稲荷余話

実川えむ

キャンプ場での話

歪み

 いつもの春先のキャンプ場はもう少し人が少ないのだが、先日、テレビ番組で紹介されたおかげもあって、予約の数がかなり増えた。


「はい、次の方」


 無事に大学を卒業して、そのまま社員になった足立くんが、カウンターで接客している。他のバイトの子にも、指示を出している姿に、


 ――すっかり慣れて、いっぱしのキャンプ場のスタッフになりましたねぇ。


 などと思いつつ、事務所の中で書類整理をしている稲荷。

 そんなほのぼのとした空気の中、突然、稲荷の頭の中で激しい警鐘がなる。

 眉間に厳しい皺を寄せたのも一瞬、ちょうど接客している足立くんの所へ行き、肩に手を置くと、


「あとは任せた」

「へ?」


 足立くんの返事を聞く前に事務所から早足で出ていく。

 稲荷の頭の中には、山のある場所が浮かんでいた。


「まさかまた歪みが現われるとは」


 事務所の裏手、山の奥の方へ向かう獣道を進んでいく。

 この道を知るのは、稲荷以外には眷属の白狐たちのみ。


『稲荷様』

『北の山のほうです』


 稲荷の周りに続々と白狐たちが集まりだし、ガサガサと下草の中を駆けていく。

 しかし、その姿が見えるのは、稲荷のみ。


「うん、わかってる」


 近くに人の気配を感じなくなったところで、稲荷本来の姿、白い大きな狐の姿に戻り、一気に山のほうへと森の中を駆け抜ける

 

『あそこです』

『あの大穴です』


 本来ならただの山の苔むした土の斜面である場所に、地面から沸き立つように黒い靄のようなモノが蠢いていた。


『ふむ、まだ、小さいな』

『はい。しかし、歪みの向こうから、怪しげな言葉が聞こえまする』


 眷属の言葉に耳を澄ますと、確かに人の声らしきものが聞こえてくる。


 ――これは、あちらの言葉とは別のものだな。それに、この魔素の感じも微妙に違う。


 じめじめと湿った黴たような臭いまで漂ってきそうである。


『まったく、我が山は異世界の者たちに大人気だの』


 そう言いながらも、黒い靄へと歯をむき出して苛立ちを表している。


『あっ、稲荷様』

『繋がりまする』


 眷属たちの言葉と同時に靄の中に穴が空いた。


「※〇◆%+〇ッ!(繋がったぞ!)」

「$◇@$#+(新たな世界だ!)」


 穴の向こう側にいたのは、爬虫類のような顔の人間がカラフルなローブを着て集まっている。そして、彼らの足元には大量の緑色の液体が。


「&ッ!? %$#@▼!?(なっ!? あれは何だ!?)」


 巨大な白狐の姿の稲荷に気付いたのか、穴の中の爬虫類人が騒ぎ出した。


『無理やり繋いだのだ。それ相応の覚悟はあるのだろうな』


 怒りで真っ赤な瞳に変わった稲荷は、右前足を思い切り振り降ろした。


 ギャァァァァァ

 グァァァァッ

 ヒャァァァァ


 様々な叫び声が聞こえたのは一瞬。

 黒い靄は霧散し、そこには青白い顔の女が意識を失った状態で倒れていた。キャンプや山登りに来るような格好ではなく、職場からフラッとやってきたかのような普段着姿だった。


『……まさか、こんな奥まで入り込んでいる人がいるとは』


 目を細めた稲荷だったが、右足の爪で女の服を引っ掛ける。黴た臭いが残っている。

 キャンプ場の受付で見かけた人ではない。どこから迷い込んだのか。


 ――まったく、うちの山で神隠しとか、冗談にならんぞ。


 その手の話に興味をもつ輩は、神聖な場所であろうとも荒らしにやって来る。それで知り合いの神のところは神聖な社が破壊され、森に住めなくなったという。


 ――この手の面倒ごとは、蛇のところがよかろう。


 蛇神の中でも、白蛇を祀る山が少し離れたところにある。その山にある村では、奇祭として有名な白蛇祭を毎年行っていrうような所なのだ。

 稲荷のところと違って、未だに白蛇信仰の厚い村なのが、ちょっとだけ羨ましい稲荷。

 今度、旨い酒でも持っていけば、許してくれるだろうと、その時の稲荷は軽く思っていた。


『行け』


 稲荷の重い声が響くと同時に、女の姿はゆっくりと消えていった。


 ――それにしても、嫌な空気を持った世界であったな。


 ふぅ、と大きくため息をついた稲荷ではあったが、事務所で必死になっているだろう足立くんを思い出して、ゆっくりとキャンプ場のほうへと戻るのであった。

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