人を見る目にメガネを

ばーとる

前半

「アンナは廊下の掃除をお願いします」


 針を刺すようなメイド長の声が部屋の空気を固めた。彼女の姿は気が勝った男のようであり、それでいて気高さを保っている。背筋は鉄のようにまっすぐで、視線は槍のように突き進む。そして、その先にはアンナが居た。


「はい! わかりました!」


 アンナはメイド長とは対照的に、綿のような声を持つ。針に刺されようが、槍に突かれようが、それらを受け流すまでもなく抜けさせる。飄々とした彼女の性格が声に出ていると言えよう。


「アンナさん、『わかりました』ではなく、『承知いたしました』と言いましょう」

「わか……承知いたしましたぁ!」


 アンナは、メイド長の眉がほんの少し上がったのを見逃さなかった。恥ずかしそうに視線を左右に泳がせたが、周りのメイドの注目はすべてメイド長が集めている。


 早く敬語を完璧に使いこなせるようにならないとなと思いつつも、思うばかりでどうにもならない。アンナがメイドになってから1か月が経つが、難しいものは難しいのだ。


 メイド長が指示を終えると、15人のメイドは方々に散った。ある人は庭園へ枝を整えに、またある人は井戸へ洗濯をしに向かう。アンナはクロエと一緒に担当場所へと急ぐ。


「私はバケツに水を汲んでくるから、アンナちゃんは雑巾と石鹸をお願い。応接室の前で集合ね。今日も頑張ろう!」

「了解です! クロエ先輩!」


 クロエは活力のあふれるメイドで、このように力仕事を進んで引き受ける人である。アンナはそんな彼女のことを尊敬のまなざしで見ている。彼女は、自分にはない力を持ったすごい人なのだ。


 アンナは、ふと思う。メイド長は館のメイド業務を的確に取り仕切っており、クロエは力持ちである。しかし、アンナには何もできない。そして、敬語すらまともに話すことができないときた。綿のような声と性格を持つとはいえ、他のみんなが自分のことをどう思っているのかが最近気になっている。


 雑巾と石鹸を持ったアンナは、クロエよりも一足先に応接室前に着いた。何もできないなら、何もできないなりにできることをしよう。そう思い、アンナは窓掃除の準備を始めた。カーテンは洗濯をしないといけないので、取り外す。この廊下には背の高い窓がないので、1人でもなんとか外すことができる。


 すると、後ろから足音が聞こえてきた。


「クロエ先輩、おかえりなさ――」


 振り返り、アンナは自分の過ちに気づく。そこにはお客様を連れたメイド長の姿があった。槍のような視線が突き刺さる。お客様に見られたことの恥ずかしさと、メイド長の無言の圧力で、アンナは燃え上がりそうになってしまう。


「た、大変失礼いたしましたっ!」


 アンナは45度の、人生で一番丁寧な最敬礼をした。体が少し震えているのがわかる。頭を上げると、メイド長は表情を一つ変えず、お客様は気まずそうにしながら、応接室へと入っていった。


 ほどなくして、水の入った大きなバケツを、両手に一つずつ下げたクロエがやってくる。


「どうしたの? なんだか泣きそうな顔をしているよ。カーテンも外れている……」


 アンナは、これまでに起きたことを順番に説明した。クロエは手際よく廊下の掃除をしながら、「うん、うん」とそれを聞く。その間もアンナは「私は話を聞いてもらっているばかりで、仕事も手についていない。クロエ先輩にはとても申し訳ない」と思いながら綿のような声で話し続けた。


「なんだか自分がひどい役立たずのような気がしています……」


 消え入りそうな声でつぶやくと、アンナは目に涙が上ってくる気がした。


「そんな風に思うこともあるよね」


 クロエは相変わらず作業をしながら、アンナを慰める。言葉に乗ったアンナの想いを、一つ一つ拾うように、相槌を打つ。


「ねえ、今夜時間ある? 私に付き合ってよ」


 話を聞き終えると、クロエはこのように聞いた。


「はい。時間はあります……」

「じゃあ決まりね! 今夜10時に噴水の前集合で!」


 アンナにはクロエが何を考えているのかがわからなかったが、自分のために何かをしてくれるのだと思い、少し心が痛んだ。また人の手を煩わせてしまっているかもしれないと思うと、その後の仕事はあまりはかどらなかった。

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