序章⑦

 そもそも楼桑国だけであれば、ここまであっさりと一方的蹂躙に任せるサイレン公国ではなかったはずだ。

 しかしヴァビロン正規軍が本気で動いたとなれば、精強を誇り諸国から一目置かれているサイレン軍とはいえ、太刀打ちできるものではない。


 兵力の差がありすぎるのだ。


 これが真正面から対峙する戦であれば、まだ策を弄し攪乱することも出来ようが、予想もしていなかった夜襲であったがために、どうすることもできなかった。

 そもそもこんな状況では、策などの立てようがない。


 普段そう屈強ともいえない楼桑兵であったが、後詰めに夥しい数のヴァビロン軍がいることに気が大きくなり、恐れ気もなく前へ前へと突っ込んでくる。

 兵の練度や経験といったサイレン側の優位性は、それで相殺されてしまった。


 国が亡ぶ瀬戸際のサイレン兵は死に物狂いで応戦するが、楼桑の兵は引こうともせず前掛かりで攻め立てる。

 戦死者や負傷者の数でいえば、はるかに楼桑兵の方が多い。

 されど楼桑軍の将兵は、一方的に蹂躙しているのは自分たちだとの錯覚に陥っていて、その事にさえ気づいていないようだ。


 これが〝帝国の巨魁・ライディン枢機卿〟の老獪な操兵手腕だとしたら、見事というしかなかった。


〝死んでゆくのは他国の兵、自国の兵の命は費やさん〟

 まさにその言葉通りの、非情なる采配であった。



 事ここに至り大公フリッツは、自分の運命の行方を悟っていた。

〝わが命運は今夜尽きる〟


 自分が死んだ後、公国唯一の後継者である息子の命も、助かることはあるまい。

 そう思ったフリッツは、自らが目立つように剣を持って戦っている隙に、ダリウスに息子を城から落ち延びさせる策を選択したのであった。

 その後のことは、運を天に任せるしかなかった。


 大公の命を奪うという最大の目的を達成した敵側は油断をし、ルークへの追跡が甘くなるかもしれない。

 その微かな望みにかけた、フリッツの身を捨てた行動であった。


 この決断が後に聖王と呼ばれることになる、幼きルークの命運を左右したのである。




 ダリウスはいまでこそ隠居同然の公太子の守り役をしているが、若い頃から武一筋で戦場を駈け回った古強者であり、現役を退いた現在でも元帥府の最高顧問を務める武人であった。


 広間の扉から廊下へと出る瞬間、最期の別れとばかりに振り返ったダリウスの目に、敵の剣に腹を刺されながらも、相手を切り伏せる主君の姿が映った。


「殿っ!」


 叫びざまに広間へ取って返そうとするダリウスの前に、妃であるロザリーが立ち塞がった。


「ダリウスなにをぐずぐずしているのですか、早く此処を出てルークの処へ。あの子を、ルークを頼みましたよ」

 そう言うとダリウスを室外へ突き出し、扉を閉めてしまった。


〝ガチャリ〟


 錠のかかる音が聞こえる。


「必ず、必ず若さまの命は、此のダリウスめがお守り致しましょうぞ」

 ダリウスは聞こえるはずもない扉の中へそう叫ぶと、一目散に公子宮へと走り出した。


 途中で偶然出くわした四名の近衛兵と共に公子宮に入り、眠っているルークを起こし人知れず秘密の隠し扉を通ってここまで逃れてきたのだった。

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