ガン患者の繰り言

山下 省平

ガン患者の繰り言 1

               その一 

        

 私の生業(なりわい)は臨床検査技師である。ただ、この職業名は世間一般的にはあまり知られておらず認知度はあまり高くないようである。

 ところが、臨床検査技師が病院などでおこなっている仕事の一つである血液検査の検査結果の数値には、多くの人が一喜一憂するほど関心があるようだ。

 では、臨床検査とはいったいどのようなものなのか、もし病院で採血や採尿などを経験した人がいたら、それが臨床検査の始まりである。

 臨床検査は、患者から採血した血液や採取した尿、便、細胞などを調べる「検体検査」と、心電図や脳波など患者に直接触れて調べる「生理機能検査」の二つに大きく分けられている。

 生理機能検査は、基本的には医療機関内(病院など)でおこなわれる検査である。また、検体検査は患者から検体を採取するところまでは医療行為とみなされるので、基本的には医療機関内でしかおこなえないが、採血後の検体については適切な保存条件(採血後の温度管理や検査までの時間など)が守られていれば医療機関外での検査が可能となっている。特に開業医などでは検体検査の一部またはすべてを外部検査施設に委託している場合が多い。そして、外部委託されている検査施設のことを衛生検査所といい、ほとんどが民間の検査施設である。

 いっぽう、総合病院などの大きな施設は院内に検査室を持ち、臨床検査技師も雇用しているので、一部の特殊な検査を除いたほとんどの検査を院内でおこなっているのが一般的である。

 ちなみに、衛生検査所は病気の診断や健康診断のために採取された血液等の検体を医療機関から集めて検査する施設だが、検査施設を開設するには臨床検査技師等に関する法律で定義されている通り、都道府県知事に届け出る(登録する)必要があることから「登録衛生検査所」ともいう。一般的には検査センターと呼ばれていることが多い。


 平成二十六年三月、約二十年間働いた病院を六十歳の定年を待たずに、五十八歳で早期退職した。そして、半年後の十月から知人の紹介で、検査センターに契約社員として働くことになった。

 九月下旬、就職先の検査センターから指定された佐倉医院に行き、就業前の健康診断を受けることになった。ところが、その健康診断で胃潰瘍が見つかったのだ。幸い症状は軽く薬を服用することで治るとのことで、かかりつけ医の無い私はそのまま佐倉医院で治療を継続しながら検査センターで働くことになった。そして、このことがきっかけとなり、年一回佐倉医院で胃カメラ検査を受けるようになった。

 

 平成二十九年九月、三年間働いた検査センターを退職した私は年金生活に入った。しかし、六十五歳にならないと年金は満額支給にはならない。ただ、金額の多寡はどうあれ二か月ごとに入ってくる年金は私たち老夫婦にとって大変ありがたいものとなっていた。

「晴耕雨読」若い頃こんな隠居生活に憧れたこともあったが、現実はやはり違う。楽な隠居生活などは一部の人だけのものであって、私たち老夫婦には遠い世界の夢物語でしかないようだ。ただ、贅沢さえせねば夫婦二人の年金と少しばかりの貯えで何とか暮らしていくことはできた。ところが、そんな日常をガンという病魔によって突然破られることになった。

 

 九月中旬、胃潰瘍の治療を受けてから三年目の秋を迎えていた。

 いつものように年一回の胃カメラ検査を受けるため、佐倉医院を訪れたのだが予期せぬ結果が待っていた。

 検査後の診察室で、カルテに貼ってある病巣の写真を佐倉医師から見せられ、ガンの可能性があると言われた。ただ、胃カメラで採取した組織片を詳しく顕微鏡検査(病理検査)してみなければ現時点ではまだガンとははっきり断定できないということであり、検体(組織片)を検査センターに提出すことになった。そして、検査結果が判る一週間後に再度佐倉医院を訪れることになった。

 カルテに貼ってある写真を見た瞬間、私の脳裏には不吉な予感が過った。その写真は、病理学の本に出ているお手本のような、そんな写真に見えたからだ。これはもしかするとガンなのかもしれない。と、胸中に一抹の不安を残しながら佐倉医院をあとにした。

 検査結果が判るまでの一週間は煩悶の日々だった。ガンという文字の裏側にはいつも死という文字が表裏一体のように浮かび上がってくるからだ。しかし、その反対に何の根拠も脈絡もなく「自分は特別な人間であり、大丈夫だ。だからガンなどになるはずはない」と自信のようなものが心の底から湧き上がってくるから不思議だ。 そして、今回も三年前のときと同じように病理検査の結果は胃潰瘍であり、すべては杞憂に終わることになる、と。


 一週間後、病理検査の結果を確認するために佐倉医院を訪れる。しかし、あの脳裏に過った嫌な予感は的中していた。佐倉医師の口から危惧していた言葉が発せられ、ガン宣告という現実を突きつけられる。

 私はできる限り平静を装うとしたが、佐倉医師から発せられた「ガン」という言葉に頭の中は思考停止状態となり、たったいま、この耳で現実に聞いたにもかかわらず何か狐につつまれたようなそんな気分になっていた。そして、

「スキルス胃ガンではないのでしょうね」

 というのがやっとであった。

 佐倉医師はすぐに否定し、早期ガンであり、手術すれば大丈夫だと言ってくれたのだが、ほとんど上の空だった。

 ガン宣告によっていつもの日常が突然失われていくような剝奪感と恐怖心が心の底から沸き起こってくる。そして、この信じられないような現実をどう甘受していいのかわからなかった。ただ、佐倉医師の「手術すれば大丈夫」という言葉に、少しずつだが落ち着きを取り戻す。しかし、これからガン治療が始まっていくことになる。すると、日が経つにつれ徐々に恐怖心が強くなり、冷静な気持ちなど消えてしまい、やがて神仏に帰依せざるを得ないようなそんな気持になってしまうのだろうか。佐倉医師は「手術すれば大丈夫」と言った。だが、早期ガンであってもリンパ節に転移していないとは言い切れない。

「いや、そんな事はない。佐倉医師の言うとおり必ず治るはずだ」と、自分に言い聞かせる。しかし、何故こんなにも自分の都合のいいようにしか考えないのだろうか。もしも、すでにガンがリンパ節に転移していたら覚悟を決めることができるだろうか。時間は無限ではなく、有限であることはわかっているつもりだ。還暦を過ぎ、たとえガンというリスクなくても有限である時間は確実に少なくなっている。そして、いつかは最期を迎えることも。


 佐倉医院からの帰宅後、病理検査の検査報告書に記載されていた早期胃ガン・Ⅱⅽという文字を思い出し、パソコンのスイッチを入れる。

 すると、早期の胃ガンは大きく三種類に分類されており、Ⅰ型からⅢ型までの三種類となっていた。

①あきらかな腫瘤状の隆起が認められるものをⅠ型の隆起型という。

②あきらかな陥凹も隆起も認めないものをⅡ型の表面型といい、これには表面隆起型    のⅡa、表面平坦型のⅡb、そして表面陥凹型のⅡcの三種類となっていた。

③あきらかに深い陥凹が認められるものをⅢ型の陥凹型という。

以上が調べた結果だ。確かに早期の胃ガンに間違いないようだ。ついでに、スキルス胃ガンについても調べてみた。

 スキルスとは「硬い」という意味であり、特徴としてその名のとおり胃全体が硬くなる。通常の胃ガンは粘膜面に発生して粘膜に最初の兆候が現れる。そして、発生したガン細胞は浸潤といって周りの細胞にしみこむように広がると共に増殖して塊りを作る。この過程で胃の粘膜から出血や胃潰瘍などの症状が出ることがあり、その後ガン細胞の塊は粘膜から隆起する形で現れてくる。したがって、胃カメラやバリウム検査での早期発見が可能となってくる。そして、早期ガンでも初期の段階ならば内視鏡的粘膜下層剝離術(ESD)の治療も可能となり、治療成績の向上につながっている。

 だが、スキルス胃ガンは粘膜から隆起することはなく、粘膜下を這うように広がるのが特徴となっている。したがって、粘膜が荒れるために出てくる胃炎や胃潰瘍のような症状に乏しく初期の段階では自覚症状がほとんどなく、発見されたときには胃の粘膜下で胃全体に広がっていることがしばしばあり、それが治療成績の良くない原因となっている。それからスキルス胃ガンの検査は、他の胃ガンと同様に胃カメラ検査とバリウムによる透視検査である。


 私が若い頃は、ガンはまだ恐ろしい病だった。ところが、今やガンは治る病気として認識されるようになってきた。そして、早期なら胃ガン以外でもほとんどが治る時代となった。だから、ただの病気にするためにも早期発見と早期治療が大切だと実感している。

 私が四十五歳の時、職員健診で受けた胃カメラ検査で萎縮性胃炎と診断された。そして、ガンが発症する三年前に胃カメラ検査を受けたときに胃潰瘍と診断された。そのとき、ピロリ菌の検査も一緒におこなっていたのだが、その結果は陽性だった。おそらく、ピロリ菌は四十五歳以前から私の胃の中に住み着いていたのではないかと思っている。最近胃ガンの発症原因としてピロリ菌が深く関わっているのではないかとよくいわれるようになった。だから、医療機関などで検査する機会があれば出来るだけやっておくべきだと思っている。検査方法は胃カメラ検査以外の検査方法もたくさんある。そして、陽性だったら必ず駆除しておくべきだ。一週間ほど薬を服用すれば退治することができる。

 それからピロリ菌が生息しやすくなる状況を作り出している要因の一つに塩分の摂りすぎがある。胃酸のバリアで守られていた胃粘膜は塩分の刺激によってバリアが破壊されて炎症を引き起こしやすくなる。そして、慢性的な炎症となり荒れた胃壁にピロリ菌が住み着くようになる。そして、さらに炎症は広がっていきガン発症のリスクが高くなる。おそらく辛党で塩分大好き人間の私は、ピロリ菌が住みやすい環境を自ら作ってやっていたのだと今になってそう思っている。

 


                その二


 平成二十九年九月下旬、寝室の窓ガラスを激しく叩きつける雨の音で眼を覚ます。

昨夜からの雨はどうやら間断なく朝方まで降り続けていたようだ。今日は佐倉医師から預かった紹介状を持って市民病院の外科外来に行く日である。

 朝方まで激しく降っていた雨も八時過ぎには小降りとなり、それをきっかけに家を出た。病院に着く頃には雨は止み、雲の隙間から陽差しが漏れ始めていた。


 市民病院は四百床余りの総合病院である。三階にある外科外来までエレベーターで行き、受付の看護師に来意を告げて佐倉医師から預かった紹介状を渡した。待合室の空いてる席に座って三十分ほど待っていると名前が呼ばれる。妻と一緒に診察室に入ると田所医師と女性クラークの二人だけであった。問診のあと手術方法である腹腔鏡手術について説明を受けた。

 腹腔鏡手術とは、まず炭酸ガスで腹部を膨らませてテント状にする。それから臍を中心にして腹部に1cm前後の穴を5か所ほど開け、その一つに腹腔鏡を挿入する。そしてその先端にはカメラが付いていて、お腹の中の映像が手術用のモニターに映し出されるようになっている。さらに鉗子などの手術器具を別の穴から挿入して、腹腔内にあるカメラから映し出される映像を見ながら、体の外から手術操作ができるようになっている。

 ちなみに、腹腔鏡手術の対象者は比較的早期の胃ガンや大腸ガンなどが一般的となっている。手術時間は開腹手術よりもかかるが、創口が小さいため手術後の痛みも少なく身体の回復も早い。それ故、早期に退院できるということだった。


 腹腔鏡手術の説明後、市民病院で実施されている早期の胃ガン手術について、資料を基に具体的な切除方法の説明があった。切除方法は次の3通りである。

 ⑴幽門部切除手術について、腫瘍が胃の中央部から幽門部(出口側)に存在しているときには、出口側の胃を約3分の2ほど切除し、入口側(噴門部)を残すことになる。また、胃の広い範囲の切除として、胃の周りのリンパ節や胃に流れ込む血管に沿うリンパ節(第2群までのリンパ節)も再発を予防するために取り除き、残胃の大きさは約3分の1~4分の1程度となる。

 ちなみに、リンパ節は胃に近いところから1群、2群、3群というように分類されている。今回の手術では2群までのリンパ節を切除するのことになる。

 ⑵胃全摘出手術について、ガンの範囲が胃の噴門部(入口側)に広がっている場合には胃を全部切除することがある。また胃の病変が大きい場合や周囲のリンパ節転移が多くあり、幽門部(出口側)切除では不十分な場合におこなわれる。周囲のリンパ節や脂肪を含めて胃の全部を切除し、場合によっては脾臓や胆嚢も切除する場合もある。そして胃を切除したあとに、腸を切って持ち上げて食道とつなげる。

 ⑶噴門部切除手術について、早期の上部胃ガンで食道と幽門部(出口側)の胃を十分残すことができる場合は、噴門部(入り口側)を切除して、幽門部(出口側)を残す手術ができる。腸からの液の逆流を防ぐために、通常食道と残った胃の間に空腸の一部をつなぐこともある。

 以上が説明を受けた内容だ。そして、手術方法が決まるのはこれから実施される手術前検査の結果を踏まえてのことになる。

 ただ、説明中に発せられた言葉の中に、全摘出とか、胃の3分の2を切除するといった言葉があった。私はその言葉を聞いて無意識のうちに渋面をつくっていた。早期の胃ガンのはずだ。それなのに手術前検査の結果によっては全摘出となるかもしれないというのはいったいどういうことなのだろう。切り取ってもせぜい3分の1程度で十分ではないのか。胃を失うかもしれないという言葉に何故か納得できなかったのだ。

 しかし、しばらくして何とも言えない自分勝手で馬鹿げた考えだということに気づく。市民病院に命を預けるつもりで入院したはずだ。嫌なら今すぐ帰るしかない。私は深く溜息をつくと、覚悟を決めることにした。もう田所医師にすべてを任せるしかないのだと。


 田所医師の話が終わるとすぐに手術前検査に入った。血液検査の採血から始まり、胸・腹部のX線検査と心電図検査。そして最後に腹部エコー検査がおこなわれた。

 終了したのは午後三時をすでに回っていた。これからガンとの長い闘いが始まろうとしている。そして、最初の長い一日がようやく終わったのだ。

 検査終了後、一週間後に全身のCT検査と胃カメラ検査を実施すると田所医師から言われた。そして、これですべての手術前検査が終了し、その検査結果を踏まえて今後の治療方針と手術日が決定されることになる。まだまだ先は長いようである。

 帰りの車中、妻はしばらくすると軽い寝息を立てて眠ってしまった。長い一日が終わった安堵と気疲れとが重なったのだろう。私は起こさずにそのままにして、家路に向かった。


 十月上旬、手術前検査二回目の朝、一週間前とは違い今日はいい天気だ。気持ちよく市民病院に向かう。

 病院のエントランスに入ると正面に総合案内所あり、その右横に再診受付機が横一列に5台並んでいる。空いている1台に新しく作ってもらった診察カードを挿入すると、名前と今日の診察内容が印刷された受診票が出てくる。それを持って最初に指定されている採血室に向かった。

 採血が終わるとすぐに外科外来に行き、血液検査の結果が判るまで待合室で待つ。  

 四十分ほどして、腎機能の基準値が正常であることが確認され、放射線科へ行くように促される。血液検査の検査項目の中に腎機能が正常に働いているかどうか確認できるクレアチニンという検査がある。このクレアチニンの検査結果によっては正常であれば問題ないが、もし基準値を外れ腎機能が異常であると判断されるとCT検査で使用されている造影剤のヨードが尿と一緒に体外へ排出されることが難しくなり、CT検査は中止になるのかもしれないのだ。

 全身のCT検査は十五分ほどで終了すると、放射線技師から造影剤として使用されたヨードを早く体外に出しやすくするために水を多めに飲むようにと言われた。すぐに院内の売店でミネラルウォーター(500㎖)を買い、一本飲み干す。

 

 CT検査終了後、胃カメラ室へ移動する。胃カメラ室では、内視鏡を使用して点墨法とクリッピング法という二つのマーキング処置が手術前の胃におこなわれる。

 この手術前マーキングとは、腹腔鏡手術がおこなわれる際に病変部の切除ラインをマーカーとして目印を付けておく作業である。この目印を付ける方法には、手術中に切除する範囲が目視できるようにするための点墨法と触知して確認できるクリッピング法の二つがある。今回は両方を併用しておこなわれることになった。

 点墨法は、病変付近の粘膜下層に内視鏡用局注針を用いて墨汁を注入する方法である。手術前に墨汁を粘膜下層に局注することにより、漿膜(体腔の内面や内臓器官の表面を覆う薄い半透明の膜)面まで染色され、手術中に腹腔内からも黒色斑として容易に目視できるため病変部位の確認や切除範囲の決定に有用となる。

 次にクリッピング法だが目的は点墨法と同じである。病変付近にクリップを数本打ち込み、手術中にクリップを触知することで病変部位や切除範囲を確認することができる。ただ、クリップは脱落する可能性があるため手術前マーキングとしては点墨法とクリッピング法の併用が望まれているようだ。

 手術前マーキング処置は胃カメラ検査と同じ要領でおこなわれる。処置にかかった時間がどのくらいだったのかは覚えていない。とてもつらく長い時間だったが、付き添いの看護師が「もう少しですよ」と処置が終わるまでずっと背中をさすってくれていたことだけははっきりと覚えていた。

 最後に再度放射線科に戻り、バリウムによる透視検査がおこなわれた。放射線科にやって来た外科医と放射線技師は、バリウムの入った私の胃を見ながら胃カメラでおこなったマーキングと病巣の位置を丁寧に確認しているようだった。


 検査終了後の診察室で、田所医師から思いも寄らぬ話があった。それは、手術前検査で実施された胃カメラ検査などの結果から内視鏡的粘膜下層剥離術(ESD)の可能性があると告げられる。消化器内科の医師から報告を受けたようでESDを受けてはどうか、と打診された。

 突然だったこともあり一瞬逡巡したあと、この身体から一日でも早くガン細胞を取り除いてくれる可能性があるならと思い、手術を受けることに同意した。

 ただ、佐倉医師はESDは難しいのではないか、と判断していたようであり市民病院への紹介状の主旨も外科手術による治療内容だったと思われる。だから、佐倉医師に相談せずに決めてしまったことに少しばかりの後ろめたさを抱きながらの決断となった。そして、手術は一週間後に決まった。

 

病院からの帰り、市役所に寄り高額療養費制度の適用を受けるために限度額適用認定書の申請をおこなった。申請して交付されると、医療機関窓口での支払いが一定額にとどめられ、入院費などの支払額がかなり減額されることになっている。

 私の場合は、国民健康保険証(本人が加入している健康保険証等の提示)と印鑑、そして身分証明証(運転免許証等)と市民病院からの診断書を提出するだけだ。時間は十五分から二十分ほどで簡単に手続きは終了した。


 内視鏡的粘膜下層剥離術(ESD)の適応原則は転移の可能性の少ない早期ガンの段階であることが条件となる。

 手術方法は、まずガンの周りの粘膜下に生理食塩水を注入して粘膜上のガンを持ち上げる。そして、内視鏡の先端から特殊なナイフを出し、周辺の粘膜を切除しながらガンも一緒に切り取ってしまう。これをすべて内視鏡でおこなう。

 胃壁は、表面から粘膜、粘膜下層、筋層の順になっている。そして、ガンが進行するにつれて粘膜から奥深く筋層に向かって浸潤していく。したがって、粘膜までに留まっていれば基本的に転移は起きないと考えられ、ガンの部分だけを切除すれば根治の可能性が高くなり、ESDの適応となる。

 だが、問題はガンが粘膜下層まで浸潤している場合の判断である。基本的には転移を起こす可能性が出てくるのだが、粘膜下層での浸潤の深さが規定の基準値より浅いと判断されれば、転移の可能性は低くなりESDが適応となる。ところが逆に、浸潤しているガンの深さが規定の基準値より深いと判断されれば、ガンを切除したとしてもすでにリンパ節へ転移し、ガン細胞が増殖している可能性が高くなり、ESD は適用外となる。また、粘膜下層を超えて筋層までガンが浸潤している進行ガンは言うまでもなく適応外となる。

 ところで、浸潤しているガンの深さがあらかじめ正確にわかる方法があればESD適応か不適応かをすぐに判断することができるのだが、現在の医学では浸潤しているガンの深さを正確な数値としてあらかじめ知ることは難しいようである。            

 したがって、今回のように胃カメラ検査などによって、ESD適応の可能性が高いと医師が判断した場合、ESDを実施してガン組織を切除し、顕微鏡で分析(病理検査)する。そして、その検査結果が規定の基準値より浅いか、深いかによってその後の治療方針を決めていくのである。そして、この方法は診断的治療と呼ばれている。

 例えば今回の場合、内視鏡的粘膜下層剝離術(ESD)を実施し、切除した検体を病理検査する。その結果が手術前に予測したとおりであり、浸潤の深さが規定の基準値内であれば転移の可能性はないと判断される。そして、治療はここまでで終わり、根治したことになる。

 しかし、逆に浸潤の深さが規定の基準値より深かった場合はガン転移の可能性があると判断され、外科的手術に移行することになる。

 今回のケースで、ESDを受けるか否かを患者が判断するのはなかなか難しいこと かもしれない。ただ、外科手術によって切除された臓器はもう元に戻ることはない。   

だが、ESDなら大切な臓器を失うことはないのだ。臓器を失うことがないということは患者にとってとても重要なことである。ESDでガン細胞を切除したあとの胃壁の創は二週間あまりで治り、胃は手術前と同じ状態に戻る。そして、健康であったときの日常がまた返ってくるのだ。当初の予定通り外科手術にするか、ESDにするか思い悩む。しかし、わずかでも可能性があるなら、失うことのないほうに賭けてみたいと思うのは自明である。


 学生時代、実習先の病院で胃潰瘍の切除手術(もう50年ほど前であり切除範囲については忘れてしまった)を見学させてもらったことがあった。

 1980年以前は食事療法による治療が中心で、それでも良くならなければ切除手術をおこなうことがあった。今では考えられないと思うかもしれないが、当時は良い治療薬が無くそうするしかなかったようだ。 

 では、これからのガン治療はどうだろう。おそらく、胃潰瘍の治療がおこなわれてきた過程のように、切除して大切な臓器が失うことのない治療方法が確立されていくと信じている。

 

               その三

               

 十月下旬、今日は二週間前に受けた内視鏡的粘膜下層剝離術(ESD)の検査結果が判る日だ。見渡す限り雲ひとつない青空が広がっている。こんな暖かな天気のいい日にわざわざ病院へ行かなくてはならないのか、なんとなく気が滅入る。

 消化器内科のある二階までエレベーターで上がり、看護師に来意を告げて待っていると、すぐに名前が呼ばれて診察室の中に入る。診察室にはESDを担当した消化器内科の医師が一人で待っていた。

 ESDによって切除したガン細胞の深さが粘膜下層でどのくらいまでならリンパ節へ転移しないですむのか、その基準値となる深さがある。

 それは500㎛(マイクロメートル)未満までの深さとなっている。そして、これ以上深くガンが浸潤していると、リンパ節などに転移する確率が高くなり、再発を防ぐためにも外科手術へ移行することになる。

 私の場合、700㎛までガンが浸潤していた。基準値よりも200㎛ほど深かったわけだ。ちなみに1㎛とは、1000分の1mmの長さである。つまり、0.2mmほど深くガンが浸潤していたことになる。これはもうミクロ世界というしかない。だが、この0.2mmという目には見えないほどの小さな差が、このあとの治療方針に大きな差となって現れてくる。

 

 手術当日、胃カメラ室まで車椅子で送ってくれた看護師に、手術時間はどのくらいで終わるのか訊いてみた。すると、手術時間は思ったよりも短く、特に何もなく順調にいけば三十分から一時間ほどで終わると教えてくれた。

 胃カメラ室に入りベッドの上で身体を横向きにする。すぐに管(くだ)のようなものが口の奥のほうまで挿入される。どうやら麻酔管のようだ。そして、徐々に意識が薄れていった。

 何かに乗せられているような振動を身体に感じる。意識が徐々に覚醒してくると、それがストレッチャーに乗せられて病室まで運ばれている途中だというのがなんとなくわかってきた。病室に入ると男性看護師二人が私の頭の方と足の方に別れて身体を抱え、声を掛け合ってベッドのほうへ移してくれた。意識はまだ完全に覚めてはいないが、手術が終わり病室に帰ってきたことが少しずつわかってきた。

 しばらくして、麻酔もほとんど覚め意識もしっかりしてきたので、傍にいた妻に手術が終わった時間を聞くと、三時前に終わったと言った。つまり、十時半の手術開始から四時間以上かかったということになる。手術前に病室担当の看護師から聞いていた通常の手術時間よりも倍以上の時間がかかている。これは時間がかかり過ぎているな、と思った。

 翌日、ガン切除後の傷痕の状態を確認するためにESD担当医師によって胃カメラ検査がおこなわれたが、特に問題はなかったようだ。だが、検査後に病理検査の結果はまだ出ていないが、と前置きしたあと、手術時間が長くなってしまったのはガンの浸潤が予測していたよりも意外と深かったからだ、と言った。看護師から聞いていた手術時間が通常よりも長かったことと、消化器内科の医師が言った言葉を合わせて考える。これは外科手術行きになるな。と、ほぼ確信した。

 内視鏡的粘膜下層剝離術(ESD)は覚悟を決めて受けた手術だった。そして、胃ガンの治療はなんとしてもここで終わりにしたかった。だが、その思いは叶うことなく外科手術に移行することになってしまうかもしれない。残念な結果になってしまうが終わってしまったことをいつまでも悔やんでいる暇はない。気持ちを切り替えて次に進むしかないのだ。


 ESDの結果を聞いたあと外科外来へ向かった。胃の切除手術についてあらためて説明があり、手術は当初の予定通り入口側(噴門部)の3分の1を残し、出口側(幽門部)の3分の2を切除することで変更はなかった。そして、二週間後に入院し、翌日手術ということになった。入院日数は十日間の予定である。

 入院日が決まったあと、手術後の麻酔薬の使用方法などについて説明があるということで麻酔科に向かった。

 麻酔科の医師に会って、一番気になっていた手術後の痛みについて訊いてみた。

 それは三十年前、叔父が膀胱ガンになり全摘出手術を受けたことがあった。手術が終わり病室に戻ってきた叔父は痛みが酷いのかベッド上で声を上げて痛がっていた。その姿が今でも私の記憶の片隅に残っていたからだ。この手術後の痛みはどうなのか、叔父と同じ立場になった今、是非とも知っておきたかった。

 ところが、反ってきた答えは殊の外意外だった。

「最近は手術後の痛みを積極的にとるようになりました。今回のように首から下の手術の場合、前もって胃の反対側になる背骨に細いチューブを入れておきます。そして局所麻酔薬が入れてあるポンプ式の容器に継いでおき、手動でいつでも麻酔薬が注入できるようにしています。したがって、手術を受けたのだから痛みは仕方ないということはありません。安心してください」

 と、麻酔科の医師は説明してくれた。

 私が安堵の表情を浮かべていると、

「ただ、一つだけ注意することがあります。痛みの強さには順序があって、最初から激しい痛みがくることはまずないと思ってください。徐々に痛みが強くなってくるはずです。そこで痛みを感じたら早めに麻酔薬を入れてやることが大事です。麻酔薬に即効性はありません。痛みを我慢しすぎて麻酔薬の注入が遅れないように十分注意してください」と。

 そうか、どうやら即効性はないようだ。痛みを感じたら早めに麻酔薬を入れろということである。我慢して入れるのが遅くなると大変なことになりそうだ。麻酔科の医師の話に納得し、手術後の不安材料が一つ消えたことに安堵した。

 麻酔科での説明が終わったあと、外科外来に戻り受付の看護師に特室の予約をお願いしておく。ESDで入院したときは定員四人の一般病室だった。そのときの経験から療養するなら他人に干渉されない静かな空間が是非ともほしいと思っていた。胃を3分の2を切り取ったあと、残った胃と十二指腸をつなぐという大手術だ。定員四人の一般病室と比べると広くて雰囲気もよさそうである。その上トイレとシャワー室まで付いている。差額ベッド料は当然支払うことになるが、手術後の身体的、精神的な負担を考えるとこのくらいの贅沢はいいと思った。

 

 十一月中旬の朝、入院中に必要なものを整理しながらテレビの天気予報を見ていると、寒冷前線が日本列島を西から東へゆっくりと移動中である、と云っている。まだ十一月半ばだが、忍び寄る冬の気配を感じながら市民病院に向かう。

 病院に到着すると、一階にある入院受付の窓口で手続きをおこなう。終わるとすぐに三階外科病棟に向かった。ナースステーションの入口で声を掛け、しばらく待っていると病室担当の看護師が出てくる。挨拶のあとすぐに特室の方へ案内してくれ、これからのスケジュールと病室の簡単な説明があった。

 説明後、今後の治療について書かれている書類の内容を確認し、承諾のサインが求められれた。書類に名前を記入しようとしたとき、「疾患名」となっている箇所があり、そこには予め「早期胃癌」と印刷されていた。その四文字を見た瞬間、ガン患者として入院してきたのは当然わかっているものの、あらためて「あなたはガンですよ」と、念を押されているようで、一瞬だが気持ちが萎えていくのがわかった。しかし、何とか気持ちを切り替えて名前を記入する。

 記入後すぐに胃カメラ室に移動し、病巣の確認と同時に点墨法とクリッピング法による手術前マーキングの処置が再度おこなわれた。

 終了後、病室に戻り入院中に必要な日常品を妻と一緒に整理していると病室担当の看護師が姿を見せ、手術について田所医師から説明があるというので、その部屋まで案内してもらう。妻と一緒に後をついていくと、カンファレンスルームと表示された部屋の前で止まり、

「どうぞ、中で先生が待っておられます」

 それだけ言い終えると、踵を返した。

 ノックする、返事と同時に入ると田所医師が一人で待っていた。

 挨拶のあと妻と並んで椅子に座り、田所医師と机を挟んで向かい合う。机の上には『胃ガンの手術について』と題した資料が置かれていた。

 手術は当初の予定通り腹腔鏡手術でおこなわれる。そして手術方法は、ビルロートⅠ法である。資料の中に3分の2ほど切除された胃と十二指腸が縫合され継がった形の絵があった。幸い全摘出手術にはならず、入口側(噴門部)から3分の1程度の胃は残ることになっている。もう一度、残った3分の1の胃と十二指腸が縫合され、縫い目の入ったリアルな絵に目を向ける。早期胃ガンの手術ではあるが、あらためて大病を患ったのだと実感する。そして明日、自分の体の中があの絵のようになるのだと思った瞬間、背筋が寒くなるのを覚えた。

 最後に一番大事な話があった。手術で切除するのはガンが発症した部位を含む胃の3分の2の広い範囲と胃に流れ込む血管やそれに沿うリンパ節などである。    

切除後の組織検体にガン転移はないか、約60か所の組織を顕微鏡で分析検査(病理検査)することになっている。そして、その検査結果がすべて異常なしであり、転移なしと判れば一応寛解状態ということになる。そして、五年間の経過観察期間となるが、その間にガンの再発や転移がないというのが一つの条件になる。成長の遅いガンもあり、五年間はひとつの通過点と考えたほうがいいようだ。したがって、この五年間がガン治療後の一番大事な期間になるのかもしれない。

 もし逆に、検査結果がリンパ節等に転移していれば、抗がん剤または放射線治療へ移行することになる。ここは何とかリンパ節への転移はなく、五年間の経過観察期間になることを切に願うだけだ。

 

 カンファレンスルームから部屋に戻り、ふと窓の外を見るとすでに暮色が垂れ込み街の所々の街灯に灯りがともり始めていた。

「秋の日は釣瓶落とし、か」

 と、私が呟くように言うと、妻がそれに応えるように、

「ほんと、さっきまであんなに明るかったのにね」

 と、感心するように言った。

 身体の中にガン細胞が発見されてからは平常心を保つことはなかなか難しかった。一日でも早くこの身体の中からガン細胞を取り除いてほしいと願うばかりだった。そして、その願いがいよいよ明日叶う日となるかもしれないのだ。


 朝九時、病室担当の看護師の案内で手術室の入口まで妻と一緒に歩いていく。

 その先は妻と看護師が見守る中、私は一人で手術室に足を踏み入れた。入室するとひんやりとした空気が身体全体を包み込む。手術着の下はT字帯という手術時に使用するパンツ一枚である。手術台までが妙に遠く、長く感じられた。

 手術台の前で数人のスタッフが笑顔で話しながら私を待っている。ゆっくりと歩いて行く。何故か孤独感が胸中を埋め尽くす。気持ちが萎え病室へ引き返したくなる。いっそ、病室で麻酔をかけられストレッチャーでここまで運んでくれたほうがどんなによかったのかと。

 スタッフの指示に従い手術台に上がり仰向けになった。酸素用の管(くだ)が口の奥へ挿入されると、しだいに意識が遠くなっていった。手術室の冷たさとスタッフの声、そして手術用の白いライトの光を脳裏に残しながら。


              その四


 私を呼ぶ声がする。意識が徐々に覚醒してくるとその声が自分の耳元で囁かれていることに気づき、目を開け声の方に顔を向けた。すると、目の前に若い女性の顔があった。しばらくして、声の主が病室担当の看護師だとわかる。

「おはようございます、気分はどうですか。寒くないですか」

「うん、もう寒くはないです。ただ、もう少し寝たいね。今、何時かな」

「はい、ちょうど六時半です」

 六時半か、しかし手術後、あんなに寒くなるとは思わなかった。妻の話では四時頃に手術が終わったと言っていた。ということは、六時間以上かかったということになる。ほぼ手術着一枚の状態である。リンパ節を含めて胃の3分の2を摘出する大手術だった。妻の話では、内臓脂肪も多く取り除くのも大変だったようだ。だから身体に与えるダメージも大きかったはずだ。麻酔から覚めると身体がブルブルと震えるぐらい寒く、傍にいた妻も心配そうにしていたのをかすかに覚えている。

 しかし、それからが大変だった。手術後の血圧を時系列に記録するのだろう。そのため、両腕に巻かれた腕帯が三十分か一時間ごとなのか覚えていないが、時間ごとに左右の腕を交互に締め付けてくる。手術後で意識は朦朧としていたのではっきりと覚えてはいないが、眠りに落ちそうになると測定が始まって起こされる。一晩中この繰り返しだったので流石に参った。

 測定された血圧のデータはナースステーションに飛んでいき、自動的にデータ管理されているのだと思う。大手術のあとだけに完全なる熟睡を望むほうが無理なことかもしれないが、少しでも睡眠をとりたいと思うのは人間の持つ大事な生理的欲求である。

 一晩中、覚醒と睡眠を繰り返されて眠れなかったことを訴えるつもりで血圧計の腕帯が巻かれた腕を差し出し、眠たそうな顔を向けると、

「そうですね。でも、もう大丈夫です。今外しますね。ただ、心電図計の測定用パッドはもう少しだけ付けていてください」

 と、申し訳なさそうに言った。そして、

「痛みのほうはどうですか」

「うん、今のところ大丈夫みたいだね。痛み出したら、早めに注入するから」

 と言い、麻酔薬の入っているポンプ式の容器を手に取って見せた。すると、納得したように頷き、ナースステーションへ戻っていった。

 

 十時過ぎ、看護師が再び姿を見せた。心電図検査用に張り付けてある測定用の胸パッドを外してくれた。血圧測定ほど不快ではないが、ベッドの横に置いてある心電計から発せられるピッ、ピッという音が一晩中聞こえてくるのは気持ちいいものではない。それから手術時から排尿用として尿道に差し込まれていた導尿カテーテルも抜いてくれることになった。やはりこれが一番うれしかった。これで身体全体が随分とスッキリし、寝返りするのが楽になる。管(くだ)が入っているのと入ってないのとでは違うのだ。

 それから身体の自由を奪うものがもう一つ付いている。それは血抜き用のバッグ付ドレーンである。例えば、手術後にバッグに溜まった排液を観察して、腹部内での出血はないか、また出血して膿瘍形成を起こし感染症を起こしていないか。など、お腹の中の情報を集めるために付けている。だが、この血抜き用ドレーンの管(くだ)を抜いてもらえる時期はまだきていないようであった。

 いずれにせよ、身体的にはかなり身軽になり、精神的にもだいぶ気が楽になった。あとは点滴の針が左腕に残っているが、まだ手術後一日目だ。おそらく、あと四~五日は無理だろう。


 十四時前、病室に男性の理学療法士が訪れた。手術後最初のリハビリをおこなうためだ。主に足筋力を中心に少しずつ動かしていき、手術前の身体に早く近づけるためである。もし、これが開腹手術なら翌日にリハビリをおこなうことなど到底考えられないことだ。これも腹腔鏡手術による恩恵の一つである。

 医学の進歩は日進月歩だ。医学の進歩により多くの疾患が治療可能となり、私のような患者のQOL(生活の質)もいち早く向上することになる。

 手術後一日目であり、まだ身体の状態に不安を持ちながらではあったが、理学療法士の指導の下(もと)に身体を動かすことになった。

 まずベッド上でゆっくり上体を起こすと、両足をベッドサイドへ投げ出して床に足を着ける。ベッド上に腰を掛けたままの格好で点滴用のスタンドを体の左横に置きしっかり握る。そして、スタンドを支えにしてゆっくり立ち上がり、そして座る。この単純な動作を理学療法士の指示に従いながらおこなう。十回ぐらいは簡単にできるだろうと思っていたが、結果はその半分の六回までが限界だった。

 理学療法士の指示もあり無理はせずに終了することにしたのだが、思ったより踏ん張りのきかない足に驚くとともにショック受けた。お腹の創は一般的な開腹手術とは比べものにならないほど小さく、痛みもない。しかし、胃の3分の2ほどを切除した翌日である。見た目ではわからないダメージが身体の中に残っているのだと納得するしかなかった。

 しばらく休憩したあと、点滴用スタンドを再度利用して歩行訓練をおこなった。

 杖代わりにする点滴用スタンドを左手でしっかり握り、ゆっくりと一歩ずつスタンドキャスターを転がしながら歩く。距離はベッドからトイレまでの三、四メートルの距離だ。しかし、目標としていた五往復には及ばず、三往復するのがやっとだった。

 初日のリハビリはここまでで終了した。心配していたトイレにはなんとか自力でいけそうになった。


 リハビリ後、単純な動作にもかかわらず体力の消耗は相当なものだと実感する。

 お腹の表面には1cm前後の小さな傷痕があるだけで主だったダメージはない。しかし、お腹の中には手術が終わったばかりの新しい臓器がある。だから、致し方ないことなのかもしれない。このあとも理学療法士の指示に従い、無理せずリハビリをおこなっていくしかないようだ。

 それから特室を予約しておいてよかったとあらためて思った。定員四人の一般病室ならわざわざ理学療法士が来てくれことはなく、こちらからリハ室かどこかに出向いていくことになるかもしれない。一般病室と比べるとやはり広くて落ち着いている。そして、誰にも干渉されずに過ごせる自由な空間で一人静かに療養できる。さらに自分専用のトイレとシャワー室まである。だから一般病室より好ましいと思うのは言うまでもないことだ。特に手術後の一夜を思うと、一人だけの空間を確保できて本当によかったと思った。

 明後日から病室前の廊下を利用して歩行訓練をおこなうことになった。三日間の予定だ。焦らず、ゆっくりと。


              その五

              

 手術後二日目、「出ない、何故だろう」

 早朝五時、尿意を催しトイレに行く。だが、何故か出ない。私の脳は排尿するように命令している。しかし、うまく出ない、排尿障害にでもなったのだろうか、まったく意思が通じないのだ。

 何故だろう、導尿されていたことが原因なのだろうか。しかし、たった二日間の導尿で単純な生理現象である排尿という機能を忘れてしまうものだろうか。いや、これは手術後によくある一過性の後遺症のようなものであり、もう少し時間が経てば手術前の状態を身体が思い出すはずだ。と、根拠のない勝手な判断しかできなかった。


 六時半、朝のバイタルチェックのために看護師が顔を出す。血圧測定をおこなっている看護師の顔を窺いながら今朝のことを素直に言うべきか、このまま昼過ぎまで様子を見てからのほうがいいのか迷っていた。すると、血圧測定をおこないながら導尿用カテーテルをとってから排尿があったか訊かれる。

 突然「排尿ありました?」という言葉に、何故か私は素直に反応してしまい、自力で排尿できないことを告げていた。

「そうですか、わかりました。では、溜まった尿を出しましょうか。一応、先生に報告してきます」

 と言い、一瞬笑みを浮かべた看護師はナースステーションに戻っていった。

 看護師の顔に笑みがこぼれたということは、そんなに深刻なことではないのかもしれない。やはり手術後によくあることなのだ、と思った。そして、先ほどまでの不安はいつの間にか消えていた。

 十時過ぎ、若い女性看護師二名が姿を見せた。当然病室担当の看護師が現れると思っていたので、予想外の流れに困惑する。

 二人の看護師は導尿という処置が初めてなのだろうか。二人は黙ったまま、私の顔を窺っている。しかし、初めてということはないだろうと当然のごとく思っているので、こちらもどうしていいのかわからない。私自身も覚醒時に導尿されるのは今回が初めての経験になる。しばらく二人の看護師とお見合いでもしているような何とも言えぬ状態が続き、ついに覚悟を決めた。

「では、よろしくお願いします」

 と言ったあと、履いている紙パンツを自ら下げた。後は野となれ山となれだ。

 しかし、導尿作業が始まると、若い看護師二人の前で、木偶の坊のごとく時間が過ぎていった。

 10分か15分、いや、さらにもっとだったのかもしれない。どのくらいの時間が流れたのか覚えていない。ただ、天井をを眺めながら緩慢な時間の流れになんとも言えぬ居心地の悪さを感じていた。

 導尿作業が終わり、立ち上がった二人の視線と私の視線が合う。すると、

「はい、350㎖ほど導尿できました」

 と、笑みを浮かべ、導尿された尿が入っているプラスチック製の容器を肩の辺りまで持ち上げ、私に見せてくれた。

 私は若い二人の笑顔に応じるように

「そう、缶ビールの量と同じだね」

 と、呟くように答えるしか能がなかった。


 夕食後、しばらくして息子が見舞いに来てくれた。

 導尿に至るまでの顛末を話すと、

「それは酷い目にあったね」

 と、強く言い放った。

 我がことのように怒っている息子の面持ちを見て驚くと同時に、何故か妙にうれしくなってしまった。


 手術後三日目、昼食から全粥となり食事を摂ることができるようになった。だがほとんど満足に食べることができない。食べ切る前に腹痛が起きてしまう。おそらく、ダンピング症状というやつだ。胃と十二指腸が吻合された新しい消化器は、まだ完全に機能できるまでの状態ではないのかもしれない。だから、あまり無理をせずゆっくりと時間をかけて慣れていくしかないようだ。


 胃は摂取した食べ物をまず貯蔵するという役目がある。次に胃液により消化の第一段階がおこなわれ、食べ物を粥状にしていく。そして、粥状になった食べ物をゆっくり十二指腸へ送り出して役目は終わることになる。ところが、胃の出口側半分以上が無くなってしまい、新しくできた新生消化器は食べ物を一時的に貯蔵することがほとんどできなくなった。そのため、食事はできるだけ時間をかけ、ゆっくりよく噛んで食べなければならなくなる。食べ物を最終的に消化するのは十二指腸だ。その十二指腸にできるだけ負担をかけないようにするためにも、早食いや食べ急ぎはやってはいけない。もし、早食いや食べ過ぎで食べ物が大量にしかも急速に十二指腸へ入っていくと、ダンピング症候群というの引き起こすことになる。

 このダンピングという言葉だが、ダンプカーの「ダンプ」に由来している。ダンプカーが土砂などの荷物を投げ下ろすように、胃の内容物が一気に十二指腸へ流れ落ちていく様を表した言葉だ。

 ダンピング症状が起きると全身に色々な症状が出てくる。冷や汗・動悸・めまい、そして腹痛や低血糖症状と全身の倦怠感などだ。この全身に色々な症状が同時に出てくることをダンピング症候群と呼んでいる。胃の切除手術後に起こる代表的な後遺症の一つになる。

 午後二時、管理栄養士が病室を訪れ、手術後の食事について指導があった。

 切除手術後は当然体重は減る。70㎏あった体重は8~9㎏減り、61㎏台までになった。そして、一度に食べる量も減ってくる。だから手術後の体重減は必至である。そのため、その減った食事量と栄養を補うために朝食、昼食、夕食後の各二時間後に間食時間を作る。間食用の食べ物はカロリーメイトなどの補助食品や牛乳などの飲み物で良い、これで一日六食とする。つまり、これで胃と十二指腸の新しい関係を時間をかけてゆっくり作り上げながら栄養もきちんと補っていくというわけだ。ただ減った体重を早く戻そうとして焦ってはいけない。手術後の消化力はどうしても落ちている。だから、それを補うためにもよく噛んでゆっくり食べることが大事である。また、食後の消化不良や胃酸の逆流を防ぐために身体を横臥位にしてはいけない。できるだけ背筋を伸ばした姿勢で三十分以上テレビでも見て休むように、と言われた。そうすることによって、消化吸収が促進するようだ。ダンピング症状を防ぐためにも決して無理をして食べてはいけない。胃の切除手術を受けた者にとって、ダンピング症候群は避けられない後遺症の一つだろう。けれども、何とか起こさないようにうまく付き合っていかなければならない後遺症でもある。

 いずれにせよ、全粥ではあるが、病前のように食べ物を口にすることができるようになったことはうれしい。これからも胃と十二指腸で吻合された新生消化器が、元の消化能力に少しでも近づけるよに頑張るしかないのだ。

  

 午後三時から歩行訓練が始まる。長さ20mほどの直線の廊下を杖代わりの点滴用スタンドを転がしながら理学療法士と一緒にゆっくり歩く。

 二往復したところで今日の訓練は終わった。徐々にではあるが体力も戻りつつあるのか、足の裏が地に着く感覚が戻ってきたようだ。さらに足全体で踏ん張る力強さも戻ってきた。歩行訓練を終えて病室に戻ると、尿意を催しトイレに入る。しばらくして、あまり勢いはないが少量の尿が放出された。自分の意思がなんとか通じたようだ。

 ともあれ、自力で排尿できたことがこれほどうれしいとは、今までにない経験となる。そして、以前と同じ生理機能を取り戻せたことに胸をなでおろした。

 

 手術後四日目、目が覚めるとすぐトイレに立った。そして、いつもの日常が戻ってきた。

 午後三時から二回目の歩行訓練を実施する。無理せず、一歩ずつゆっくり歩く。つま先がしっかり上がるようになり、歩き方がしっかりしてきたと理学療法士に褒められる。本日も二往復したところで終了となった。

 理学療法士と病室の前で別れて部屋に入る。冷蔵庫の中からスポーツドリンクを取り出して水分補給する。ゆっくり少しづつ飲めば腹痛を起こすことなく喉を通っていくようになった。

 

               その六


 手術後五日目、本日にて点滴が終了する。さらに血抜き用ドレーンの管も抜いてもらえることになり、一気に身体が身軽になった。

 昼前、いつものように妻が顔をみせてくれる。そして、今日は休日ということもあって、息子夫婦と一緒に孫たち三人も見舞いに来てくれた。

 病室は一気に賑わい、楽しい時間が流れたのだが、保育園に入ったばかりの一番下の男の子は何故こんなところで、しかも見たこともないようなベッドの上にいる私を戸惑いの目で見ているようであった。

 ともあれ、孫たちが顔を見せてくれたことは、殺伐とした入院生活を送っている私にとっては最高の癒しの時間となった。

 昼食からほぼ普通食に近い食事となる。そのためか、痛み止めの薬を食後に服用するようにと、五日分ほど用意してくれた。

 固形物の食べ物を最後まで食べ切るというのは、現時点ではなかなか難しいことだ。十二指腸への負担をなるべく和らげるために、よく噛み、ゆっくり食べるように心がける。しかし、胃と十二指腸を吻合してできた新生消化器にとってはまだまだ負担は大きいようで、最後まで食べ切れず残してしまうこともあった。

 痛み止めの薬は食後にすぐ服用するようにしている。ただ、食事中に腹痛が起こることもあり、そのときは大体酷い痛みが襲ってくることが多い。

 痛み止めの薬はいつまで服用するのか、あるいはこれからずっと服用しなくてはならないのか不安になる。ただ、新生消化器が徐々に消化作業に慣れていき、消化能力を高めるまでは致し方ないのかもしれない。


 手術後六日目の早朝、昨晩に続き排便がある。これで便通のほうもほぼ病前の状態に戻ったようだ。ただ、注意しないければならない後遺症がある。それは腸閉塞だ。

 消化器系の手術後の後遺症として、腸がお互いにくっつきやすくなったり、腸が細まったりする。すると、食物で腸管が塞がり腸閉塞を起こすことがある。

 予防するにはよく噛んで食べ、食べ過ぎないことと、硬い食物やタケノコ・ゴボウなど繊維の多いものや海藻類をなるべく避けたほうが良い。ただし、絶対に食べてはいけないというわけではなく、食べるなら細く刻んで食べるといいようだ。

 二十年前、腸閉塞の患者を目の前で見たことがあった。それは午前中の外来診療が終わりかけたときだった。中年の女性が救急搬送されてきた。その女性は痛みが酷いのか、院内に運び込まれても「痛い、痛い」と大声で叫んでいた。外来処置室の前にいた看護師に訊ねると「腸閉塞だそうです」と返事が返ってきた。

 この光景は今でも鮮明に覚えている。痛みは怖い。そして、できるなら避けたい後遺症の一つだ。


 午後三時、二日ぶりに三回目の歩行訓練をおこなう。いつものように理学療法士と一緒に並んで歩く。そして、いつものように二往復したところで終了し、歩行訓練も本日にて終了となった。手術後六日目で、これほど歩けるようになるとは思ってもいなかった。これも腹腔鏡手術のメリットの一つなのだろう。

 

 手術後七日目、食べ物を口にすることができるようになったことはやはりうれしい。そして、身体の状態も上向き加減になってきた。ただ、問題なのは食事の量である。管理栄養士がきちんと計算し、考えて出された食事量だと思う。しかし、私にはまだ多いように感じていた。何とか食べなくてはと心掛けるのだが、なかなか食べ切れないことが多い。やはり新生消化器にはまだ負担が大きいのかもしれない。無理して食べようとするとダンピング症状が起きてしまう。痛み止めの薬はいつでもすぐ服用できるように準備万端整っている。だが、薬を飲んでもなかなか治まらないこともある。にぶく、重苦しい痛みがみぞおちの辺りを襲ってくる。腹痛はなかなか治まらず、頭頂部から首筋のあたりにかけて冷や汗が滲んでくる。ここまでくると痛みもピークとなり、あとはひたすら痛みが去ってくれるのを願いながらお腹を軽く両手で押さえ、神頼みするしかない。


 手術後八日目、朝の回診時に田所医師から二日後に退院予定とする、と言われる。

 午後二時、退院後の食生活について管理栄養士から食事指導を受ける。

 新生消化器にとって消化に良い食材とは何か、それは脂肪の少ない食材が良いということだった。例えば私の好きなイワシ、マグロ、ウナギはよくない、ヒラメ、カレイ、アジなどが良い。また肉類はヒレ肉や鶏肉は良いが、豚肉、魚肉ハムやベーコンはよくない。それから野菜は、カブ、人参、大根などを軟らかく煮て食べると良い。そして美味しい、私も大好きな料理の一つだ。逆に繊維の多いタケノコ、ゴボウ、キノコ類や海藻類は良くない。このことは、腸閉塞の予防ということで先述した通りだ。それから塩辛いものや香辛料を使った刺激の強いもは避けたほうが良い。

 次に飲み物だが、牛乳やヨーグルトなどの乳酸飲料は良い。だが、コーヒー・炭酸飲料は控えたほうがよい飲み物となっている。

 それからお酒がある。基本的には飲まないほうが良いが、条件付きで飲んでもいいことになっている。もちろん体調と相談しながら飲むようにしなければならない。そして、基準となる一日の飲酒量がある。日本酒なら一合まで、ビールは500㎖缶一本までがおよその目安となっている。

 最後に、切除後の胃は胃酸が出にくくなり、その弊害として殺菌作用が弱くなるので刺身など生で食べるものについては下痢などの症状を起こしやすくなるので十分に注意するようにと言われた。


 手術後九日目。朝の回診時にお腹の調子はと田所医師に訊かれ、「特に問題ない」と答えたあと、昨日の食事指導のことを思い出し退院後の飲酒について訊いてみた。

「いいですよ、飲まれても。ただ、これからはお酒がダイレクトに十二指腸へ入っていくので、酔いが回るのが早くなると思います。だから、その点だけ気を付けてください」

 と言い、小さく笑った。

 退院を一日前にしたその夜、夕食をしっかり食べることができた。そして、新生消化器の調子もすこぶるよかった。

   (がん患者の繰り言 2 へ続く)  

 

 




 



 

 



 


 

 


 


 


                   



 






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ガン患者の繰り言 山下 省平 @3662-893

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