第3話 ASPワクチン
首都高速道路
都心に蜘蛛の巣のように張り巡らされ伸びる路。その上を走る車の後部座席から愛夢は外を眺めていた。
さながら今の自分が置かれている状況が、がらんじめに絡めとられ捕食されるのを待つ獲物のようであり、なす術もなくただ置物の様に黙ってそこにいた。
国産で人気モデルの普通自動車は、漁火の安全な運転も相まって乗りごごちがよく今の状況でなければ眠りに落ちていてもおかしくない。
「どこのデコイだ?」
助手席の美剣がタブレットを操作しながら漁火に話しかける。
「B8です。溝呂木さんが防衛省と警察庁に連絡をしてくれたので今、速度制限が解除されました」
「とばして三十分、ギリギリだな」
その言葉を始めに車の速度が上がる。
下りの首都高の灰色の景色と、前の座席の二人の緊迫した会話に緊張が高まる。
先程から二人が時間を気にしているのは、迅速にしかも秘匿にアスピオンを倒さねばならぬからだろう。
漁火は忙しなく黒のワイヤレスイヤホンで誰かとずっと通話している。美剣も口笛を吹きながらタブレットを操作しつつ、白のワイヤレスイヤホンで通話を始めた。
「交通省から確認連絡がきました。特別規制によってこれよりの我々の走行が優先されます、そちらの到着予定時刻が分かり次第こっちに連絡をください」
漁火はひっきりなしにかかってくる着信の全てに丁寧に対応をしつつ運転には全く影響は出していない。高速の車はブレることなく変わらず心地よい走りを続けている。
「おー最悪オレ一人でもやるから大丈夫だって!鳥獣タイプだったら詰むかもだけど、そんときゃ漁火と一緒に何とかするからよ!」
美剣も誰かと通話しているが漁火とは対照的な軽さで、どこか浮ついているようにも見える。
会話の内容からこの二人の偉大さを痛感する。
やはり住む世界が違う、あの勧誘は間違っていた。
愛夢は明日の学校のことを考え自分自身に現実をつきつける。
飛び降りたところを誰かに見られていたらまた変な噂の的になるだろう。一番嫌なのは、漁火と美剣が自分のせいで誰かに悪く言われることだ。
人知れずに命をかけてアスピオンと戦ってくれている彼らにそんな仕打ちはあってはならない。
固く瞳を閉じて神に祈る。
「に〜し〜み〜や〜あ〜む〜」
文字通りの間延びした声で、突然話しかけられ愛夢は驚く。助手席のシートを軽く倒しながら寝転んだまま美剣が話しかけてきた。
「悪いな、電車とか地下鉄使ったほうが早いときはそっち使ったりするんだけど、今日は場所が悪くてな」
斜め後ろの後部座席の愛夢を見上げるような形で彼は話を続ける。
電車と地下鉄も彼らのアスピオン討伐に一役買ってくれている。誰かの仕事が彼らを助け、今日の平和に結びついているのだ。
背筋を伸ばす。同じ道を歩んでいけなくてもどこかで二人と繋がっていると思えば、卒業後の不安が少し和らぐようだった。
今日の体験が終わったらこのことを胸に刻み、二人に恥じないように生きていこうと決意する。
「なーんかオレ、お前が見当違いなこと考えてるような気がしてならんのだが・・・」
愛夢にとっては美剣こそが見当違いという言葉そのものなのだが、口には出さずに無表情に彼を見つめる。お互いに無言で見つめ合っていると先に口を開いたのは美剣だった。
「お前、オレの名前ちゃんと覚えてるか?」
「みつるぎさん・・・です」
苦手意識からか声の調子がはずれてしまう。
「もっと可愛く呼ばんか!お兄ちゃんとか、先輩とかつけてもかまわんから!」
お兄ちゃんと先輩の部分だけの声色が高い。無理難題を言われ愛夢は首を横に振る。それを見た美剣は人差し指を立てて自身の頬を引き上げる。
「んっ!コレ!」
美剣が教えてくれた熟練の熟女の相槌だけで会話を成立させるコツ、笑顔のことを指しているのだろう。漁火はまだ誰かと通話をしている最中でこちらの会話に口を挟む余裕はなさそうだった。助けは望めない、困り果てて黙っていると徐に美剣が口を開いた。
「あー、泣いてる顔も悲しい顔も困った顔も見たのに笑顔だけが見れんとは・・・」
そう言われ最後に笑ったときのことを思い出す。
数日前のバイトの帰りに足元に人懐っこい猫が擦り寄ってきたときのことを。
動物は愛夢が笑っても怒らないし揶揄ってもこないから好きだ。同じ理由で人に対しては笑うことが怖いのだ。十八年も些細なことで蔑まれ続けてきた傷が、美剣と漁火の二人を信じることをさせてくれない。
「絶対に笑った顔見てやるからな、覚悟しとけよー!」
そう喧嘩腰に言われてしまい愛夢の眉がさらに下がる。自分の笑顔はそれほど頑張ってまで見る価値があるものではないのに、美剣はなぜそれほどまでに躍起になってまで見たがるのか意味がわからなかった。
「オレは今からお前から話しかけてくるか、笑うかしない限り黙ってお前を見続けるからな!やるか?三十近いおっさんと本気の睨めっこを!」
そう言い放ち口を尖らせながら愛夢を見つめ続けてくる。先に折れたのは愛夢だった。
「あの、二年前の確認ってなんのことでしょうか?」
漁火が言ったメテウスの存在を認識して貰うための確認という言葉が先程からずっと気になっていた。出来れば口にした本人に聞きたかったが、仕方がないので今聞ける美剣に聞く。
「おー!それな!お前、狂犬逃走事件の後に実施されたワクチンを二年前に打ってるよな?」
高校一年の春にワクチン接種したことを思い出し「はい」と短く返事をする。
「その後どうなった?」
「すぐに副反応が出ました」
そのときは接種後すぐに脈拍の異常と高熱、さらには体の痛みに苦しみその場で倒れてしまったのだ。健康だけが取り柄だと思っていた自分がそんなことになり、さらにその日に行くはずだったバイトにまで穴を開けてしまい周囲に仮病だの、かまってちゃん、だのと言われた苦い思い出がよみがえる。
「それだよ、西宮愛夢!それがお前がメテウスを持っている証拠だ!」
まさかそんなことで?という驚きが愛夢の口を開かせる。
「その日にたまたま体調が悪かっただけです!それとも薬との相性が悪かったとか・・・」
異議をとなえると運転席から吹き出して笑う漁火の声が聞こえた。
「昔のお前と同じこと言ってるぞ、漁火」
「あはは、具合が悪くなったから貴方には特殊な能力があります、なんて言われたら誰だってそう言いますよ。ね、西宮さん?」
通話の終わった漁火が会話に参加してくる。美剣と話すのは緊張の連続だったが、それが緩んでいくのを感じホッとする。
その変化を感じ取られたのか美剣は少し不機嫌そうに愛夢に問いかける。
「はーい、ここで問題でーす。狂犬逃走事件で発見された新種の病原の名前をお答えください!3・2・1・はい!」
「えっ、あっ、Acid 、Silent、Poisonの頭文字をとってASPウイルスです!」
「はい!正解です!百点だ西宮愛夢!」
厳しく静かに進行する毒、なんと恐ろしい名前のウイルスだと当時はテレビも新聞もひっきりなしに話題にしていた。百点と言われたことが少しだけ嬉しくなり次に何を聞かれてもいいように説明会での漁火の話を頭の中で思い出す。
アスピオスとアスピオン、ASPの文字が頭の中で交差する。浮かんだ疑問が自然と口から出てしまう。
「もしかしてASPってアスピオスの略称ですか?」
漁火が言っていた"ほとんどが嘘"という言葉が本当なら世間に公表されている情報は全く信用ができないことになる。そもそもASPはウイルスですらない、アスピオスという未知の物質だ。この仮説が真実だと言わんばかりに、美剣の手を叩く音が静かな車内に響く。
「ご明察の通りです、私も拍手をしたいのですが運転中なので美剣さんの拍手で我慢してください」
「おい、オレの拍手を粗悪品みたいに言うな!」
なぜ先の説明会でこの話を漁火はこの話をしなかったのだろうか、こんな一番大事な話を、と愛夢は思ったが安心からつい余計なことを言ってしまう。
「そのワクチンを打っているから人間はアスピオン化しないんですね。まだ打てていない人たちも急がなきゃいけませんね」
病状の進行の速さを懸念して、ワクチン接種は今のところ十六歳から四十歳未満が優先されている。老人と子供も希望すれば接種することは可能だがASPウイルスは対象の年齢が発症しやすいという研究結果から順番に接種を待ってもらっているという現状だ。
珍しく喋喋としてしまう、愛夢がしまった謝らなければと思ったときにはもう遅かった。
美剣が眉間にシワを寄せている。不快にさせてしまったのだろう。
「すみません!喋りすぎました!」
慌てて頭を下げて謝ると美剣も即座に返事をする。
「いやいや、謝らなくていい!大丈夫だぞ、お前はなーんも心配しなくてもいい!」
ひらひらと片手を振りながら美剣は言葉を続ける。
「本当はオレら以外の人間にとってはワクチンという名のただの生理食塩水なんだけどなアレ」
生理食塩水、自分は輸液で体調を崩したのだろうかと心配になっていると運転席から漁火の声が聞こえる。淡々とした冷たい声で彼は言った。
「美剣さん、ちゃんと言いましょうよ。アレはワクチンなんかじゃなくて毒なんだって」
美剣はただの生理食塩水だと言う。かたや漁火の方は毒だと吐き捨てる。愛夢としては優しい漁火の言葉を信じたくなるが、今の彼は先刻までと、どこか様子が違う。その言葉をそのまま信じるのなら自分は毒を注射されたということになってしまう。
「一旦落ち着け!その言い方じゃ西宮愛夢が怯えるだろう」
「西宮さん、ASPワクチンは人間をアスピオン化させない為に打つんじゃないんですよ。逆なんです」
漁火のハンドルを握る手に力が入りギリッという音が聞こえる。
「アスピオンを倒すことが出来るメテウスを持っている人間を、我々を探し出す為だけに政府と医療機関がグルになって国民を騙して、ワクチンと称してアスピオンの組織液を希釈したものを打ち続けているんですよ!今、この瞬間も!」
彼らしくなく声に怒気を含まれている、愚痴を言っていた時の比ではなかった。すべて言い切った漁火の息は少し切れていた。
「ワクチンってそういうもんだろ。もーちょい、オブラートに包めよー!」
「聞こえのいいことばかりを並べて西宮さんを騙すなんてこと私にはできません!」
「オレが話すからお前はもーちょい落ち着け・・・」
「口は挟ませてもらいますからね!」
愛夢は怖かった。怒っている漁火も、真実を隠しているこの国も、自分の中に打ち込まれたASPも、そしてこれからどうなっていくのか、そのすべてが。
美剣が両手で顔を覆って大きく息を吐く。そして指の隙間から愛夢を見つめた。
何か言わなければ会話をしないと言われた。また静寂な時間が訪れる、しかし何を言っていいかもわからずに膝に置いた手を強く握ることしか出来ない。
「ごめんなーびっくりしただろ?ちゃんと説明すっから分からんかったら質問しろよー」
優しい笑顔と声色が、ちゃんと全部わかっているから安心していいぞ、と言ってくれているように感じた。破天荒な部分があると思えば、悲しい顔をしたり、凄く優しいときもある、激情家な彼が何だか猫のように感じ少しずつ親しみが湧いてくる。
「まず人間はアスピオン化しない。これはASPを打っていようがいまいが変わらない。もしするなら最初のアスピオンが殺した二十一人から誰かが黄泉返らないとおかしいからな」
「今のところはASPを打った方々が亡くなられてからも、打たれていない方々も、アスピオン化した報告はただの一件もありません」
美剣の言葉に続けて漁火の補足が入る。
「それから一番大事なのはお前の身体の変化だな。アスピオンの組織液が身体に入ったことによってお前のメテウスが活性化して拒絶反応がおこった。副反応はそのせいだ、ちゃーんと異物をぶっ殺せて偉いぞー、健康が一番だ!」
「アスピオンの組織液は我々の拒絶反応が起こるギリギリに希釈されています。メテウスを持たない体にも影響を及ぼさない0.00001%だそうなので普通の生活に支障はきたさないそうですよ」
拒絶反応の出た日のことを思い出す。1,000万分の1の濃度だというのにあの体調の悪さなのだから原液が身体に入ればひとたまりもないだろう。
「まぁ、我々の与えられている情報だって本当に正しいものなのかどうか疑わしくはありますが」
「漁火、トゲがありすぎるぞー!お前は前しか見てないから仕方ないが西宮愛夢、さっきからすっげぇビビった顔してるからなー」
言われて気がつく。顔はどうなっているかは分からないが、怖さと緊張のあまりに爪が食い込むくらいに手を握り込んでいた。開くと爪の痕が残っている。
「すみません、西宮さん。ついでになりますが今から高速を降りて山道を走ります。揺れるのでご注意くださいね」
高速道路インター出口の緑色の看板は愛夢の知らない土地の名前が表記されていた。ここに至るまでの道すがら、走行している車をほとんど見かけなかった。平日の昼間の高速はこんなにも空いているのだなと感心していたがその異常性に今、気が付く。
「美剣さんはさっさとシートを起こしてくださいね」
「へいよー」
シートを起こした美剣と距離が遠のく。
漁火の運転する愛夢たちの乗っている車は鬱蒼と樹々が茂る山中の"工事中につき通行止め"と表記された道を止まることなく走行して行く。
同じ道を行く車どころか対向車すら一台もいない。法定速度をゆうに超えた車は山頂へと向かっていた。
「どうだ!西宮愛夢!これが国家権力の力だ!」
「何で美剣さんがドヤ顔してるんですか」
「見てねぇくせに何でわかんだよ?」
「何年一緒にいると思ってるんですか?声でわかりますけど」
高速道路よりはスピードが落ちているとはいえ大きく左右に揺られる道が、無口な愛夢からさらに言葉を奪う。助手席のアシストグリップ握った美剣が後部座席の愛夢に振り返り話しかける。
「大丈夫かー?勝手に話続けるが質問あったら舌噛まん程度になー」
「・・・っはい」
蛇のような山道は漁火の鮮やかなハンドル捌きによって次々と攻略されていく。
愛夢はシートベルトを強く握った。
「オレらは四年前の狂犬逃走事件のすぐ後にASPを打ってメテウスが見つかった。んでその後から今に続く接種で反応が出たのがお前ただ一人だったんだよ」
「っでも、私は漁火さんみたいな黒いもの、出せませんっ!」
身体を左右に振られないように身を縮める。
「おっ、カラスを見せてもらったのか。まぁメテウスは発現に色々条件があるんだ!後でオレのメテウスを見たとき漁火に説明してもらえー」
あの漁火の黒い能力はカラスという名前なのか。彼らしいような、似つかわしくないような、そのどちらにも当てはまる気がしてしまい複雑な思いを抱く。
「西宮さん、ASPを身体に投与されたあと拒絶反応以外で何か変化を感じませんでしたか?身体能力と集中力の向上とか」
そんなものはなかったと答えようとしたが、イジメの発端となった出来事を思い出してしまった。
陸上部の生徒より足が速くなったことを。
テストの点数が上がったことを。
「あっ・・・わかりません」
漁火に嘘をついてしまう、罪悪感で前を見れない。
「そうですか・・・」
漁火がどんな顔をしているかは見えないが声だけは優しかったように感じる。静寂によって、タイヤがアスファルトを走る音が煩く感じ居心地が悪い。その音に負けないと場を明るませるかのような美剣の声が車内に響き渡る。
「またまた問題でーす!さぁて、なぜにASPは十六歳から四十歳の人間に優先的に投与されているでしょーか?お答えください、西宮愛夢!」
「えっ・・・若い人だから、ですか?」
「うーん、まぁ正解!九十九点!」
あとの一点分の答えを頭で必死で考えるが分からなかった。
「探しているですよ、政府は。若くて健康で体力があって、メテウスを持っている人間を。我々四人以外の従順にアスピオン戦ってくれる、奴隷になってくれる人間をね」
代わりに答えをくれる重々しく低い声、あの優しい漁火をここまで怒らせる一点分の答えは愛夢には想像すら及ばないものだった。美剣は甘いのだろう、全くもって正解などではない。
「いーさりびくーん、オブラート」
おそらく場を和ませようとしてくれているのだろう、ビブラートを効かせて歌う美剣の声が車内に響く。しかし全くの逆効果であり殺伐とした空気だけがこの場を支配していた。
空気を変えようとしたわけではない、変えられるとも思ってはいないが一点分の答えを探している間に感じた疑問を愛夢は口にする。
「あの、いるんじゃないでしょうか?メテウスを持っている人、拒絶反応が出た人をニュースで見たことがあります!」
今も拒絶反応と戦っている反ワクチン派の人間、その人たちは現在、国に訴えを起こしているらしい。上は八十六歳から下は五歳と幅広くいる。記憶している中には二十代の男性や女性もいたように思う。
もしかすると頼めばアスピオンを戦ってくれる人間もいるかもしれないと期待を込めて二人に問う。
「あー反ワクの連中ねー」
「あはは、あの人たちですかー」
思っていた反応とは違うものが返ってくる。
もうきっとその人たちのことは調べてあるに決まっているのに、自身の考えが何も及んでいないことに恥ずかしさを覚えた。
「すみません・・・」
顔から火が出そうなのを堪えて声を搾り出す。
「いやいやそう思うのも無理もないよなー。実はな、十六歳以下の人間と四十歳以上の人間にはマジで生理食塩水しか注射してないんだわ!」
「ノーシーボ効果というやつですよ、西宮さん」
プラセボ効果の逆で思い込みで副作用が出る効果のことだと漁火が付け足して教えてくれる。
「本当にただの一人もいないんですか?ニュースでは二十代の人もいるって・・・」
「反ワクチン派の皆さんは症状がバラバラなんですよ。メテウスによる拒絶反応は我々全員一致していました。西宮さんも脈拍の異常と高熱、体の痛みを感じたんじゃないんですか?」
「確かに、そうです・・・」
「反ワクの連中に身体能力の向上は誰一人見られていないし検査にも非協力だ。おまけに金の話ばっかりしやがるし、調査したら家では超健康体よ!」
「私、あの人たちとは一緒に戦いたくないですね」
「同感だ、まぁここにやっと一人だけ見つかってくれたことに感謝しよう」
二人の声は段々と沈んでいく。
「そんな・・・じゃああの人たちは・・・」
「もしかしたら本当に具合が悪いのかもしれませんね。医療ミスか何かで別の注射を打たれたのかもしれませんし、本当に生理食塩水が身体に合わない体質の可哀そうな人たちかもしれない。どちらにしても我々の領分ではないのですけど」
またあの漁火だ。顔は見えないけれど、そこにいるのに遠く感じる。濡羽色の彼がまた泣いているように感じられて歯痒かった。
ゴホンという咳払いの音が聞こえる、美剣が両手を握り顎に添えながら漁火に向かって甲高い声を出す。
「その日に〜たまたま体調が悪かっただけで〜す!それとも〜薬との相性が悪かったとか〜」
美剣は愛夢の物真似をしたのだろう。ざっと鳥肌が立つのを感じた。漁火も同じだったらしく一度大きく身震いするのが後部座席から見えた。
「どうだった?似てたー?」
「美剣さん・・・私さっきから寒気と鳥肌が止まらないんです。車の死亡事故って助手席側が一番多いことだけお伝えしておきますね」
そう言い終わると車は助手席側のガードレール、ギリギリをカーブする。
「あぶねぇっ!?お前はオレと西宮愛夢の二人分の命を背負って運転してんだぞ!?下りの山道だったら死んでたぞ!」
「西宮さんは運転席側の後部座席ですので私が命懸けでお守りします。下りも心配ありません、でも美剣さんのことは知りません」
「きゃ〜!やだ〜もぉ!漁火さぁんがこ〜わ〜い〜!」
「ゔっ・・・」
漁火の身震いに合わせて車体が軽く横にブレる。
「美剣さん、いい加減にしてください!すみません西宮さん大丈夫でしたか?」
「はい、でも私の話し方が気持ち悪いばかりにこんなことになってしまって申し訳ありません・・・」
自分はいるだけで人を不快にさせることを忘れていた、きっと美剣の物真似は似ているのだろう。自分がこんなに気持ち悪い話し方をしていたとは気が付かなかった。愛夢自身も聞いているだけで震えと鳥肌が止まらないくらいだ、涙が出そうになるのを堪える。
「美剣さん、私こんな話し方だったなんて知らなくて。気付かせてくれてありがとうございます・・・」
「あっー!ごめん!誤解だ!!!!西宮愛夢!!!!」
その言葉を合図に車のスピードがさらに加速した。
「その通り!誤解してらっしゃいますよ!!!西宮さん!!!貴女は大っ変可愛らしくていらっしゃるし!さらに礼儀も正しく!声も優しく綺麗で聞いているだけで心安らげます!さらに私を幸せな気持ちにまでさせてくれると同時に笑顔にさせてくれますっ!!」
そう漁火は叫びながら、また助手席側のガードレールのギリギリを走る。先程とは違う攻めのカーブだ。
「ちょっ!漁火!これ公用車だから!擦れる!」
「貴女の天文単位級の可愛さにっ!美剣さんの醜悪で!下劣で!低俗な!物真似なんてっ!足元どころかっ!同じ時空に立つことすらっ!許されませんっ!!!!!」
車は長いカーブを曲がり続ける。叫んでいる間中、漁火は小刻みにハンドルを動かして美剣を攻めるようにガードレールにぶつかる寸前の擦れ擦れを走る。
「ヤバいっ!ぶつかるってーー!!」
愛夢は揺れで身体が左側に引き寄せられてしまうのをシートベルトを握りしめて耐える。
「ちゃんとっ!西宮さんにっ!謝ってくださいっ!」
言葉を区切るたびに車はガードレールに離れては近づくを繰り返す。
「申し訳ないっ!ごめん本当っにオレが悪かった!」
最終局面のカーブが終わり山頂までの直線の上り道を、限界までアクセルを踏み抜かれた車が走り出す。
車内は三人のそれぞれの息切れの音が重なっていた。
「えっと・・・あの・・・」
照れた顔を見られたくないので手で口と頬を隠す、何か言いたいのに何も言えない。漁火の言葉に身体中が燃えているように熱くなり居た堪れなくなる。愛夢の心臓は強く脈打つ。今までの人生の中で男の人に褒めてもらったことなどなかったからだ。
「あっ・・・あぁ・・・すみません!私が一番気持ち悪かったですっ・・・」
そう言った漁火は後ろ姿しか見えないが、首と耳が真っ赤になっていく。
彼のスマートウォッチからピッーというアラートの後に女性のAI音声が流れてくる。
『心拍数ニ異常ヲ検知シマシタ。漁火システム維持ノ為、安静ニシ心ヲ落チツカセテクダサイ』
「・・・っシステムって?」
胸とお腹の辺りがむず痒くなるのを誤魔化すためにわざと話題を変える。先程の漁火の叫びは社交辞令に決まっている、"ありがとうございます"などと言って自惚れたなど彼に思われたくない。
「あっ、私のメテウスはデコイのほかにアスピオンの索敵も行っています。市街地に現れたアスピオンを人気のない場所のデコイに誘導してそこに行き屠る、この流れが漁火システムと呼ばれているんです」
少し早口で漁火は説明をする、聞いているだけで大変な集中力がいる作業だと分かる。確かに精神状態によって左右されてしまうのだろうから心拍測定機器をつけているのも頷ける。
「すっ、すごいですねっ」
「いえいえ!たまたま私の名前と同じ、漁船の魚の誘導方法の名前にかけているんですよ!ぎょか、とか、りょうび、と呼ばれているヤツですよ!」
「それでもっ、すごいです!」
「いいえ!私は戦闘では本当に役立たずなんです!これくらいのことしか出来なくて情けないです」
「でっ、でも漁火さんのそのシステムのおかげで助かっている人が沢山いると思います!」
「本当にすごいのはアスピオンを倒してくれている私の仲間たちですよ!私なんか全然ダメです!」
その仲間の美剣が消え入りそうな声で呟く。
「なんかオレ、戦闘前にすげぇ疲れたんだけど・・・」
そう言いぐったりと力なく項垂れた。
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