第3話 アサミは海底神殿へ

 

 ゆっくりと、沈んで、沈んで、沈んで。二人は海の深い深いところまで降りていきました。水中は下に行けば行くほど、暗くなりましたが、女の子の輝く体が優しい光を灯し、二人の道筋を照らします。ホッとするような温かな光です。ですから、真っ暗なところが苦手なアサミがこれっぽっちも恐怖を感じませんでした。とてもすごいことです。


「もう少し?」

「あとちょっと」

「あとどのくらい?」

「もうすぐそこだよ」


 このようなやり取りを何度も何度も繰り返しながら、女の子たちはひしめく海の山脈を降下していきます。うーんと下へ下へと降りていくのです。


 どのくらい泳いだのでしょう。やっとこさ、海の底へと到着したのです。アサミの足はバタつき疲れて、立てないほどにヘトヘトになっていました。海育ちの女の子は慣れているものですから、このくらいの泳ぎはへっちゃらです。


「ここに、なにがあるというの?」


 アサミがキョロキョロと辺りを見回します。けれども、なにも見えません。岩場もモノもなにもない、とてつもなく広い広場に足を下ろしているだけです。


「ふふ。ようこそ、ミステリアス宮殿へ」


 女の子が恭しくお辞儀をしたかと思うと、指でパチンッと小気味良い音を鳴らせます。


 そして、その音を合図に、目を開けていられないほどまぶしい光が、降り注いできたのです。


「キャッ」


 突然のことにアサミは、手で目を覆います。高速道路で長い長いトンネルを抜けたあとに感じる眩しさとおんなじだと、アサミは思いました。ですが、人間の目の習性はすごいもので、どれほど明るくても、暗くても、次第に慣れていくのです。アサミの目もだんだんと慣れてきて、ゆっくりと目をあけました。


 すると、どうでしょう。


 アサミの目の前に神々しく厳かにそびえ立つ神殿が現れたのです。神殿の周りには、神殿を守るような形で配置されている塀が張り巡らされ、神殿を中心に石造りの家々が並んでいます。一つの町のようだと、アサミは思いました。


 アサミと女の子が立っている場所は、その町の中心となる広場のようなところでした。


 かつて、この広場に多くの人々が集まり、商店を開いたり、おしゃべりに花を咲かせていたのでしょう。その様子がアリアリと目に浮かぶようです。


 そう、ここは、海の底に沈む神殿、海底遺跡だったのです。


「すごい…。こんなところがあるなんて…」


 アサミの目と心は一瞬で奪われてしまいました。古代遺跡を思わせるような、といってもアサミは古代遺跡のことなどなにも知りませんでしたが、壮大さとロマンを感じさせるような海底遺跡にアサミは胸を躍らせます。


「すごいでしょう?ここは私のお気に入りの場所の一つなんだ」


 女の子は誇らしげに胸を張ります。


「この場所を照らしてくれているアンコウさんや深海魚さんたちに感謝してね」


「えっ?」


 ここでアサミは初めて、アサミと女の子の頭上にたくさんの深海魚たちが明かりを灯していることに気がつきました。そもそも、どうして深海が明るくなったのか、という疑問すら持っていなかったのです。アサミの思考を止めさせてしまうほど、荘厳な神殿でした。


「ありがとう。深海魚さんたち」


 アサミは深々と頭を下げてお礼をします。顔を上げた時、深海魚たちがさざなみを立てるようにうなずいたような気がしました。


 女の子とアサミは深海魚に照らされながら、海底神殿の周辺を探索します。


「本当にすごいね…。こんな遺跡が海の中にあるなんて、ファンタジーの世界だけのお話だって思ってた」


「私たちが知らないだけで、この世の中にはファンタジーみたいなことも魔法みたいなこともたくさんあるのよ、きっと。だって、私にとっては、これが日常で、アサミちゃんの住む地上で起きていることこそがファンタジーなんだもの」


「そうなの?でも、地上で起こることなんて全てつまらないよ?」


「そんなことないわ。私にとったら地上にある人工物はとても『不自然』だし、魚の代わりに人間がたくさんいるって言うのも不思議でならないわ。そういうものなのよ」


「そっか。そういうものなのね」


「そういうものなの」


 アサミと女の子は顔を見合わせて、肩を揺らして笑い合います。


 ある程度、遺跡の周りを探索をしたところで、女の子が神殿の大きな扉の前で止まりました。おそらくこの扉は、神殿の入り口なのでしょう。朽ち果ててしまって色褪せていますが、ところどころに巧妙な技が施されているのが見て取れます。扉の周りの繊細な装飾があり、扉にはまるで絵画であるかのような彫刻が施されているのです。それはとても素敵でした。


「さぁ、もっとすごいものを見せてあげるね」


 女の子がイタズラっぽい笑みをニヤリと浮かべます。アサミは、これよりもっとすごいことがあるのか、と胸を弾ませました。海の世界は摩訶不思議で目新しいものばかりです。


「この扉をくぐってみて!」


 女の子が先導を切って、扉の内側へと入っていきます。


「あっ、まって!」


 アサミも追いかけました。そして、大扉を通った瞬間。


 辺り一面に光が散乱し、目の前に美しい宮殿が現れたのです。


 アサミは何度も何度も目を擦りました。先程までの廃墟はどこにもありません。あるのは広い玄関ホールと真新しい豪華な彫刻や絵画。夢を見ているのだと錯覚するほど、美しい城内です。


 ここは神殿の中なのでしょうか。それにしては、美しすぎます。だって、海底遺跡は『遺跡』というほどに朽ち果てていたのですから。


「どう?アサちゃん。びっくりした?」


 女の子は背中の後ろで腕を組み、にっこりと笑ってアサミの顔を覗き込みます。アサミは口をあんぐりと開けながら、


「うん…。びっくりした。これって一体、どうなってるの?」


 尋ねます。


「私もよくわかってないんだけれど、おそらく、これは海が見せる幻想なのよ。きっと、この神殿が一番栄華を誇ったときの姿なんだと思うの。人々の想いや、神殿の想いが、私たちにこの美しい姿を見せているのでしょうね」


 女の子はうっとりとした表情で、神殿内を見渡します。アサミも同じように、目を輝かせて神殿の隅々を観察します。


 アサミははやくこの神殿内を歩き回りたくてたまりません。


 ふと、目の端で、ゆらり、と影のようなものが動きました。


 アサミは慌てて、影が動いた方へと目を向けます。玄関ホール左手の大きく真っ白な柱に二つの影。それが蜃気楼のようにゆらゆらと揺らめいています。アサミは目を凝らしました。


 そこにいたのは、人でした。人が二人、柱の辺りで談笑しているのです。


「見て!あそこに人がいる!」


 アサミは階段を指差し、大声を上げました。女の子はチラリとそちらを見ると、興味なさげに答えます。


「あれも幻想なの。本物の人じゃないのよ。私たちからは見えるけど、あの人たちからは私たちが見えないの。触れられないし、会話もできない。置物みたいなものなの」


 女の子はつまらなそうに息を吐きました。ですが、そのつまらなそうな顔はすぐに消え去り、満面の笑顔になります。


「さ、あんな偽物は置いておいて、神殿内を一緒に見てまわりましょう?ステキなお部屋がたくさんあるの!」


 女の子はアサミと手を繋ぎ、神殿内を案内します。文字の書かれた石や葉っぱのような紙が置かれている書斎や、布団がたくさん敷かれている寝室、神を称えたのであろう祭壇に、巫女のような服がたくさん置かれている衣裳室…。どれも新しく生々しい形で残っています。


 書斎では頭の良さそうな人々が見たこともないような文字を書き、寝室では何人もの人が寝、祭壇ではとある男が信託を受け、衣裳室にはキレイな女の人が体を清め着替えていました。全ての部屋に人がいます。


 ですが、誰もアサミと女の子を気にしていません。女の子の言った通り、彼らは幻で、アサミたちのことは見えていないのです。


「すごいところだね、ここ。昔の状態を再現してるんだ。歴史を研究している人がここに来たら、もしかしたら、歴史がひっくり返っちゃうかもね」


 アサミと女の子は神殿から出て、広場の真ん中に座って、休憩をしながらおしゃべりをしています。あまりに新しいことがたくさん起きて、アサミが疲れてしまったのです。


 神殿の外に出ると、そこに広がっているのは廃墟でした。神殿の中しか、幻想は見えないようです。

 アサミはなんだかホッとしました。幻を見ていると、心がだんだんと動かなくなり錆びついて、虚しい気持ちになったのです。


 あんなに華やかで美しくて目を奪われてしまうのに、さみしくて、冷たくて、虚しく感じてしまうのです。


「ここは本当に不思議でステキな場所…」


 アサミは大きく深呼吸をします。


 厳かな深海と不思議な海底遺跡。そして、浮世離れした美少女と可愛らしいお魚たち。


 煩わしいルールや口うるさい先生もお父さんお母さんも、アサミを傷つける友達もいません。ア大嫌いな勉強もありません。


 ここはアサミにとって夢のような場所でした。


「ずっとここにいられたらいいのに…」


 アサミがボソリと、けれども、力強い言葉で呟きます。女の子も、


「ずっと、アサちゃんがここにいてくれたらいいのに」


 と、さみしげに笑いました。

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