていた。


「どうぞ。好きなように見て行ってください」


 きっちりとスーツを着ているところや、綺麗な日本語を話すところから考えると、日本で働いている外国人の類いだろうか。


 芸能人だと言われてもおかしくはないが、残念ながらそういう情報には疎い。しかし、道行く人が足を止め、この男を見つめている。


「キレイな絵デスネ。写真みたいダ」

「ありがとうございます」


 美夜は礼を言いながらも俯いた。


 写真みたい。それは褒め言葉なのだろうか。写真みたいならば、写真を撮ればいい。


「繊細で、まっすぐなイイ絵だ」

「ありがとうございます」


 覚えたての単語のように、美夜はそればかりを繰り返す。他の言葉を口にすれば、皮肉をつらつらと並べてしまいそうだった。


 自分の絵を展示している口で、ここにある我が子たちを卑下したくはない。


「名前は……ミヤ?」


 絵の端に書いたサインを見て男は言った。美夜は「はい」と頷く。


「どんな字書くの? 日本人は漢字がカッコイイヨ」

「美しい夜と書いて美夜です」

「ワォ! とっても綺麗な名前だ」

「女の子みたいだと昔からよくいじられていましたけどね」


 美夜は愛想笑いを浮かべる。


 この名前は祖父がくれた最後の贈り物だ。


 まだ美夜が母親の腹にいるとき『女の子だ』と医師に言われ、『美夜』と名づけたらしい。肝心の祖父は美夜が生まれる前に亡くなり、両親も美夜の性別を知る前に死んでいった。


 結果、そのまま祖父のつけた『美夜』が残ったというわけだ。


 女顔で女のような名前のせいで苦労してきたが、適当につけられた名前よりは幾分かマシだ。どんな意味でつけたのかはわからないが、祖父の想いが残っているということだけはわかる。


「僕の名前はウィリアム。よろしく」


 差し出された手を慌てて取る。ぶんぶんと勢いのいい握手を強引に交わされ、美夜は目を白黒させた。


 この挨拶は日本流ではない。そう、言いたかったが、グッと堪えた。絵を買う客になるかもしれない人だ。


 美夜の手を離したウィリアムは、空のように青い瞳を絵画に戻す。


「ねえ、ミヤ」

「はい?」

「ミヤの絵はとってもキレイだ。写真を見てるみたいだ」

「ありがとうございます」

「なのに、なんで真実を描いてナイの?」

「え……?」


 近くの自動ドアが開いて強い風が吹きこんできた。美夜は思わず固く瞼を閉じる。


 風が美夜の長い前髪をさらう。慌てて、前髪を後ろに掻き上げ押さえた。


 風が弱まって目を開けたときには、ウィリアムはもういなかった。


「ウィリアム……さん?」


 辺りを見回す。通路を歩く人は美夜など見えていないかのように、まっすぐ駅へと向かっていた。


『なんで真実を描いてナイの?』


 その言葉にドキッとした。脳裏からあの時のウィリアムの青い瞳が離れない。


 手の中で半分残っていた饅頭が潰れていた。

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