第三十八話 魔術オタクは本を手に入れる

そこは、どこか遠い遠い場所。一切が闇に包まれた、漆黒の空間。


音も気配も感じられぬその空間の中で、静寂を打ち破って深みのある年配の男声の声が響いた。


「サキ・アドニ・アルカライが、タルムーグ魔法学院大図書館に隠された<四大天使の封印>を解きました」


その声に応じるように、歳古りた老人の声が重々しく響き渡る。


「あの謎は、の者では解けぬ。間違いなく、彼の者は異人アウトサイダーであろう」


「異人……異なる世界の記憶を持ってこの世界をおとなう者、ですか。私も会うのは初めてです。いや、『会った』というのも正しくはありませんか」


その言葉に対するいらえはなく、再びその空間を沈黙が支配する。僅かな間とも長い空白とも感じられる時間が経過して、ようやくしわがれた老人の声が再度響いた。


「かの者はあの地に残る数少ない”遺産”を手にした。今まで以上に、その重要性は増しておる。此度こたびのような危険はなるべく遠ざけたいが、それも難しい」


「我々が直接<物質界アッシャー>に干渉するすべは、非常に限られていますからな。そう言えば、シスター・マギサに妙案があるとのことでしたが」


その言葉が終わるや否や、闇の中に何とも言い様のない空気が漂う。声にならない溜息が幻聴として聞こえても不思議ではない、それ程の弛緩した空気だ。


「……あれに任せるのは、正直不安でしかないが」


かなりの間を置いて聞こえた老人の声は、何も見えないこの空間にあってこめかみを押さえる指や、顔を覆う手を幻視出来そうなほど力の無いものだった。


「何でですか。私これでも、神様やって五百年ですよ?むしろ御二方よりも、篤く信仰されてますよ?」


唐突に若い女性の、抑揚に乏しいながらも何処か煽るような調子を秘めた声が響く。それに対する男性達の声は、平静ながらも明らかに苛立ちの色が見えた。


「我々は神などではない。多少長生きしているだけの魔術師に過ぎないと、何度言ったら分かるのだ」


「サキ・アドニ・アルカライの双肩には、魔術の復権が掛かっておる。かの者が道半ばで倒れることなどあってはならん。頼むぞ?」


「お任せ下さい。この私シスター・マギサが、サキきゅんのことを至近距離でがっつりしっかり見守ります。ご安心を」


今度こそこの闇の空間を、隠そうとしても隠しきれない大きな溜息の音が満たすのだった。




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一瞬の閃光と、頭に響く声が消え去った後には、隠し部屋の中央にある祭壇の上に一冊の本が残されていた。先程までそれを覆っていた光のドームは消え去っており、部屋中に満ちていた魔力の粒子も吹き飛んだように消えている。


俺は息を呑みながら静かに台座に近づくと、置かれている本にそっと手を伸ばした。触れる際に一瞬躊躇するが、思い切って手に取ってみる。


……何も起こらない。


俺は心の中で安堵の溜息をつきながら、手中にある本をまじまじと眺めてみた。年代物の羊皮紙の本だが、表装も綴じもしっかりしていて、めくってみてもボロボロと崩れたりページが外れたりといったこともない。ぱっと見た限りではいつもの母音を省略した古い綴りの文章と、ところどころに図案が描かれている。おそらく魔術書だろう。


「凄い、サキ。とにかく、凄い」


横から興奮した声が聞こえたのでそちらに目をやると、ルリアがキラッキラの眼差しで俺を見つめている。今の一幕の意味は理解できずとも、俺が何かをしてこの本が手に入ったことは察しているようだ。その視線は俺と、俺が手に持つ本へと交互に注がれている。


「ありがとうルリア。ルリアも読んでみる?」


俺が封印されていた本を指し示すと、ルリアはこくこくと頷く。「古い本だから、傷めないように気をつけてね」という俺の注意も耳に入っているのかどうか、早速表紙をめくって目を通し始めた。何と言うか、微笑ましい。俺は苦笑してルリアを眺めながら、この時間に先程の顛末についてつらつらと考え始めた。


あの謎掛けリドルだが、完全に俺が元居た世界の知識だ。AZOTアゾットとは一種の魔術用語で、よく魔術武器やタリズマンなどに刻まれている文字なのだ。その由来は「この世の物質は何で出来ているか」を考える「元素論」に関係している。


万物の根源は何なのか。この問いに、大昔から色々な大賢人達がそれぞれの持論を述べてきた。有名なのはエンペドクレス、あるいはアリストテレスの「四大元素論」だろう。万物は火・空気・水・土の四元素で成り立っているというこの考えは、長い事西欧で支持された。魔術にもこの考え方は色濃く反映されている。


変わったところではアルキメデス学派の「万物は数である」という説や、物質を構成する最小単位が存在しているとするデモクリトスの「原子アトム論」など、変わり種や現代科学を先取りしたような学説まである。その中でも特にラディカルというか、イッちゃってる説が「万物を構成するものは言語である」という、神秘主義の中でも過激な一派が唱えた説だ。


まあ細かい内容は省くが、全てが言語で出来ているのならその最小構成要素は文字ということになる。大昔の西欧知識人の間で重要視されていた言語は三つ、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語だ。よってこの説の支持者は、世界はアルファベット、ギリシャ文字、ヘブライ文字の三種の文字で構成されていると主張する。


アルファベットはAエーで始まりZゼットで終わる。ギリシャ文字はAアルファに始まってOオメガで終わり、ヘブライ文字はAアレフが最初でTタウが最後だ。つまりこれらをつなげた<AZOT>という文字は、これだけで<すべての始まりと終わり><森羅万象>を意味する言葉となり、魔術や錬金術で一種のシンボルとして扱われるようになったのだ。


放浪の錬金術師パラケルススが所持していた剣、その柄頭の宝石ポンメルジュエルに刻まれていた文字として有名だな。まああっちは、最後が「T」じゃなくて「Th」で終わるんだが。そんなこんなで、謎掛けの「我は書物にして世界なり」「我は始まりにして終わりなり」の答えはこの<AZOT>であろうと俺は考え、回答したわけだ。


何でそんなものを解答にしたのか理由は不明だが、あれじゃあこの学院の人間がまかり間違ってこの隠し部屋に入ってしまうことがあっても、謎を解いて本を持ち出すことは不可能だろう。魔法でなく魔術の知識、しかもこの世界にはない文字についての知識など、誰が解答できるというのだ。この俺を除いて。


つまりこの封印を作ったものは、ここを訪れるのが魔法使いではなく魔術師であることを期待していたということになる。前世の世界と共通点の多い魔術を知るものなら、AZOTについての知識を持っていても不思議じゃないからな。この部屋のタリズマンに記してある天使の名前だって、アルファベットだし。


それは最後に聞こえた声からも明らかだ。魔術結社<聖魔術師団ホーリー・オーダー・オブ・メイガス>の新たなメンバー、ブラザー・シモンと名乗ったあの声。シスター・マギサと同じく、霊的存在に至った大魔術師だろう。その位階は9=2<魔術師メイガス>、8=3<神殿の主宰者マジスター・テンプリ>であるシスター・マギサよりも高位のメンバーだ。


シスター・マギサが魔法の女神イシスと同一視されているのだから、ブラザー・シモンはおそらく三神のうち彼女と並び立つ隠者の神、ジェフティじゃないかと想像できる。多分彼らは古代王国時代には超高位の魔術師として普通に尊敬されていたのだが、王国が瓦解して後は、偉大なる存在=神として崇拝されてきたのではないか。


まあ分からんでもない。先程の俺同様、全く未知の存在から突然頭に響く声を聞かされたら、神のお告げと勘違いするものも出てくるだろう。<伝言メッセージ>の呪文でも似たようなことが出来るが、あれは知らない人間から飛んでくることはないからな。


お、そうだ。俺は一つ気づいたことがあったので、一心不乱に書に目を通しているルリアに問いかけた。


「そう言えばルリア、僕が謎に答えて部屋中が光った時、何か聞こえた?」


「聞こえた。おじさんの、声」


ルリアは書に落とした視線を上げずに答える。やっぱりそうか。入学式(と言うか、入社式)の時のシスター・マギサの声と同様、俺とルリアには結社の上位メンバーの声が聞こえると。俺達二人は結社の正式メンバーとして数えられていると考えて良さそうだ。実際に魔術を使ったことがあるからか?


古代魔法王国時代はともかく、現代ではこの世界の魔術は衰退してしまっているということだから、この<物質界>に存在している<聖魔術師団>の結社メンバーは俺達二人だけなのかも知れない。何だろう、もう少し気軽に教えを授かれる先輩とか欲しかった気がする。霊的存在である<秘密の首領シークレット・チーフ>に直接啓示を貰うとか、結社の創始者とかの役割なんだがな。


俺達が入社した(ことになっている)魔術結社<聖魔術師団>についても不明なことは多いが、今回思いもかけず重要そうな本が手に入った。これでまた魔術の研究が大きく進展するに違いない。俺は今まさにその本を熟読している幼馴染に水を向ける。


「どうルリア、その本の内容は?面白そうなことは書いてあった?」


それに対するルリアの答えは、若干不満げな様子が声に表れていた。


「巻物と同じ。読めるけど、意味はよく分からない」


「そっか。じゃあ僕が先にその本を読み込んでおくから、後でどんな事が書かれているか詳しく説明してあげよう」


「本当?」


俺がそう言うと、ルリアが少し嬉しそうな様子で口元を僅かに綻(ほころ)ばせる。手を差し出すと、素直に本を渡してくれた。安心したぜ、「読み終わるまで動かない」とか言い出すんじゃないかと、ちょっと心配してたからな。


んじゃ、夕食の時間になる前に寮へ帰るとしますか。



隠し部屋で唯一の出口である通路を通って、俺とルリアは図書館のホールに戻って来た。後ろを振り返ると、ついさっき通り抜けたはずの通路は影も形も無く、壁際に本棚が並んでいるだけだ。思わず手を伸ばしてみたが、入った時と違って今度は俺の手も通らなかった。ルリアが驚いたように、僅かに目を見開いてその様子を見ている。これには俺もびっくりだ。


一体どんな魔術でこれを実現していたんだろうか。と言うか、古代魔法王国はこんな高度な魔術を利用していたのに、何で滅んじまったんだ?そっちが謎だ。


ま、この本を守っていた謎が解かれた時点で、あの部屋の役目も終わったということなのだろう。さっきまでの出来事が夢か幻のような気もしてくるが、俺の手の中にある本がアレは現実だったと教えてくれている。


まずは寮に戻って、この本をしっかり読み解かないとな。俺はまた魔術の新たな一ページを開くことが出来る喜びを噛み締めながら、俺とルリアは大図書館一階のホールを後にしたのだった。



受付には相変わらず人がおらず、カウンターの向こうに相変わらず眠そうな目をしてアヤラさんが座っている。彼女はホールから出てきた俺達に気づくと、だらしなく頬杖をついていた姿勢を気持ち正して声を掛けてきた。


「おや、今日はもう帰るのかい?昨日より随分と早いね」


その声を聞いた瞬間、俺の頭からさっと血の気が引く。そうだった。寮に帰るにはこの受付を通る必要があり、そして俺の手には先程の隠し部屋で手に入れた本。これって、黙って本を図書館外に持ち出そうとしているの図じゃね?


どうする?この本は俺の私物だって言い張ることも出来そうだが、俺はこの図書館に手ぶらでやって来ている。アヤラさんがそれを覚えているかどうかは賭けでしかないが、仮にも受付を務めている司書だ、本の持ち込みと持ち出しにはあの眠たげな目をしっかり光らせている可能性は高い。


畜生、ローブの合わせに隠してこっそり持ち出すべきだったか?いや、俺の体に比較してこの本は大きすぎる。どう見ても隠してるのがモロバレで、即呼び止められたに違いない。ああ、こんな事を考えている間にも、アヤラさんが何か訝しげな視線で俺を見つめている。マズイ、何か言わないと。


「あ、あの、この本はですね」


とにかく何か口に出して、流れで何とかアヤラさんを言いくるめようと口を開く俺。しかしアヤラさんは俺の手にある本を一瞥すると、変わらぬ口調で言い放つ。


「ああ、その本は大図書館ウチの本じゃないね。持って行って構わないよ」


「え、見ただけでわかるんですか?」


「これでもここの司書を束ねる立場なんだよー。蔵書が何万点あろうが、私が覚えていない本は無いんだ」


は?マジか?さらっと言ったけど、今この人結構凄いことのたまったぞ。


「目録にある本を勝手に持ち出すことは許されないけど、この図書館が所有する本でないならどうでもいいさ。別に盗んできた訳じゃないんでしょ?」


アヤラさんの問いに、俺はふるふると首を横に振る。謎掛けを解いたんだから、この本を所有する権利は俺にあるはずだ……よな?多分。


「かなり古そうな本だし、どんな本か気にならないこともないけど……。今はいいかな。さっきから君の彼女がこっちを睨んでるし、早いところ帰った方がいいんじゃない?」


そう言われて横を見ると、いつもの定位置である俺の左腕に掴まって、ルリアがアヤラさんを冷たい眼差しで見つめている。これはマズイ。このまま放置すると、次は俺に矛先が向くことになるのだ。鈍感系主人公と違って、俺は学習しているからな。ここは早々においとますることとしよう。


「すみません、それじゃあ。また来ます」


別れの挨拶もそこそこに、俺達は出口に向かって歩き出した。アヤラさんは受付から、俺達に向かってひらひらと手を振っている。瞬間、ルリアが俺の左腕を掴む力が増した。俺は急いで守衛さんに声を掛け、外へ通じる大扉を開いてもらったのだった。




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音を立てて大扉が閉まり、アヤラは顔の横で振っていた手を下ろした。そのまま軽く溜息をつくと、誰に聞かせるともなしに呟く。


「これでいいんですかね、学院長」


「ええ、助かりましたよアヤラ司書長」


返答は背後から聞こえてきた。アヤラが振り返ると受付の奥、司書の詰め所に通じる扉が開き、背の高い老人が姿を現す。黒のローブに長い白髭、このタルムーグ魔法学院の学院長だ。


「仰る通りそのまま素通しましたけど、あの本は一体何なんですか?私、本当に見た覚えないんですけど。あ、もしかして学院長の個人的な蔵書とか?」


アヤラの質問に、学院長は白眉と髭に埋もれた相好を崩して答える。


「いいえ、違いますよ。あの本は、『誰も入ったことがない部屋』にあったものです」


「え、あの噂の?この大図書館に、誰も入ったことがない秘密の部屋があるっていう。あれ、ホントだったんですか?というか、何でそれを学院長がご存知なんです?」


重ねてアヤラは問うが、学院長はにこやかな表情を崩さぬまま黙っている。アヤラはこれみよがしに肩を竦めてみせるが、そのまま考える姿勢になって呟く。


「いやでも、それならサキ君はその『誰も入ったことがない部屋』に入って、あの本を持ってきたことになりますよね?私達司書が、それこそ何十年と勤めている者でも、そんな部屋絶対に無いと断言できるのに」


アヤラの呟きにも答えず、学院長は笑顔を浮かべたまま軽く頭を下げると入ってきた扉から姿を消す。その背中を見送りながら、アヤラは大きく溜息をついた。


「本当に、よく分からない人だ。そもそも私達司書や教授達にさえ滅多に会おうとしないのに、わざわざ私にあの少年が本を持ち出すのを見逃せと言いに来たのが謎だよ。まあ、こんな謎だらけの学院の長をしている人だし、私達には分からない深遠な考えってものがあるのかもね」


そう小声で口にしながら、アヤラは再び頬杖をついてカウンターにもたれかかる。


「どっちにしろ、私にゃ関係ないことか。でも、サキ君が持っていた本は気になるね。一体何の本だったんだろう?」


そしてアヤラははしたなくも小さな欠伸をこぼすと、彼女が愛してやまない図書館の静寂に浸るのだった。

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