第26話 大唐皇帝玄宗
それから一ヶ月あまり後のことである。
十二月の中旬。真備は重厚な門ごしに、唐屈指の楽奏を聞いていた。周囲は戒厳令がひかれ、静まりかえるなか、金管楽器を基調とした音律が、天子をのせた御輿が
彼等は宮城内にはなく、そこから北東に隣接した大明宮にいた。
天子の居住区宮城と官庁街の皇城を兼ねそなえ、その皇城の真ん中に左右の閣楼をそなえた第一正殿として、基壇の上に堂々たる含元殿を設え、元日の朝賀や即位儀式などを執り行っていた。
皇帝が玉座につくと、宮懸とよばれる楽団は演奏をとめて、かわりに外国使節の入場曲となる
一同は含元殿に踏み入れる否や、強い郷愁の風に吹かれた。
広大な敷地に、果てのない快晴、北面する荘厳な御殿は、彼等が節刀をうけた平城京の大極宮そのものであった。――いわずもがな、平城京は長安を引き写しにした都であるから、たとえ異なる建材と唐風の彫刻が掘られようとも、親に子の面影をみるように一同はつよい感激に打たれた。
宮の東側には三十六人の楽士が正四角形にならび、四隅に鼓、内側に
真備一行が西の蕃客の席につくと、
――あれが玄宗皇帝。
真備は一段高い大極殿の御座に君臨する唐の皇帝をみやった。
唐の六代皇帝玄宗はこのとき六十七歳。悪しき判例たる則天后とそれを範とする妃達の権謀術策をくぐり抜けて唐の御代を取り返した若き皇太子は、皇帝となるや善政をしき、国の繁栄の立役者となって、その治世を『開元の治』と讃えられた。
若き真備が在唐していたのはまさにこの麒麟児が活躍していた時期で、市井の人々の口から彼を讃える賦や詩が絶えなかった。真備が帰国後、春宮大夫となり、未来の天皇たる阿部内親王――孝徳天皇に度々、君子の模範として例に出していたのも、まさにこの頃の玄宗皇帝であったに違いない。
巷間でつねに讃美され、善王として物語られた英雄の尊顔を、冠のまわりに垂れさがる白い串玉ごしに仰ぎ見て、真備は愕然とせざるを得なかった。
かの英雄は、完全な抜け殻だった。
頭は首のすわっていない赤子のように落ち着かず、脚の揺すりは一度たりとも止まることがない。背を伸ばすことさえ苦であるかのように、やや前傾に背をまるめている。それでいて、いやに血色がよく、いまにも我欲のまま振る舞いかねない、赤子のような危うさがあった。
――天子は病人であられる。
真備は断言できた。奇しくも玄宗皇帝と丸っきり同じ症状を、この含元殿と酷似した平城京の内裏でみていた。
聖武太上天皇である。
天変地異に怖れをなして仏法にすがる日本の天子と、政治に膿んで宮殿で悦楽にひたる唐の天子は、まるで互いが魂の片割れであるかのように、ともに病みきっていた。
儀礼は天子の病態にかかわらず進んでいく。
中書侍郎が日本からの国書を受け取り、西階より昇殿して皇帝に読み上げる。その間、朝貢品が官吏を介してわたされていく。
次いで玄宗が通事舎人という通訳を介して、日本の天皇について問い、さらに使節団について問う。――おそらくこのとき、彼等は今回の渡航の用向きを話したのだろう。
内容は無論、黄金と伝戒師である。
伝戒師については鑑真のほか、弟子五人の名前をあげている。
「伝戒師の招聘を認めよう」
いまだ楊貴妃の脅迫者を捕らえていないこともあり、要求が一蹴されると予期していた一行は、通事舎人を介した思いも寄らない言葉に、ぱっと顔が華やいだ。
「だが、条件をつける。伝戒師の他に道士を随行させよ」
――やはりそう来たか。
一同は心底苦り切った。
玄宗が道教に傾倒しているのは前章で述べたが、この道教、日本ではその思想体系から極力距離をとっている。
そもそも道教は、神仙思想や予言など元来あった中国土着の宗教観を
道教の産物は、その実、日本にも、すでに様々な書籍や信仰、呪術の形で渡来していた。それらは大抵断片的で他愛のないものだったが、預言や呪術の盲信が民衆反乱を惹起する思想として、かねてから忌諱されていた。また道教は中国土着信仰の集合体である故、しばしば中国皇帝の権威付けに用いられており、日本にとってこの事実が尤も厄介なのである。
この危うさを理解するには、道教を神道に置き換えるとわかりやすい。もしも諸外国が神道を国教にした場合、天皇が神道の主神である天照大神の子孫であるから、ほかの国王はかならず天皇より下位になる。――つまり道教信仰が、天皇の権威を犯すのである。
絶対に道士を入国させてはならない。これは歴代遣唐使たちの共通した認識であった。
「日本の君主は先に道士の法を崇めざれば――」
清河卿は代案を出さなければならなかった。
「まずは道教を学ぶため、四人の留学生にお教え願いたい」
玄宗は難色をしめした。明らかに態の良い拒否と取られたのだ。
「勿論、伝戒師の招聘は辞退致します」
清河卿は忸怩たる思いで、こう言わざるを得なくなった。道士を拒否した手合い、皇帝の顔を立てるには、こういう他なかった。
日本はこうして伝戒師の招聘を公式的には諦めた。
一方で、かれらの方針は完全に定まったことになる。長安を出立する来年の六月頃――つまり半年の間に、楊貴妃の脅迫者を高力士に差し出すほか、招聘の手段がなくなったのである。
覚悟していたこととはいえ、一同はすっかり困り果てた。
容疑者を特定したとはいえ、大都長安からひとりの胡人を見つ出すのは、土台むりな話である。
しかし天運は彼等に味方した。
半ば祈るように探すのだろうと思っていた矢先、思わぬところから逮捕の秘策が出来するのである。
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