第19話 酔いどれ道士
胡女の受難をかたる前に、前日の遣唐使たちの慌ただしさを描写しておきたい。
迎労儀式の翌日、一同は唐廷の儀仗に迎えられて、春明門をくぐった。行列は金銀雑宝に飾り立てられ、駿馬と誉れ高い
朱雀門を構える城壁は、ほかの坊の壁より明らかに重厚で、この先が長安の中枢をになう区画であることを知らしめる。
震う気持ちを抑え、匂いさえ異とする城内にはいると、まず皇城とよばれる官庁街に出る。三省六部の甍を望みながら北進、大路が東西に線をひき、更なる巨門が一同を睥睨する。
承天門と呼ばれるこの門は宮城、つまり皇帝の在所である内裏とつながる門で、外交使節はこの門の前で、皇帝にむかって拝礼をするのが決まりであった。来場の挨拶を済ませると、彼等は宿舎に向かう。外交使節が起居する施設は、皇城内の朱雀門近くの西側に建てられた
寺だから仏閣かというとそうではない。
この場合、むしろ「館」に近い。
鴻臚寺は祭儀や修学、賓礼などをおこなう文化会館のような場で、宿泊施設は西隣の鴻臚客館がになう。彼等はそこで慌ただしく支度すると、鴻臚寺にもどって、玄宗皇帝が派遣した使者を恭しく持てなし、皇帝の謁見日をきく。
昨日につづき、朝から晩まで儀礼尽くめで、宴席もそこそこにすぐに就寝となった一同は翌朝、猛々しい登鼓の音に揺り起こされた。
長安の登鼓は日の出とともに、承天門の鼓楼から打ち出される。
断続的な打音がひびくと、長安の門という門が一斉に開かれ、門前にすでに待機していた気忙しい人々が旅路をかける。
長安という街が、鼓によって一斉に歯車を廻すのである。
朝がきた。長安で迎える最初の朝だ。
「まったくもって、不甲斐ない」
登鼓を寝床で聞いた真備は、頭をかかえた。
昨晩、各々言い合って、鼓の音とともに朱雀門を出立すると取り決めたつもりが、長旅の疲れは、そうそう一日二日では拭いきれなかった。まして到着祝いにあけた酒も悪かった。古麻呂の傔人が洛陽で買い込んだという古酒は、天竺産の
皆、分け与えられた甁子を空けると、逃げるように早々に眠りについた。
「真備、お前もか」
慌ただしく着替え、口に膏をぬって玄関にゆくと、ばったり仲満と清河卿に出逢った。 ふたりとも虚脱していたかのように身体を引きずり、気まずそうに笑う。
「古麻呂殿は?」
「すでに出たそうだ。流石は大伴の血統。朝駆けは得意と見える」
悪酔いの不快さを引きずりながら、三人は馬にのって、朝靄の長安街にくりだした。
平康坊の北門で、清河卿と仲満と別れたあと、東市の北東の坊壁を右にまがって南進した。ふたつの坊をすぎると新昌坊がある。
新昌坊は、真備にとってむず痒い郷愁が残る場所であった。
まだ二十代そこらの真備は、一度、本分を忘れて、白皙緑眼の胡姫に入れあげたことがあった。花毯の上で舞い、酒気で肌を赤らめる色っぽさが、生来朴念仁であった真備の心をとろめかせたのだ。真備が入れあげていた女は、名を
しかし、あるとき、ふっと行方を眩ませた。
いずこの妾にでもなったのだろう。
淡い失恋によって、本道に引き戻されたのである。
あれから三十年以上。
雑多な煩悶は霧散して、ただ懐かしさだけが残った旗亭は、あの頃のままの姿で迎えてくれた。
「おお、懐かしや。
金樽楼は、一階を酒家として解放し、道路に面した壁を取っ払い、酔客の放歌がたえず外にひびている。神獣を刻んだ棟木が天井にのび、なびく朱簾の先には、客がもう半分と埋まって濃粧の胡姫が酔客の手拍子にあわせて、くるくると踊っていた。
店の右隅には急傾斜の箱梯子があり、いやに肩を寄せ合う客と胡姫が上がっていく。真備は思わず二階をみあげた。幾何学模様の木枠の窓は、観音開きで薄紙を貼っていたが、しばらくすると右隅の窓に、さきほどの男女と思わしき影がよぎった。
「おお、ここにも
軒下の席で、杯を呷る壮年が揶揄する。
男は、はちがねの突き出た美丈夫で、朝も早くから随分と酒がまわって、朱い目蓋を重そうに開け閉めする。しかしながら、突如として降って湧いた発想が彼のものうい目蓋をひらくと、干した杯をかかげて、ふたりの情事を揶揄するように詩を吟じた。
「
呂律こそまわっていないが、詩の旋律は聞き惚れるものがあった。
あらためて酔客を観察すれば、袖のくつろげた深みがかった青色の道服をきて、まるで飄逸な大店の次男坊のようにも思える。彼は盃にのこった僅かな酒で唇を濡らすと、また、
「黄河を渡らんと欲すれば、氷川を塞ぎ
と、詠う。
だが次の詩が出てこないとみえて、「発想難、思索難」と呟きながら、持っていた竹筒の中身を盃に垂らした。さらりと出てきたのは淡い唐墨で、彼は懐から筆と
「そこな御仁。墨をもっているか?」
「私ですか?」
「貴公以外に誰がおる。して持っているのか?」
「
文房四宝とは、筆・紙・硯・墨のことで、真備はこれを小さな硯箱にいれて、なにかと携帯していた。興味深いことをその場で書き留めるのが、二十代のときからの習いだった。――真備は男に墨を渡してやった。
「ほう。貴公、日本人だな?」
「よくおわかりで」
「わかるさ」道服の男は墨をすりながらいう。「強い黒色は
道士は筆先に染みこませた倭墨を目で堪能したあと、再び尺牘に墨をおとしたが、書き上げた字句を眺めた後、一気に縦に破いた。
「あ!」
「無論、傑作だ。間違えない」
「え?」
「しかし、まだ完成には至らない。必要なものが揃っていないのだ」
「必要なものとは?」
真備は吊りこまれたように尋ねてしまう。
「仙気と運気。あと酒気だな」道士は筆を空に滑らした。「仙気とは
腕まで真っ赤の掌が、指をわきわきとうごめかす。
催促に応じれば、直ぐに飲み干して泥酔しそうだが、本人曰わく、泥酔間近の頭でも詩才は狂わず、むしろ冴えると豪語する。さきの未完の詩に感じ入るところもあって、真備は道士の掌に数杯分の銭をのせようとしたが、ふとその手をとめた。
「道士殿、いつからここに?」
「いつからもなにも、春明門が開閉すると同時に長安に入って、新昌坊の南門が開ききる前に駈けてきた。オレが一番客だ」
「ずいぶんとお早い」
「友がよく此処に通っているらしくてな。もしかしたら会えるのではと。ついでに金でも貸してもらおうかと」
からからと笑う。実に強かな道士である。
「それならば道士、ここに深目高鼻で、その、やや容姿が好まれづらい胡姫を見かけませんでしたか」
「オレに惚れない女はみんな
「・・・・・・左様ですか。その女は景教とは異なる耶蘇教を信奉して、小さな西域人の男の磔刑像を所持しているのですが」
「ああ、それなら」
道士は金樽楼の二階の左隅を顎でしゃくった。
「今朝、いの一番に客をあげた醜女では――」
瞬間、真備と道士はぎょっと目を見開いた。彼等ばかりではない。その場にいた全員が凍り付いたように四肢を強張らせた。――、一声。たった一声、鋭く金樽樓に響いたのは、戦慄を覚えるような、おそろしい女の悲鳴であった。
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