第139話 契約と信仰心
驚きはしたが、卓也が冷静さを取り戻すのも早かった。
これ、どうすれば良いの?
部屋の中で、教皇の側付きとして仕えているのだろう女性は、顎が落ちんばかりの表情をしている。ちょっと女性として見せては駄目な類の表情では無いだろうか。まぁその表情が視界に入ったからこそ、冷静になれたのだとも言える。横目にフランシーヌを見れば、にこにこと、それは嬉しそうに教皇の姿を見守っている。反対を見れば、左手前方に立つニコラさんが、うんうんとしきりに頷いている。さっき迄は前に立っていたが、教皇が立ち上がった瞬間何かを察したのか、すっと横に退いて俺の前を開けたので、今はその場所で教皇を優しく見守っている。
うーん、何ともカオスな光景だよな。取り敢えず落ち着くまではそっとしておこう。
それにしても先程のシステムメッセージだ。今までに勝手に契約が結ばれるなんて事は無かった。契約は親密な状態でしか結ぶ事が出来ず、NPCメニューの操作が必要になる。契約さえ結べれば信頼関係が担保できると勝手に思っていた。だが、こうして勝手に契約が結ばれる事があるのなら、逆も有り得るのでは無いだろうか。俺が信用を無くしたり、明確に裏切ったりすれば、勝手に契約が解除される可能性を否定出来なかった。
これはさすがに検証が出来る類のものでは無いから、肝に銘じなければならない。フランシーヌの信頼を失ってしまったら? フランシーヌが俺の元を離れたら? 想像するだけでも恐ろしかった。
人の心には永遠も絶対もあり得ないのだから、当然予想してしかるべき事だ。だからと言って悪戯にその可能性を恐る事もしない。だから、フランシーヌの期待に応えられる様に努めなければならないと、決意を新たにした。
暫くするとようやく落ち着いてきたのか、ジョエルがばっと立ち上がる。そして、またばっと膝を突いて深々と頭を下げる。それは先程までの祈りの所作とは異なる。所謂平身低頭と言うものだろう。
「我が主がこの世界に降臨をされました事、心よりお慶びを申し上げます」
御所を守る聖堂騎士は、事情は解らないが只事では無い何かが起こっている事に、その言葉でようやく思い至る事が出来た。ここは聖堂で最も奥まった場所にあり、滅多に訪れる者は居ないとはいえ人目に付くのは不味い、そう思ったのだろう。2人お互いに目配せをすると扉を固く閉ざした。彼らも敬虔な信徒であり教皇を心から敬っていたから、そこで問いただす様な不敬な真似はしない。だが事態の推移には警備上も注意を払う必要があるから、その重厚な扉から微かに漏れ聞こえてくる内側の声を、決して聞き逃すまいと集中するのだった。
「ジョエル聖下、どうぞ顔をお上げ下さい。その様な格好では何でしょう、宜しければあちらで座ってゆっくりとお話を致しませんか?」
そう言って肩を軽く叩く。顔を上げたジョエルの腕を優しく取って立ち上がらせると、奥のソファーへと案内をする。
漸く腰を落ち着けると、アイテムボックスからスパイダーシルクの布をタオルがわりに取り出して、教皇に手渡す。
「どうぞ、顔をお拭きになって下さい。済まない、何か飲み物を頂けないかな?」
呆然と立ち尽くしていた女性は言葉を掛けられてようやく再起動を果たすと、慌てて礼をして、客と部屋の主に供するお茶の支度を始めた。
誰も言葉を発する事が出来ない。ジョエルが落ち着きを取り戻す迄にもう少し時間がかかる事は明白だった。
お茶の準備を待って、声を掛ける。
「ジョエル聖下、まずはお茶でも飲んで一息付きましょう」
そう言って、自身もティーカップに手を伸ばして一口啜る。さすがに教皇に供されるだけあって、実に美味しい。教皇は、顔を拭くと気持ちを落ち浮かせる為にお茶を口にする。少し時間を置いて、落ち着いた頃合いを見計らって改めて声を掛けた。
「ところで、私を主とお呼びくださいましたが、ご事情を伺っても?」
「先程は取り乱してしまい申し訳ございません。何と説明をすれば宜しいのか、ただ、貴方様がこの世界に降臨をされた我が主の現身である事は見紛う筈も御座いません」
「その点は私には自覚がありませんが、ニコラさんやフランシーヌからもそう言われるので、多分そうなのでしょう。ですが、ジョエル聖下は何かもっと違う明確な確信がお有りなご様子」
「聖下等ととんでもない。どうか私の事はジョエルとお呼びください」
果たして教皇を呼び捨てにしても良いのだろうか。ただ、こうした下にも置かない態度は今に始まった事でも無い。シャトー王国の国王も、人目の付かない場所なら陛下呼びをする事は嫌がる位だから、すっかり免疫も出来つつあった。
「解りました、ジョエルさん。良ければ事情を伺っても?」
「はい。私は魔眼持ちでして、魔力や神気を視る事が出来ます」
魔眼? それは何かは解らないが後でフランシーヌに聞いてみる事にしよう。
「これ迄もっとも澄んだ神気を帯びるのは聖女様だとお思っておりましたが、貴方様の纏う神気はまるで違った。何処迄も澄んでいて輝きを帯びた美しい神気。貴方様の神気を受け、身も心も洗われる様です」
「神気?」
「我々神聖魔術の使い手は祈りによって神の気をその身に宿します。ですから多少なりとも神の気がどう言うものかを感覚として知っていますが、ジョエル聖下はそれを明確な色彩として視る事が出来るのです」
そう、フランシーヌが説明をしてくれる。契約の時に神の気を感じたとは説明を聞いたが、成る程それをより明確に感じる事が出来るのか。
「聖女様のおっしゃる通り、私には人が纏う魔力がどの様な性質を帯びているのかを色で視る事が出来ます。これ迄神気は金色の輝きを放つものだと思っていました。ですが違った。真に神の放つ神気の色は何の色も帯びていないし、何ものにも混ざる事も無い。これまで美しいと思っていた金色ですら、本来混ざる筈のない色が醜く混ざった色だったのです」
そう語るジョエルの表情は恍惚としている。美しい絵画を見た時の様な、美味しいお酒を味合う時の様な、自分の知る知識を超える存在に触れた時に感じる、そんな陶酔した表情。酔っていると言うのならあながち間違いでは無かったかも知れない。ジョエルは、自分の身に絶えず神気が流れ込んでいるのを感じていた。これ迄に感じた事がない程明確に、身近に神の存在を感じる。その始めての感覚に酔いしれていた。
「その神気を纏う貴方様こそが我が神の現身である事は、微塵も疑う余地等御座いません」
「成る程。魔眼とは、その色を視る事が可能な眼の事なのですね」
「左様で御座います。我々正教会一同、謹んで我が神の降臨をお慶びを申し上げます、御用が御座いました、何なりとお申し付けください」
「解りました。何かあれば直ぐにでも相談をさせて貰います。でもジョエルさんはそうして視えるからこそ直ぐにでも解ったのでしょうが、皆が皆、そうであるとは限りませんよね?」
「左様で御座いますな。せめて神気を感じ取る事が出来るのであれば直ぐにでも解るのでしょうが、誰でもと言う訳にはいきますまい」
とは、後ろに控えるニコラさんだ。立ち位置が教皇の後ろでは無く俺の後ろな辺り、既に俺の事を教皇の上に置いている事がその一事からも窺い知る事が出来る。
あの日俺に仕えると言ってくれた言葉に嘘は無いのだろう。
「そうですね。では、何処か決して人目の付かない場所は有りませんか? 何かあれば直ぐにでも駆けつけられる様に転移門を設置したいのですが」
「それはどれ位の広さが必要でしょうか?」
「そうですね。最悪は床が掘り起こせるのであれば、それ程のスペースは必要では有りません」
「それでしたら、この奥の礼拝所は如何でしょう? 代々の教皇のみが立ち入る事が出来る聖域ですので、まず誰かが立ち入ると言う事は無いかと存じます」
「なら、そこでも良さそうですね。そちらのコリーナさんや入り口を守っている騎士はどうでしょうか? 信頼は出来ますか?」
名前はまだ聞いてはいないが、あえて名前で呼んで問い掛ける。
「神への信仰は疑いようも御座いませんが、御所を警護するのは聖堂騎士に於いても特別に教皇に忠誠を誓った者達で御座いますので、ますます持って問題は無いかと。コリーナ!」
ニコラさんにそう名前を呼ばれたコリーナさんが、一歩進み出て片膝を突き、臣下の礼を取る。何を指示された訳では無いが、俺に対する忠誠を求められたのだろう事は直ぐに理解をする。ニコラさんが頷くと、口上を述べる。
「かくも尊き主上の御前に拝謁を賜ります事、篤く御礼申し上げます。神に捧げし、この身とこの魂。尊き御方の剣となります事を、お誓い申し上げます。どうか、この矮小な身なれど、幾久しくお守り下さいます様、伏してお願い奉ります」
教皇が我が神と宣言をしたのだから、教皇に全幅の信頼を寄せるのであれば、疑う余地もないのだろう。既に親密な状態だったからNPCメニューから契約を選択する。
「許す。コリーナよ、我が騎士として益々励みなさい」
コリーナも聖堂騎士として厳しい訓練を積んできた身なので、そこ迄明確では無くとも魔力や神気を感じる事が出来る。厳しい修行の果てに、深い瞑想状態で漸く触れる事が出来た神の気配を、今はありありと感じる事が出来る。教皇の言葉を疑ってはいなかったが、この方は我が神であったのだと唐突に理解する。
自身が信じる神を前にして、直ぐに気が付けなかった自身の不徳に後悔の念が押し寄せるが、自分を包み込む神の気配と、卓也が発した許すの言葉に何とも言えない感情が湧き出てきて心を染めていく。気がつけば、涙がとめど無く溢れてきた。
頭を下げたまま、暫くすると嗚咽を押し殺し始めたコリーナの姿にあぁまたかと何とも言えない気分になる。アマテラスで契約を行う時も、こうしたリアクションをする人が一定数居た。大抵の場合は正教会の信徒で、特に信仰の篤い者達だ。一様に神に触れて心が洗われた、許されたと話す。ジョエルさんも先程のフランシーヌやニコラさんと同様に優しい目で見守っている。多分、今のフランシーヌとニコラさんも同じ様な表情をしているのだろう。だから、誰も咎める様な事はしない。
頭では解る。信仰心とはその様なものなのだろう。だからこそ、信仰に縋る者も居るのだし、俺の世界でも信仰を違えれば戦争さえ興る。だが、どうしても理解までは出来ない。何故それ程までに他者を信じる事が出来るのか。ただ、俺が契約を結ぶ事で神を感じる事が出来るのなら、それが彼女に取っての救いになるのならと、一抹の疎外感を感じつつもそう願わずにはいられなかった。
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