第二十二話 魔術オタクはトラブルに巻き込まれる
さり、さり、と羽ペンが羊皮紙の上を滑る音がする。
その部屋に窓はなく、天井から吊り下げられたシャンデリアによって明るく照らされていた。しかしその燭台には蝋燭など立っておらず、代わりに無数の魔法の明かりが並び、熱を感じさせない光を放っている。毛足の長い絨毯が敷き詰められた広々とした室内には、中央に置かれた巨大な机以外の調度がなく、それが実際以上に部屋を大きく、空虚に感じさせていた。天井も四方の壁も、無機質な石組みがむき出しなのが更にそれを助長させている。
机には一人の男が腰掛けており、羽ペンを手にして羊皮紙に何かを書きつけている。男の口元と顎からは、それはそれは見事で巨大な髭が胸元を越えて伸びており、かなりの高齢であることを伺わせた。その髪や髭と同じく、白くなって長く伸びた眉に隠れがちな目は穏やかな色をたたえ、じっと手元の羊皮紙に注がれている。
老人が纏っているのは、黒を基調としたローブだ。派手さはなく一見シンプルな仕立てだが、灰色の混じった柔らかい色調の黒は上品で深みがあり、襟元や袖口は銀糸で縁取られている。間違いなく値が張る逸品であろう。よく見れば机も巨大な一枚板を天板に使用した高級品であり、羊皮紙を押さえる文鎮も羽ペンが浸されるインク壺も、精緻な装飾が施された見事なものだ。
それらの品々はこの部屋の主が只者ではないことを示唆していたが、それが室内の寒々しい虚ろな様子とどうにも不釣り合いで、凄まじい違和感が感じられる部屋だった。
老人は
ふと、その羽ペンの音が止まった。老人はうつむいた顔を静かに上げ、ペン立てに羽ペンを戻すと前を見つめる。
この部屋には扉が二つある。一つは机の向かいにある両開きの重厚な扉、もう一つは老人の背後にある片開きの小さな扉だ。老人は正面の両開きの扉をじっと見つめていたが、やがて目を見開くように、その長い眉を片方だけ上げてみせた。
次の瞬間、正面の扉の前にもう一人のローブ姿の人物が姿を現した。扉が開く音も閉じる音も立てる事無く、ローブの人物は無音で、忽然と、この閉ざされた部屋に侵入してきたのだ。その白いローブのフードは深く降ろされていて、侵入者の顔つきは定かではない。
異常な事態にも関わらず、老人に焦った様子は見えなかった。彼にとっては二つの理由から、侵入者の正体が明らかだったからだ。一つには、この様な侵入方法が可能な人物は王国に一人しかいないという意味において。そしてもう一つは、この部屋の場所を知る者も王国に一人しかいないという意味において。
「ようこそ、エステル殿。そろそろいらっしゃる頃だと思っていましたよ」
老人の声もその目の色と同じく、深く、落ち着いて、聞く者に安心感を与えるものだった。呼びかけられた侵入者はフードを上げ、その顔貌を露わにした。
「相変わらず、からかい甲斐のない御仁だね。もう少し驚いて見せちゃどうだい?」
応えたのは、エステル・アドニ・アルカライ。”
老人は微笑を以てエステルに応えた。最も、糸のように細められた目も僅かに吊り上がった口元も、眉と髭に隠れて今一つ判別がつかなかったが。その様子にエステルは「チッ」と舌打ちすると、やや苛立ちの混じった声で告げる。
「こっちの要件はお見通しってわけかい。結構だよ、それはそれで話が早いからね。早速だけど、また例のモノを拝ませてもらうよ」
エステルはそう言うなり、部屋の中央の机を回り込んで老人の背後にある扉へ向かって歩を進める。深い絨毯は老女の歩みを柔らかく受け止め、全く足音を生じさせない。そのまますれ違ったところでエステルは不意に足を止め、老人の方を振り返った。
「そうそう。あたしの孫が二人、今年学院を受験するんだよ。まあ孫と言っても一人は姪の娘なんだけど、同じ様なもんさ」
「ほう、
老人は振り返らず、しかし楽しげな声でそれに応える。
「月日が経つのは早いものですな。貴女の息子さん達が学院に入学してきた事さえ、ついこの間のような気がしますよ」
「あんたにとっちゃ、そうだろうね」
「しかし、そうですか、お孫さん達が。きっと貴女や息子さんに似て、優秀な子なのでしょうな」
「優秀どころか、ずば抜けてるよ。このあたしの目から見ても、ね。そう、優秀なのは間違いないんだが……」
エステルはそこで言い淀んだ。老人の片方の眉が再び跳ね上がるが、そのまま姿勢は崩さず次の言葉を待つ。しばらく間を置いて、エステルは再び話し始めた。
「そのもう一人の、男の孫の方なんだが、ちょいと型破りな子でね。多分、いや間違いなく、入学したら無茶苦茶をやらかして、
その言葉を聞いた途端、老人は「ほっほっほ」と朗らかな笑い声を立てた。そして遂に椅子を軽く引き、エステルに向き直る。
「まさかまさか!あのエステル殿が、『型破り』と評するような子がいるとは。こんな傑作は久しく聞いたことがないですぞ。しかも、『迷惑をかけるだろうから謝る』などと。覚えておられますかな、貴女が学院に通われていた時……」
「そんな昔のことはいいんだよ!とにかくあの子達のことを頼んだよ。それじゃあね」
エステルは踵を返し、再び奥の扉へ向かう。扉のノブに手を伸ばした時、「エステル殿」と背後から呼ぶ声がした。エステルは振り向かず、扉に手をかけたまま立ち止まる。
「貴女がその扉を潜るのは、これで三度目ですな」
老人の声には、これまでにはない感情の色が滲んでいた。深い感慨と、讃嘆の色が。
「世界中の魔法学校に存在する、最奥の扉。それを三度潜った者など、この世において貴女以外におりますまい。魔法の業を扱う者として、またその教育に携わる者として、心から貴女を誇りに思いますぞ」
その言葉を耳にしたエステルは、しばらく動かずに老人の言葉を反芻しているようだった。そして彼女には珍しい――素直で、邪気のかけらもない微笑を浮かべる。
「そうかい。それはまた何とも……嬉しいね。ありがとうよ、タルグーム学院長」
そのままエステルは振り向かずに、扉を潜って奥へ進む。音を立てて閉じられた扉を老人はしばらく見つめていたが、やがて机に向き直ると再び羊皮紙へ向かって羽ペンを走らせ始めた。そして再び、この部屋を静寂の空気が包む。
老人の背後にある扉は、結局その後も向こう側から開かれることは無かった。
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アルカライ邸を出発した俺達の馬車は、前回の旅行とは逆に大通りを北へ進んで大門から街道へ出た。目指すタルグーム魔法学院は、このまま北街道を進んで夕方には着く距離にある。
今回俺達は馬車二台で移動しているので、メンバーは分かれて乗り込んでいる。具体的には前の馬車にロシェ君とイサク先輩、後ろの馬車に俺とルリア、そしてハンナだ。ナタンさんを始めとする護衛の人達は、その馬車を更に前後から挟む形で、二騎ずつに別れて警護している。
なぜハンナが俺達に同行しているかと言うと、試験に合格して学院の寮に入ったら女子寮でルリアの面倒を見てもらうためだ。学生には貴族の子弟が多いため、寮の部屋には従者が共に寝泊まりできるスペースがあるらしい。最も、本当に使用人も一緒に寮に住まわせるのはかなりの大貴族に限られているようだが。実際にロシェくんやイサク先輩は従者を連れていないし、俺も一人での生活に別段不安はないからな。
これは俺の想像だが、ハンナが付いてきたのは恐らくルリアに関係しているんじゃないかと思われる。学院行きに乗り気でない彼女を説得するために、俺の両親やマリア母さんがハンナをルリアに従者として付けることを交換条件にしたんじゃないだろうか。
そのルリアは、先程から俺の膝に身を投げ出してふて寝の姿勢である。未だに学院で寮暮らしをすることに納得していないご様子だ。だが今までは子供ということで大目に見られていたが、俺達が成長すれば四六時中一緒にいるという訳にはいかなくなる。これからの学院生活で、ルリアも少しは俺と離れている事に慣れて欲しいというのが本音だ。
何となく手持ち無沙汰なので、俺は馬車の窓を開けて外の様子を眺めてみる。膝の上でルリアが「寒い」と文句を言うが、「少しだから我慢して」と言って俺は新鮮な空気と街道沿いの情景を味わう。この国ではガラス窓が実用化されていないので、こういう時には実に不便だ。
北街道でも南街道と同じく、王都の周辺には田園地帯が広がっている。違うのはこちらでは見渡す限りの範囲が農地で、森や荒れ地がほとんど見受けられないという点だ。新年を迎えて間もないという季節の割には、畑へ出ている人をちらほらと見かける。おそらく秋に蒔いた小麦の様子を見ているのだろう。
そして冬だというのに、街道では意外と人の行き来がある。荷物を背負う人が多いのは、王都に農産物を持ち込んで売ろうとしているのだろうか。
行き交う人々を眺めていると、ルリアが「うー」と唸って俺の太ももに歯を立てた。ローブを着ている俺には痛くも何ともないのだが、「はいはいゴメンゴメン」と言って窓を閉める。そして手をルリアの頭にやり髪を撫でると、少し機嫌を直したのか俺の腰に手を回して抱きついてきた。そんな俺達を見て、正面に座るハンナが「ふふっ」と笑い声を上げる。
「ハンナもごめんね。寒かった?」
「いえ、私は大丈夫です。それよりお二人は本当に仲がよろしいですね。見ていると、私まで何だか嬉しくなってきます」
ハンナはそれこそ生まれた時から俺達二人を見ているだろうに、未だ見飽きていないようだ。
「仲がいいと言えば……ハンナは本当に、僕達についてきて良かったの?学院の寮に入ると、三年は王都へろくに戻れなくなるよ?」
「何故『仲がいい』からそんな話に繋がるのか分かりませんが、大丈夫ですよ?そもそも旦那さまがお命じにならなければ、私の方からお供したいと申し出るつもりでおりました」
「いや、心配じゃないのかなと思って。三年も離れ離れになるんだし。それに、ハンナもいい歳……」
そこまで言いかけた途端、窓は閉めたはずなのに極寒の空気が馬車内を襲った。発生源は勿論、俺の向かいで静かに微笑むハンナだ。
「サキ様。何かおっしゃいましたか?」と表情を変えずに尋ねるハンナだが、その声には俺の背筋が凍えるほどの冷気が乗っている。俺は即座に「いえ!何も!」と叫んだ。膝の上から俺を見上げるルリアの視線も、「何やってんだコイツ」と言わんばかりの冷たさだ。
「い、いや、そうじゃなくて。ラズさんの事だよ。ほら、ハンナが学院にいる間に変な虫が付くかも知れないし」
そう。今回も護衛に加わっている侍従のラズさんだが、俺達が向こうに着いたら屋敷へ戻ってしまう。そうなったら次に会えるのは当分先になるだろう。そして俺が見るところ、二人はそういうことなのだ。別にわざわざ確認したわけじゃないが、ルリアも二人の事を後押ししている節があるので、多分間違いない。
しかしハンナは自分の胸を手で抑えると、目を閉じてこう言った。
「彼とはお二人が学院を卒業されたら、と約束しています」
うおう!見事な切り返し。思わず口笛を吹いてしまうところだったぜ。当然だが今の俺は貴族の嫡子なので、そんな柄の悪いことはやらないが。
「それは……おめでとう、と言っていいのかな?とにかく、良かったねハンナ」
「はい。ありがとうございます、サキ様」
俺の祝辞に、凄くいい笑顔で礼を言うハンナ。ルリアも俺の膝から顔を起こし、片手を上げて親指を立てている。これこれ、女の子がそんなはしたない仕草をしちゃいけません。俺がルリアのその手を軽くはたくと、ハンナは鈴が転がるような声を立てて笑う。
先程までとは打って変わって、俺達の馬車は一足早く春が来たような空気に包まれたのだった。
昼時になり、俺達は街道の傍らにある広場に馬車を停め、昼食を兼ねた休憩を取った。屋敷の男性使用人達が馬の世話をしながら交代で食事を取っている中、ハンナはしれっとラズさんの隣りに座って楽しそうに何か話している。他の使用人達もそんな二人に気づいているようで、多少やっかみの混じった温かい視線で見守っていた。
俺を含めた子供組四人はナタンさんを囲んで食事をしながら、いつかのように彼を質問攻めにしている。例によって主に話しかけているのは俺で、ロシェ君とイサク先輩はたまに話しに交じるくらい。ルリアは黙って食事に専念し、食べ終わった今は敷物に寝そべって持ってきた本を読んでいる。
「学院ではどんな事を学ぶのですか?塾で教わることとどの様な違いがあるのか、とても興味があるのですが」
「申し訳ありません。まだ入学前のサキ様には、学院でどの様な授業が行われるかをお教えすることは出来ないのです。学院の内部事情は、特に秘匿すべき情報ですので。勿論、サキ様は間違いなく入学試験を突破されるに違いありません。それも稀に見る優秀な成績で。ですが、それはそれとして規則は曲げてはならないのです」
本当に申し訳無さそうな顔でそう答えるナタンさん。相変わらず、お硬いというか真面目である。
「いえ、規則を守ることは大事です。それにしてもこの街道は、南街道と違ってとても賑わっていますね」
学院については何も聞き出せないと見た俺は、露骨に話題を変えた。今俺達がいる広場は、街道を旅する者が休息を取れるように整備されている場所だ。昼時の現在、広場には俺達以外にも多くの旅人が腰を下ろして休んでおり、何なら小規模な隊商も見受けられる。こちらが貴族であることを察しているのか、皆俺達から離れたところで休息を取っているが。
アルカライ村へ旅した時に通った南街道では、夏の終わりだったのにも関わらずほとんどすれ違う人を見なかった。この北街道とは大違いだ。
「やはり学院都市の存在が大きいです。王都から学院都市まで切れ目なく荘園が点在していますので治安が良く、隊商や土地の者が安心して往来できますから」
「学院都市は王国北方への交通の要所ですからね。多くの隊商が学院都市に集まり、それぞれの目的地へ散っていきます。北街道は王国で一番栄えていると言っても過言ではありません」
「そ、そうです」
軍人だからか、治安維持の観点から説明をするナタンさん。急に話に加わってきたロシェ君はやはり財務官僚の息子だからだろうか、経済の面から北街道の重要性を説いている。そしてイサク先輩は、もっと頑張れ。
二人の話に出てきた学院都市とは、タルグーム魔法学院を取り巻くように形成されている街のこと。王国で最も早く成立した都市と言われている。最初は学院の庇護を求めて移り住んできた人達が集落を形成し、やがて学院の教授や学生、学院を訪れる人々を相手に商売が行われるようになり、現在では外周に防壁を巡らせた立派な都市へと成長した。
前世で言う物流ハブの役割も果たしているようで、王都から運ばれた品々は学院都市で積み替えられ、北方の貴族達の所領へそれぞれ運ばれて行く。同様に北方からの品も学院都市に集積され、王都を始めとした他の都市へと運ばれて行くわけだ。アルカライ村へ旅した時は王国の経済が心配になったが、ちゃんと機能しているところもあってひと安心だ。
「そう言えば学院都市は、王家の直轄領の中に存在していますよね。学院都市、いやそもそも学院は王家の支配下にあるのですか?」
「いえ。学院はどこにも属しておらず、すべての国家や領主に対し中立を保っています。神殿勢力と似たようなもの、とでも申しましょうか。私も噂でしか聞いたことがありませんが、世界中の魔法学校が同様に中立であると言います」
「ついでに言えば学院都市も王家に統治されてはおらず、法の執行も税の徴収も学院が行っていますよ。普通ならこんな都市の存在はありえませんが、学院は不可侵ですからね」
「こ、攻撃すれば、すべての魔法使いを敵に回します、から」
なるほどねえ。神殿は民草の信仰心を刺激して反感を生みかねないから手を出しにくいのに対し、学院は報復が怖すぎて無理が言えない、と。もしどこかの勢力が学院に攻め込んだ場合、ただでさえ強力な魔法使いを多数相手にしなきゃならない上に、自勢力の魔法使いが離反してしまう恐れが生じる。例えば王家が学院を攻めようとしたら、魔法師団が丸々敵に寝返っちまうわけだ。そりゃあ無理ゲーってなもんだよ。
「しかしいくら中立を謳っていても、距離と場所の問題があるのではないですか?学院という重要拠点を自身の勢力範囲に取り込んでいた王家は、それだけで多大な恩恵を得ていたはずです。地域の安定、学院都市との交易、そして学院を巻き込むことを恐れて他勢力からは攻められにくい。ハノーク王家がこの国を統一できたのも、学院の存在が一因にあるのではないでしょうか」
いやむしろ、王家はこれだけの利点を百年、二百年の昔から得ていたわけだから、統一に時間がかかり過ぎているという意見もあるだろう。うわっ、私の主家の覇業、遅すぎ……?
「自分は王家直属の軍人ですので意見は差し控えますが、ご慧眼であると申し上げましょう」
「何と言うか、とてもサキらしいとは思うんですけど。こういう場所以外では思っていても口には出さないで下さいね?王家に対する不敬とも取られませんから」
「さ、流石ですサキ様」
さすサキ、いただきました。というか皆さん、俺を無理やり褒めなくてもいいんだからね?ルリア以外だとロシェ君ぐらいだよ、俺に気のおけない物言いをしてくれるのは。
「?」
何となく、横で寝そべって本を読んでいるルリアの頭を撫でる。ルリアは一瞬「何だコイツ?」みたいな目でこちらを見上げるが、すぐに俺の膝に頭を擦り付けてきた。そうしながらも、視線は本から離していないのが凄いと言えば凄いが。
さて、随分ゆっくりと休憩を取ってしまった。あまりのんびりしすぎると学院に着く前に日が落ちてしまうので、そろそろ移動を再開するとしよう。
馬車に揺られて進むことしばし、午後も遅い時間になって、俺達の一行は学院都市が見えるところまでやって来た。流石に王都と比べると規模は小さいが、それでも充分以上に大きな街並みが行く手に横たわっている。
俺は再びルリアに文句を言われながら、馬車の窓を開け放って学院都市の威容に目を凝らす。街は高く堅牢そうな市壁を備えており、今俺達が進んでいる街道に繋がる大門は両脇に塔を備えた立派なものだ。その門の前では学院都市に入ろうとする人々が列をなして、門番が通行を許可してくれるのを待っている。
「結構な数の行列が、門の所に出来ているね。これじゃあ、僕達が学院都市に入るのにもかなり時間がかかりそうだ」
「心配はご無用ですよ、サキ様。学院都市は四方の大門以外に、貴族の方々専用の門が設けてあります。私達はそこを通りますので、待たされることはありません」
「ふーん、王都とは逆なんだ。面白いね」
ハンナが俺に説明してくれるが、確かに大門から左右に離れた場所にやや小さい門が作られているのが見える。逆だと俺が言ったのは、王都では東西南北の大門を利用するのは貴族を含めた上流階級だけで、庶民は他のもっと小さな門を使うように定められているからだ。
そもそも貴族が出入りする頻度が違うということもあるだろうが、それだけ学院都市が旅人や隊商が訪れるのを重視していることの現れだろう。王都は権威を優先し、学院都市は商業を優先していると言ってもいいかも知れん。
「それよりサキ様、そろそろ窓をお閉め下さい。高貴な方々は、下々にみだりに見られることを良しとしないものです」
「分かったよ、ハンナ」
俺は乗り出していた身を引っ込めると、素直に窓を閉じる。俺達の馬車が学院都市の市壁を潜っていく様子を見ることが出来ないのは残念だが、王都とは違うので仕方がない。アレってテンション上がるんだよなあ。まるで映画のワンシーンだからな。
そんな益体も無いことを考えつつ、俺にしがみついているルリアの頭を撫でていた時に、それは起こったのだった。
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北街道から逸れ、学院都市の貴族専用門へ続く道を辿りながら、ナタン・グリオンは我知らず嘆息を
一先ず、無事に学院都市に着くことが出来たようだ。治安が良く見晴らしの良い北街道を、しかもたった一日とは言え、貴族の子弟四人を警護してきたのだ。さらに言えば護衛対象の内二人、サキとルリアは過去にも狙われていたという実績がある。その時には本人達も気付かない内にナタン自身が排除した訳だが、今回も同様な事が起きるかも知れないと常に警戒を怠らなかったのだ。
いや、とナタンは思い直す。学院都市に入っても安心とは言えない。表向きは中立である学院都市にも、裏では様々な勢力が手の者を送り込んでおり、常に熾烈な諜報合戦が繰り広げられている。四人が学院の寮に入るまでは気を抜く訳にはいかない、とナタンは気を引き締め直した。
一行は貴族門の前まで進み、今は先頭を進むラズが馬上から門衛に書状を渡している。後は詰め所に居る紋章官がアルカライ子爵家一行であることを確認すれば、問題なく門を通過することが出来る。
そのタイミングで、一同の最後尾に居たナタンは後方から近づいてくる蹄の音に気がついた。振り返ると、この貴族専用門への道を単騎で駆けてくる騎士の姿が見える。まるでこの場を戦場とでも勘違いしているかの如きその勢いに、ナタンは実に嫌な予感を感じ取っていた。
「我は王国西部に名高きカツィールの侯爵、アベル・アドニ・カツィール候の三子、ユリ様御一行の先触れである!もう間もなく、ユリ様がこの場にお越しあそばされる。その方らは直ちに馬車を脇へ避け、控えよ!!」
「お待ち下さい。我が主の馬車は今すぐにでも手続きを終えて市内に入ることが出来ます。侯爵閣下のご子息をお待たせすることはありませんので、どうか当家の馬車を先に通らせて頂きたく……」
「ならぬならぬ!!その方は我らが主、カツィール候の御威光に逆らうと言うか!直ぐ様取って返し、主人に馬車を動かして脇で控えよと伝えるが良い!!」
辺りに響く騎士の叫びに、ナタンはこめかみの辺りに引き攣るような疼きを感じ、額を押さえた。先程から同じ叫びを上げ続けている騎士は馬から降りること無く、手に持った
問題はその侯爵の三男が派遣した伝令が、これほど物知らずで横柄な者だったということだ。こちらの馬車に付いている「交差する杖と梟」の紋章に気づかないのだろうか?先程から下馬したラズが騎士の元へ向かい説明をしているが、相手は全く聞く耳がないようだ。
いや、このまま行けば「気付かなかった」では済まなくなる。既に何事かと、詰め所から門衛達が表に出てきているのだ。貴族同士の諍いと見て声を掛けるのを躊躇しているようだが、このままでは大門の前で並んでいる順番待ちの者達や、それらを捌いている衛兵達の注意すら引きかねない。ナタンは意を決し、わめき続ける騎士へ向かって馬を進めた。
「静まられよ。これは一体、何の騒ぎか?」
騎士はナタンが騎乗したまま声を掛けてきたことに一瞬色めき立ったようだが、そのローブと襟元の徽章を見て魔法使いと理解したのか、言葉を飲み込んだようだった。代わりに手の内の槍を高く掲げて、再度大声で叫びを上げる。
「我は王国西部に名高き――」
「口上は結構」
ナタンは騎士の名乗りを鋭く遮ると、目に力を込めて兜の奥の騎士の目を睨みつけて言う。
「そちらこそ、この馬車が王室魔法顧問にしてアルカライ子爵家当主、レヴィ・アドニ・アルカライ様が嫡男、サキ・アドニ・アルカライ様のものと知っての狼藉か?事と次第によっては、カツィール侯爵閣下へお知らせせねばならんぞ」
「左様な木っ端貴族など知らぬ!!」
「……は?!」
「子爵如きがカツィール候に楯突くなど、言語道断!!急がねばユリ様が到着なされてしまうではないか!さっさと脇に控えておれい!」
いい加減分かれと思ってしてやった説明を即座に「知らん」と返され、ナタンは本気で頭を抱えて天を仰ぎたくなった。こちらは覚悟して子爵家の名前を出しているのに、それを知らんと言われたらもう戦争しか無いのだ。いや戦争は言い過ぎだが、既に事を穏便に済ませる手段は無くなったと言ってよい。
(王国西方では騎士を尊び、魔法使いに反感を持つ気風があると聞くが……それにしても酷い。その侯爵の三男坊も、何故この様な輩を側周りにしているのか。主の威を借りる馬鹿者はたまに見るが、ここまでの愚か者はそうそうおらんぞ。いくら見識が暗くとも、アルカライ家の名ぐらいは知っていて当然だろうに……)
ナタンはそう考えつつも、眼の前でがなり続けるこの騎士を排除せねばならない事は理解していた。だがそれは即ち、お家同士の問題に発展する最後の石を、ナタンの手で積み上げてしまうことを意味する。王家直属の軍人であり、雇われた形でサキの一行に加わっているナタンとしては、その一歩を踏み出すことを躊躇するのも当然だった。
「何事ですか?」
その時、背後から少年の涼やかな声を聞いたナタンは血相を変えて振り向いた。そこには予期していた様に、馬車を降りて諍いの場までやって来たサキの姿があった。
(何故ここにサキ様が)
ナタンの脳裏はその疑問で占められていたが、何はともあれ急いで馬から降りて膝を突く。ラズも騎士の元から駆け戻って来て、同様に膝を突いたのが見えた。主が地面に立っているのに、臣下が騎乗したままではいけない。馬車の方からニシムとタルも駆け寄ってきて、サキの側に控える。
四人を控えさせたまま、サキは騎士の方へ目をやるとにこりと笑い、語りかけた。
「私はアルカライ子爵レヴィが嫡子、サキ・アドニ・アルカライです。この様な場所で、当家の者に何か御用ですか?」
サキに問われた騎士は自身の
「なるほど。仰ることは理解できましたが、全く意味が理解できませんね。そもそも、何故貴公はその様な高い場所から口を利いているのですか?」
普段とは全く違う、他人を突き放すような硬質な声。まるで人が変わったかの様な声音でサキはそう言うと、ちらりとナタンの方を振り向く。その冷たく、感情の籠もっていない眼差しに射抜かれたナタンは、ぞくりと背を震わせた。続いてサキの口が僅かに開き、小さく「固めなさい」という声が聞こえる。
ナタンは弾かれたように立ち上がると、騎士へ向けて印を結んだ。それに気づいた騎士が目を見開き、怯えたように槍を構えて手綱を引き絞っている。愚か者め。呪文を使われることはあるまいと高をくくっていたのだろうが、あれだけの侮辱をしておいてただで済むと思っていたのか?ナタンは心の中でそう吐き捨て、「<
その途端、騎士の体は槍を振り上げた姿勢で凍りついたかの様に動きを止め、急に手綱を引かれたことで驚いた馬が棹立ちになることによって振り落とされた。ニシムとタルの二人が慌てて、主を失った馬を押さえに行く。サキが落馬した騎士の元へ歩み寄っていくのを見て、ナタンとラズもそれに従った。
騎士は上手く尻から落馬したようで、目立った外傷は無いようだ。突き上げた形で固まった手が槍を握ったままなのが、何となく滑稽さを感じさせる。偶然だろうが、旗を地面に落とさなかったのは見事だな。そう思いながらナタンは騎士の手から旗印の付いた槍を外すと、彼が乗ってきた馬に立てかけた。
「これでは口が利けませんね。ナタン、解いてあげなさい」
「はっ」
これもサキらしからぬ高圧的な物言いだったが、ナタンは疑問を抱くことなくその言に従い、脳裏で<金縛り>を解除する。呪文を解かれた騎士は尻餅をついた姿勢から跳ね起きようとするが、サキが騎士の方へ向かって指を差し伸ばすのを見ると、再び<金縛り>にあったように動きを止めた。先程ナタンに呪文を使われた衝撃が、まだ心に残っているのだろう。騎士が動かないのを見て取ったサキは、指を突きつけたまま騎士に問う。
「さて、私は名乗ったが貴公の名をまだ聞いていない。侯爵家子息ユリ殿の先触れたる騎士よ、名乗りなさい」
サキの冷たい視線に貫かれた騎士は顔中に脂汗を浮かべながら、サキの顔とその指先を交互に見ていたが、やがて絞り出すような声で答えた。
「……カツィール候の騎士、ローマン・バウマン」
「そうか。では騎士バウマンよ、実に残念なことになったと伝えねばならない。私は貴公の首を取り、ユリ殿に届けねばならなくなった」
「な!何故そのようなことに!」
「貴公が当アルカライ家に対し公然と嘲りを投げかけた事に対し、この恥辱を
「そ、そんな……」
バウマンにとってサキの声は、どこか遠くから聞こえてくる死神の台詞のようだった。改めてこの場を見てみれば、相手は容易く自分の命を奪える上に味方は未だ遠く離れた街道を移動しているという状況に、今更ながら気付いたのだ。さらにそこへサキから追い討ちが掛かる。
「無論ユリ殿や、引いてはカツィール侯爵閣下が我らの行いに激昂されることあれば、是非も無し。我がアルカライ家と我が家に連なる魔法使いの全力を持って、カツィールに弓引こうではないか。それでもし我らが悉く討ち果たされようとも、お祖母様が
サキの声色は終始変わること無く、まるで当たり前のことを喋っているようにバウマンには見えた。それが如何にも「覚悟を決めた者」の声のように聞こえて、サキの顔をまともに見ることが出来ない。バウマンは自分でも気が付かない内に、両手と膝を突いて頭を垂れた姿勢で震えていた。
「ど、どのようにすればお許し願えますか」
もはやバウマンには、先程までの威勢など跡形もなく消え去っていた。心底怯えた様子で許しを請う姿に、サキは「ふむ」とと思案気な顔をする。
「ナタン、彼の首を取らずしてこの場を収める手立てはあるか?」
「先程の大音声は、門の衛兵や民草にまで聞こえた恐れがあります。最早この者を討ち果たさなければ、御家の名誉は保たれますまい」
「そうか。それでは仕方ないな」
「お、お待ちを!お待ちを!!」
バウマンは必死に声を張り上げ、命乞いをする。その兜は地に擦り付けられ、自然と涙が浮かんで鼻声になっていた。
「自分がサキ様に無礼な振る舞いを致した事、如何様にもお詫びいたします。その上でどうか、お慈悲を、お慈悲を……」
バウマンの言葉はやがて嗚咽の混じった慟哭となり、もはや何を言っているかも聞き取れなかった。サキはしばらくバウマンが泣き叫ぶのをじっと聞いていたが、やがて笑顔を浮かべてこう言った。
「それでは、無かったことにしましょう」
「え?」
バウマンは思ってもいなかった言葉に、涙と鼻水でグシャグシャになった顔を上げる。そこには言葉だけは柔らかくなったが、やはり抑揚を欠いた声音で微笑んでいるサキの姿があった。
「私達はこのまま門を抜けて、市内に入る。貴公はこの場で侯爵のご子息が来られるのを待ち、先触れの務めを果たす。我々は会ってもいないし、諍いなど起こらなかった。そうですね?」
「は、はい、その通りでございます!サキ様の寛大なお計らい、誠に感謝いたします!」
温かみというものが無い笑顔で告げるサキの言葉に、バウマンはひたすら低頭し感謝の言葉を繰り返した。サキは興味を失ったように振り返ると、一瞥も与えず馬車に向けて歩き始める。
「では皆、急いで門を通りますよ。ナタン、後はよろしくお願いします」
「畏まりました、サキ様」
ナタンは歩き去るサキの背中に、深く腰を折って頭を下げる。ラズ達が馬と槍をバウマンに返してからサキを追うのを見送ると、自身は再度馬に跨りバウマンへ歩み寄った。
「サキ様が寛大な方で、命拾いをしたな」
バウマンも再び馬上に戻って槍を手にしていたが、ナタンの言葉には返答せず沈黙を守っている。
「だが、もしもこの先貴様がアルカライ家を逆恨みしたり、良からぬ噂を立てたりした場合は、今度こそ容赦はせん。私と王国魔法師団が貴様とその主に、必ずや報いを受けさせてくれよう。分かったな?」
「しょ、承知した」
バウマンの返答を聞いたナタンはサキ同様に一瞥もせず馬を巡らすと、門に向かって駆けてゆく。その顔には先程までの険しい表情とは真逆の、実にいい笑みが浮かんでいる。
(何という胆力。何という剛腕。本当に七歳の少年とはとても思えん。サキ様は魔法の腕のみならず、人の上に立つ者としての才も別格だ。まさに師匠が仰った通り、ルリア様と共に魔法の歴史を変えるお方――)
ナタンはこの時代に生まれたことを心から感謝しながら、二十歳近く年下の後輩に対し敬意を新たにするのだった。
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