第38話 黒木瑠衣の愉悦


 電車が到着すると駅のホームに強い風が吹き抜ける。


 ベンチに座るその大和撫子の美しくも繊細な黒髪は、その風で激しく揺れ、彼女の手にある文庫本のページも風に吹かれてパラパラと捲れた。


 彼女は手元の本を見下ろすようにして目を細めていたが、徐々にその眼差しが上を向き、最後には電車のドアから出てきた俺の方を向いていた。


 陸上部のジャージにハーフパンツ。

 汗で少し湿り気を帯びた黒髪は、午前中に会った時とは違いヘアゴムを外して流されている。


 言わずもがな、そこに座っていた大和撫子はだった。


「あら……ふふっ」


 陸上部の練習帰りと思われる黒木がいたのは俺が降りた電車の目の前にあるベンチ。


 彼女は俺を見つけると、本を閉じてゆっくり立ち上がった。


ね。諒太くん?」


『奇遇』という言葉を、今一度辞書で引き直すことを勧めたいと思ったのはこれが初めてだ。

 プシューという音がして、背後の電車のドアが閉まる。


 今、俺の身体には優里亜の香水の残り香があるかもしれない。

 あの黒木瑠衣ならそれすらも感じ取ってしまう可能性があるから危険だ。


(くっ、こんなことになるなら電車に乗り直してどっかへ行きたかった……)


「行きの列車も前から3両目に乗っていたから、帰りもそうなのかなーって思ったんだけど……当たって良かった♡」


 ほらみろ奇遇じゃない。

 完璧超人の黒木瑠衣にしては、あまりにも矛盾しているが、彼女にとっては俺が3両目に乗ってしまった時点で勝ちなのだろう。


(3両目に乗るとか、そんな癖があるのは俺が一番知らないんだが)


「お、お前がいつからいたのか知らないけど、もし俺が先に帰ってたらどうするつもりだったんだ? 朝までいたのか?」

「17時を過ぎたら帰るつもりだったけど……? もしかして今日遊んだ誰かさんとでもするつもりだったの?」

「ぐっ……」


 黒木の質問はどれも俺に探りを入れるようなものなので油断はできない。

 俺が優里亜とデートしていたことはさすがに知らないと思うが、それでもどうやら女子といたのはバレているみたいだ。


(おそらく優里亜の香水の残り香でなんとなく察しているのだろう)


 今日は駅のホームの風が強いので、さすがの黒木も判別までには至っていないようだ。


「諒太くんは愛莉とデートしたのかなー?」

「……で、デートなんてしてない!」

「ほんとに? でも少し女の子の匂いがするんだけど……」

「め、メイド喫茶だよ」

「メイド喫茶?」

「お、オタクは日曜日にメイド喫茶に行く生き物なんだよ! 普段は女子に構ってもらえないからメイドさんのご奉仕を欲する悲しい生き物なんだ! 分かったか!」


 俺は必死に自分を卑下することで黒木の興味を失わせようとする。


(こ、これだけキモオタアピールすれば、さすがの黒木だって)


「あら……可哀想な諒太くん」

「そ、そうだろ? そう思うならもうこんなキモオタに構わないで——」


「ふふっ。それならちょっとこの後、わたしとしませんか?」


 は?????

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