第4章 種を滅ぼすものたち 17
「かも知れません」
吉本劇場なら一同がずっこけるシーンだが、当然ながら誰もずっこけなかった。
「どういうことですか? アンリさん」
ジャン・レノアが真面目に聞いてくる。スルーはキツいよ。
俺は肩を竦めた。
「主犯がそこで冷たくなっていますので、自供させられないんですよね」
「つまりルブラン先生の自殺だと? しかし自殺は難しいと私たち自身が検証したのでは?」
「ええ、まあ、とりあえず話を聞いて下さい。まずルブラン先生の生存を最後に確認したのはアラールさん、貴方ですね?」
「そうだ」
ミシェル・アラールが頷く。
「暗くなるまで仕事の手伝いをしていたとおっしゃっていましたね。自室に持ち帰った仕事とはなんだったんですか? 金属書自体は持ち出し厳禁です」
「研究室で書いた翻訳文を清書されていたんだ。実際床に散らばっていただろ」
今はまとめて重ねられた紙の束に俺は目線を向けた。
「そうですか? その割に散らばっていた書類のインクは乾いていたようですが?」
「そう言えば、書類に書かれた文字とか滲んだり、写ったりしてませんでしたね」
ジャン・レノアが俺の言葉を補強してくれる。まあ、今から確認してもそれは分かることだ。
「紙に書いたインクが乾くには時間がかかります。一晩程度では乾かない。重ねたりすれば当然滲んだり、写るはずです」
現代日本の紙やインクとは事情が違う。羊皮紙はインクをすぐには吸ってくれず、馴染むのにとても時間がかかるのだ。
「つまりこれらの書類は昨日書かれたものではない。しかし机にあるペンはインクで塗れていました。ルブラン先生が直近で書き物をしていたのは間違いありません。つまりルブラン先生の書いた書類がどこかに消えていることになります。改めてお聞きします。アラールさん。ルブラン先生は昨日何を書かれていたのですか?」
ミシェル・アラールは首を横に振った。
「私は嘘を言っていない。先生は確かに清書をされていた。ここに無いというのなら、犯人が持ち去ったんだ」
「そうですね。俺もそう思います」
「えっ?」
一同が一斉に疑問の声を上げた。
「アンリさん、先ほどルブラン先生の自殺だと」
「まあまあ、とりあえずアラールさんがお手伝いを終えて、部屋を退出してからルブラン先生の部屋は鍵がかかっていて誰も出入りできなかった。でしたよね?」
ベルナさんに向けて聞く。
「マスターキーを誰かが持ち出したりはしていないと思います。アンリ様の仰る通りのはずです。先ほど私とアラール様がマスターキーで鍵を開けるまで、この部屋は密室でした」
ベルナさんの言葉が終わるのを待って、俺は首を横に振った。
「ところが、そうとも限らないんじゃないかなって俺は思ってるんですよね」
「どうして、ですか?」
「密室の条件は、外から入れる者がいない部屋のことです。鍵が外にあれば、それは密室と言えるでしょうか?」
「ですが、マスターキーは」
「マスターキーではありません。ルブラン先生の持っていた鍵ですよ」
「それは机に」
ベルナさんが言いかけるが、俺は遮って言う。
「ありましたか? 部屋に入ってすぐに机の上の鍵を確認されましたか?」
「いえ、直後はルブラン先生のことでいっぱいで」
「鍵に気付いたのは?」
「随分後です」
だろうね。部屋の真ん中に人がぶら下がっていたのだ。その状況下で部屋全体をしっかりチェックしているとなると、ベルナさんが怪しくなる。
「それまで部屋には誰が出入りしました?」
「それは、使用人たちや、従業員の方たちもいらっしゃいました」
「その中の誰かが机にこっそり鍵を置こうと思えば置けたと思いますか?」
「……可能だったと思います」
俺はこの会話の意味を全員が理解したかを確かめるために一同を見回した。
「つまり密室自体が思い込みなんです。ルブラン先生が就寝時に鍵を掛ける習慣があったかどうかは分かりませんが、鍵は部屋の外にあって、マスターキーで開けられた後に持ち込むことができた。密室ではありません」
「じゃあルブラン先生は殺されたんですか?」
「いいえ、これは殺人事件ではなく、ルブラン先生の自殺です」
「ワケが分からない! 自殺なら鍵の話はなんなんだ?」
ミシェル・アラールがもう耐えられないとばかりに声を張り上げた。
「まあ、俺は探偵じゃありませんので、華麗に推理で全ての謎を解くなんてできませんが、まずルブラン先生は契約をすり抜けて金属書の翻訳文を外部に流出させる方法を探していたんじゃないですかね。これについては俺の手落ちなんですが、契約していない人間が外部から内部に入ってきた場合を想定していませんでした。観測所の中では翻訳研究のために自由に機密を扱えます。なので観測所の中であれば契約に縛られていない誰かに対して、翻訳内容を伝えることができる。ルブラン先生はそれに気付いた」
いつ気付いたのかは分からないが、ベルナール・ルブランが気付いていたのは間違いない。
「しかし観測所に外部の人間を入れる手段が無いわけです。王都の中とは言え、ちょっとした僻地ですからね」
人が来ないという意味では本当に僻地だ。王宮の敷地の端っこに目立たないように建てられているわけだし。まあ、元々の利用目的からするとね。
「そこでルブラン先生は騒ぎを起こすことにしたんじゃないでしょうか。外から官憲が入ってこれるような、大きな事件を。つまり人の死です。皮肉な話ですよね。金属書の内容を信じていない、聖光教会の信徒だったはずのルブラン先生が命をこんな風に軽く扱ってしまったんですから」
「違う! ルブラン先生は!」
叫んでしまってからミシェル・アラールは己の失策に気付いたようだった。
だが別にもう揚げ足を取る必要は無いだろう。
「そうですね。絶望派の方が同じことをしようとすれば、自分以外の誰かを、それこそ大量殺人したかもしれません。なにせ絶望派に言わせれば、神の子ではない自分たちには何の価値も無い、んだそうですから。ルブラン先生は高潔な方だった。他人を犠牲にせずに、自らの命を最大限に使おうとした。つまり他殺のように見える自殺です」
「それで椅子を使わなかった?」
「それもありますが、根本的にルブラン先生は首を吊って死んだのではなく、死んでから吊り上げられたんだと思います。縄を通しただけで、梁にあんな擦れはできないと思うので」
俺は天井の方を指差した。内装は一新したが、建物自体は古く、梁などは芯材が使われているものの、古びている。重い物が結わえられた縄が擦れたら、あれくらいの擦れ跡はできるだろう。
「縄だけを通した場合も検証してみないとなんとも言えませんが、確かに擦れた跡がありますね。だとしたら殺人なのでは?」
ジャン・レノアの言葉も正しいと言えば正しい。
「直接的に殺害を行った人物が被害者以外であるという点では確かに殺人とも言えます。しかし他人の犠牲を良しとしないルブラン先生が、殺人犯を作り出して良しとするはずがありません。その人が疑われた時のために必ず遺書を残したはずです」
「それでペンにインクが。しかし遺書があったなら何処に? 自殺だと分かってしまうのでは?」
「普通、遺書は発見者や家族などに宛てた物だと思いますが、今回はこの書を持つ者は自分を殺害したが、それは自分、つまりベルナール・ルブランの意思であり、自殺の幇助をしただけだ、という内容なのではないでしょうか? もちろん官憲が入ってくるまでは公にできませんので、遺書自体は殺害者に直接手渡されたのでしょう。違いますか? アラールさん」
「ただの推測だ」
そう言いながらもミシェル・アラールは素早く目線を出口と窓に向けた。シルヴィとネージュを見比べた結果、ミシェル・アラールはシルヴィのほうが組み易しと見たのだろう、部屋の扉側に向かって駆け出す。
だけど残念。魔法の力を別としたらこの場で一番強いのがその子です。
しかしこの場から逃げたところで、どうなるというのか。まあ、衝動的に逃げようとしてしまっただけなんかもしれんけど。
そしてシルヴィが鮮やかにミシェル・アラールの腕をつかもうとした、その瞬間のことだった。
観測所が揺れた。
揺れたなんて生易しいものではなかった。
揺さぶられた。
シェイクされたと言ったほうがいいかもしれない。
誰も立っていられなかった。
俺も、シルヴィも、ミシェル・アラールも。
片付けたばかりのものが再び散乱し、宙を舞い、ベルナール・ルブランの遺体がベッドごと飛び上がった。
まさしく狂乱。
それはほんの一瞬のことだったが、誰も事態を把握できず、理解できず、対処もできなかった。
ただそれが収まったとき、部屋の中に立っている者がひとりだけいた。
黒尽くめのフード付きマントをかぶったヤツが立っていた。
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