第20話 金樽楼の殺人

 たまぎるような絶叫に、真備や道士、そして金樽楼にいた誰もが、突然頭を叩かれたように天井を振り仰いだ。


脳が音叉のように震えて、思考が結べない。痺れるような静寂のあと、真備がようやく我に返ったのは、道向こうから人馬をかきわけて、一騎の武者が呼びかけたときだった。


「真備殿、今の声は!?」

 騒然とする人混みから頭一つ抜けて、古麻呂の慌て面が見えたのだ。


「なぜ、古麻呂殿がここに」

「崇仁坊の捜索が空振り終わりました故、はせ参じた次第で」


「それは丁度良い。古麻呂殿、一緒に来て下さい」

 思いがけぬ武人の到来に、彼をなかば引きずり下ろすように下馬させると、馬の手綱を店の胡雛にあずけ、冷水をぶっかけられたような酔客達をかきわけて、二人は梯子段を目指した。


「古麻呂殿、用心して下され」真備はいう。「いまちょうど、件の耶蘇教の女を見つけたのですが、その女が客をあげた二階の部屋で、今し方、凄まじい悲鳴が起こったのです。――彼女はいま、何者かに殺されようとしている!」


 凶賊がいるときくと、古麻呂はにわかに顔をひきしめた。腰におびた太刀を抜き払い、横咥えにして、一股に二三段ずつ、うす暗い梯子段を駆け上がった。


 金樽楼の二階はL字型をしており、階段の上がり口から道路側に短く伸びたあと、右におれる。道路に平行にのびる廊下には、照光を厭うように、うす暗く、左右に各三室、客をつれこむ居室がある。


 洞房(新婦の一間)と揶揄される一間は、胡姫胡雛の第二の稼ぎ場であった。

 悲鳴が発せられたのは、ちょうど突き当たり左の部屋で、古麻呂は白刃をひっさげて、一足はやく壁にはりついて、ゆっくり左手で戸をひこうとしていた。


「む?」

 が、妙な手応えがある。戸は内側に桟があり、突っ張棒が掛かっているらしい。


 あとにつづいた真備が、わずかな隙間から、部屋の床に点々とつづく血痕と、窓際でうつぶせに倒れている女の背中をみた。女は高く髪を結い上げていたが、その右側頭部から液液とながれる血によって、どすぐろくうなじが染まっている。


「中の様子は?」と、古麻呂。

「賊の姿はみえませぬ。しかし女は――」

「死んでいますか」

「おそらく」


 ふたりは自然と突っ張棒をはめている壁側をみやった。

 そこに息を潜めている賊の姿を頭に描いたのである。


「突き破るしかあるまい」

 古麻呂は意を決すると、気迫一閃──袈裟がけに斬る。


 木戸に見事なまでに斜めの刀痕が走り、呆気なく内側に崩れた。古麻呂は木戸を破るや否や、旋毛風のように部屋に躍り込み、息を潜めているであろう凶賊に切っ先をむけた。


「・・・・・・真備殿」

 彼は太刀を構えたまま言う。

「誰もいない」


「なんですと!?」

 事件現場にまろぶように入れば、倒れた胡姫のほかに何者の影もない。部屋は六畳ばかりの狭い一室で、化粧箱や香炉、衣桁かわりの屏風に、木枕がそえられた四つ足の夜具のほか、どこにも凶賊が身を潜めるような箇所はなかった。


 周囲に目を巡らせた真備は、木戸破壊の折に弾きだされた突っ張棒を拾い上げた。全長は桟よりやや長く、一方が杭のように尖って戸の縦枠に斜めに食い込むように出来ていた。また桟にかかっていた逆側には、飛沫のような血がわずかに付着していた。被害者の血であろう。彼女はこれによって殴り殺されたのだ。


「窓から逃げたんじゃ」

「それは無理でしょう」

 真備は薄紙をはった窓を見やった。窓枠の右上隅に、直径で五センチほどの破けた孔から、ひゅうひゅうと風が吹き込んでいる。


 そこから外を覗けば、大路に野次馬が蝟集し、黒い頭巾の濁流のなかで、馬上の貴人がひょこりと顔をだして、訝しそうな顔をのぞかせていた。もしも賊が窓から飛び出せば、往来の人々がざわめき騒ぐ。


 また真備はおやと、眉をしかめて、うつ伏せに倒れている彼女の右手を手に取った。裏返し、掌をみれば、そこにも赤黒とした血液が、べったりと付着していた。


 出血した頭をおさえたのだろう。赤くしたたかに濡れた掌には、砂のような細かな粒子が見て取れた。


「・・・・・・・・・・・・ビ」


 真備が触れていた右手がぴくりと跳ねて、絞り出すような声がした。醜女の胡姫だ。その細い、切れ切れな声色は、遠く、昏い冥府から木霊するような心細い声だった。


「なんだ。なんと申した?」

 真備はかがんで、耳をすませた。

「・・・・・・・・・・・・・シビ」


 女はそれだけ言い残すと、ついに絶命した。


「なんだ、この惨状は」

 戸口を振り返ると、道士が怖気を震わせていた。

「胡姫は死んでいるのか」

「ええ。すぐに市局の者を呼ばなければ」


「あんたが、殺したのか」

 道士はいぶかしそうな目つきで、刀剣をぶら下げた古麻呂に訊く。

「なにを莫迦な!!」


「ならば賊は何処に?」

「居なかったのです」

 真備が答えた。手には護身用に凶器の突っ張棒を握っていた。


 古麻呂は突如として現れた道士に胡散らしい目つきをしていたが、真備は逆に、この詩人に好感を覚えていた。胡乱げな会話の応酬をしただけの仲だが、彼の中に豊かな詩情を垣間見、こと真備が、百般の才知を尊ぶ人であるために、一廉の者として礼を尽くすに能う人だと感じ入っているための振る舞いだった。


「であれば、まだ二階に居るはず」道士がいう。「オレは貴公等が二階に登った後、梯子段の下から見張っていたが、誰一人として下りてきたものはいなかった」


 三人は目顔で判じると、ほかの五つの部屋の捜索にかかった。


 街路側に面した三部屋は窓があるが、対面の三部屋は三方を土壁に囲われた、ほこりと湿気のこもった、いかにも連れ込み宿という風情で、明かり窓すらない。また事件現場の隣である一室も、これまたまったく人の気配というものがない。


 唯一、ひとの生暖かい呼気のようなものが感じられるのは、ついさきほど胡姫が男をあげた部屋だった。

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