第1章 大氾濫 8
負傷者の治療は手早く済ませた。
負傷者の数がそんなに多くなかったので範囲回復魔法一発で終わった。
聞いたところ、防壁を登れるような魔物がたまに上まできて戦闘になるのだそうだ。
とは言ってもそんな魔物は小型で大した脅威にはならない。
むしろ兵士の集まった狭い防壁の上で武器を振り回して味方に当たったというような負傷がほとんどだった。
しかし武器による怪我にせよ、魔物に負わされた怪我にせよ、本来回復魔法のない、そして前世のように医療の発達していないこの世界では大事だ。
一度の怪我で引退ということもありうる。
だからだろう、回復魔法を使った後に兵士たちからは涙ながらに感謝された。
というより跪かれて崇拝に近い何かを感じた。
こうして宗教ってできあがるんかもしれん。
治療を終えた後は馬車で領主の邸宅に逆戻りだ。
と、その前に家族のいるところに寄ってもらう。
ピサンリでの住居にはまだ一度も顔を出していない。
母さんとアデールにもずっと会えていないしな。
アドニス村からの避難民は現在町の至る所にある広場に天幕を設営して生活をしている。
いかにピサンリが大きな町だとは言え、三百人以上にもなる避難民をすべて受け入れるだけの空き住宅は無い。
不公平感を出すくらいならいっそ軍の備品である天幕を出して皆そこで生活してもらおうということになったようだ。
「にーちゃ! おかえり!」
天幕に入ると俺の姿を認めたアデールが駆け寄ってきて抱きついてきた。
母さんとリーズ姉は籠を織る手を止めて俺に向けて微笑む。
「おかえりなさい、アンリ」
「おかえりー」
「ただいま、と言っても初めてだけど」
「どこでも私たちがいるところがあなたのお家よ」
確かに母さんの言うとおりだ。
「父さんは?」
「日雇いの仕事を探しに行ったわ。領主様から生活費は頂いたけれど、それだけではやっていけないから」
となると冒険者ギルドかな?
冒険者ギルドに持ち込まれる依頼は魔物の討伐ばかりではなく、肉体労働や軽作業も含まれている。
日銭を稼ぐなら冒険者ギルドに行くのがこの世界では一般的だ。
とは言ってもこの時間からではろくな仕事は残っていまい。
どんな仕事があるのか確認に行っただけだろう。
「そっか、俺は領主様の屋敷に呼ばれてるから行ってくるね。帰りが遅くなっても心配しないで」
「そう……、アンリ、領主様から色んなお話があるでしょうけど、安易に決めてしまわないでね。お母さんやお父さんにちゃんと相談して。約束ね」
「うん。約束するよ。それじゃ行ってきます」
最後にアデールの頭を撫でて天幕を後にする。
天幕の外では、ジルさんが少し離れたところで待っていた。
気を利かせてくれていたのだろう。
「もうよろしいので?」
「よろしいもなにも夜には帰ってくるさ」
「そうでしたな」
ジルさんと不穏な会話をして馬車に乗り込んで領主の邸宅に向かう。
もう見慣れた感のある庭園を抜け、屋敷の前で馬車は止まり、またジルさんの手を借りて馬車から降りる。
「さて、まずは湯浴みですな」
「えっ?」
「アンリ様は少々薄汚れていらっしゃいますからな」
失礼な、と思ったが、自分の格好を省みたら反論はとてもできない。
とくにこの十日間は忙しく飛び回っていたこともあって、服も体も薄汚れていると言ってまったく差し支えない。
「なに、風呂は沸かせるようすでに手配してあります」
「ありがとう」
すでに用意してくれているものを断るのも失礼だと思い、ありがたく受け入れることにする。
風呂という言葉に心惹かれたのも事実だ。
なにせこの世界に来てから風呂に入ったことが無いからな。
水で濡らした布で体を拭くのがこの世界での身の清め方だ。
風呂というのは貴族の贅沢に違いない。
とにかくちょっと熱いくらいのお湯に身を沈めて、足をぎゅーっと伸ばしたい。
そうしたらこの疲れも少しは癒えてくれるだろう。
風呂場は屋敷の一階にあった。
水を運ぶ手間を考えたらそうなるのだろう。
脱衣所にはメイドさんがついてきた。
「あの、なんで……」
「入浴のお世話をするようにと申し付けられておりますので」
「ひとりで入れるけど……」
「お風呂に入られるのは初めてではないのでしょうか?」
「あ、いや、初めてだけど」
危ない危ない。失言だったわ。
転生してきましたとか、余計なカミングアウトをする気はない。
自分の立場がより厄介になるだけだ。
しかしおかげでメイドさんたちを追い出す口実も失われてしまった。
「恥ずかしがることはございませんよ。それとも服も私たちに脱がされたいですか?」
それでも一向に構いませんよ、とメイドさんたちがにじり寄ってくる。
「脱ぐ! 脱ぐから!」
うら若いメイドさんたちに服を脱がされるのは、そりゃ一度はしてみたい経験だが、今は心の準備ができていない。
俺は慌てて服を脱ぎ捨てていき、下着に手をかけて動きを止めた。
「やっぱり全部脱ぐんだよね?」
「はい!」
すっごいいい笑顔で返事された。
ショタコンなんじゃないですかね、このメイドさん。
身の危険を感じる。
他のメイドさんは俺の脱ぎ散らかした服を片付けているのに、この人だけ真正面で凝視してくるし。
ええい、ままよ、と俺は下着も脱いでついに生まれたままの姿になった。
無駄に仁王立ちである。人は開き直ると強くなれるのだ。
「まあまあ、それじゃ洗い場に行きましょうね」
ちらちらと下のほうに視線を感じるんですがー!
まだまだ子どものおちんちんはしょんぼりである。
こんなことで興奮するような変態ではない。
俺の衣服を片付けたメイドさんたちもぞろぞろと浴室についてくる。
もちろん彼女らはメイド服を身に着けたままだ。
さすがに脱がれたら臨戦態勢になっちゃうぜ。なるかは知らんけど。
それはさておき、俺は頭の天辺から、足の指の隙間まで徹底的に洗われた。
洗い流すお湯が黒く染まる。驚きの黒さだ。
こんなに汚れていたのか。
それにしても他人に体を洗われるのが気持ちいい。
湯船に浸かる前に極楽があった。新天地である。
すっかりふにゃふにゃにされてしまった俺は、湯船に案内される。
銭湯の大浴場ほど広くはないが、ユニットバスの湯船と比べたら段違いに広い。
5人くらいは一度に入れるんじゃないかな。
ひょっとしたら領主はメイドさんたちも脱がせて一緒に入ってるのかも知れん。
羨ましい。
「お湯加減はいかがですか?」
「すっごく気持ちいい」
本当はもうちょっと熱めのお湯が好みだが、今のふにゃふにゃした気分ではこのぬるま湯も悪くない。
お湯の中に体が溶けていくようだ。
湯気の充満した浴室の中で服を着ているメイドさんたちには悪いが、たっぷり堪能させてもらってから風呂を後にした。
「それでは体をお拭きいたしますね」
もう為すがままである。
全身をくまなく拭き取られ、そして俺の前には綺麗な衣装が用意されていた。
「あの、これは……」
「旦那様がご用意されたものです。先程まで着ていらっしゃったものも洗濯して後でお返ししますね」
「あ、ありがとう」
すごいな貴族。
この家には俺と同年代の男の子はいなかったはずだが、どこから用意してきたのか。
御用商人とかが無理をさせられたのかもしれない。
もう遠慮をする気も起きず、俺は素直にその衣装に袖を通した。
「まあ、見違えるようですわ」
メイドさんが鏡を俺の前に持ってくる。
そこに映っていたのは金髪碧眼の美少女、に見えないこともないが、断じて俺だ。
金色の髪の毛はさらさらで、肌もつやつやになっている。
正直見違えた。
俺じゃなかったら娘にしたいくらいだ。
男だけど。
貴族然とした服装も相まって、男装させられた少女みたいに見える。
これも筋肉とかついてないのが原因ですかね。
これはこれで可愛くていいが、自分のことだと思うとちょっと微妙だ。
ごついおっさんになりたいわけではないが、せめて女の子に間違われないくらいにはなりたい。
メイドさんたちが交代して、客間に案内される。
ふかふかのソファに座るように勧められ、腰を落ち着けると焼き菓子と紅茶が用意される。
気分はまるで王侯貴族だ。
あ、ここは貴族の屋敷だったか。
つーか、まさに世界が違う。
焼き菓子に手を伸ばすと、甘さは控えめで俺好みだった。
単に砂糖が貴重品なのかもしれないが。
紅茶で唇を濡らしていると、ジルさんがやってきた。
「これは見違えましたな。貴族のお嬢さん、失礼、お坊ちゃんだと言われても全く違和感がございませんな」
「口を開けばボロが出ることは知ってるよ」
お嬢さんだと言われたことについては追求しない。
俺もそう思うからな。
ちょっと女装もしてみたいと思ったのは秘密だ。
可愛い子には可愛い衣装を着せろ、だ。そんなことわざは無いか。
「さて、晩餐まで今しばらくの時間がございます。なにかお望みのものがあれば、ご希望に沿えるようにいたしますが」
「そうは言われてもな」
なんでも望みのままに、と言われても思いつかないし、後が怖い。
これだけ贅沢させようと言うことは、なにかそれに見合う要求があるはずだ。
風呂と衣装は流されてしまったが、向こうが無理に与えてきたものだし、せめてこちらからはあまり要求はしたくない。
「正直なところアドニス村の人を受け入れてくれただけで十分かな」
「それは領主として当然の行いでございましょう。アンリ様自身の望みは無いのですか?」
ぶっちゃければ金が欲しい。
が、前述の理由により要求はできない。
いっそ押し付けてきてくれれば遠慮する振りをしつつ喜んで受け取るのだが、さすがの向こうもこんな子どもが金を欲しがっているとは思っていないようだ。
困った様子の俺に、無理強いも良くないと思ったのか、ジルさんはふっと気を緩めた。
「アンリ様は無欲なのですね」
いや、めっちゃ俗物ですよ。
金もメイドさんも欲しい。
固定費を考えなければこんな屋敷もいい。
あ、晩餐も楽しみです。
あと可愛い恋人が血反吐が出るほどに欲しい。
「では逆にお願いを申し上げましょう」
おっと、要求が来たか?
「少しの間、敬語の勉強をしようと思うのですが、この老骨に付き合っていただけますかな?」
教育だった。
まあ、敬語が使えたほうがいいよね、と言うのは俺も思うところがあったので、ジルさんのお願いに快く付き合って敬語の勉強をする。
とは言っても二、三時間の話だ。
唐突に敬語が上手くなるはずもない。
ただいくつかの間違った文法は直してもらった。
そうこうしているうちに晩餐の支度が整ったらしい。
メイドさんが呼びに来て、俺はジルさんに連れられて食堂に向かった。
食堂はちょっとした広さがあって、20人くらいは座れそうなテーブルに椅子がずらりと並んでいる。
調度品なんかもあったが、俺には値段が高そうだなという以上のことは分からない。
一番上座にはすでに領主が、その隣には婦人と思しき女性が、逆の隣には青年が、その隣には女性が腰掛けている。
椅子にはまだまだ空きがあるが、並べられているカトラリーからすると俺が一番最後であったらしい。
というか、ご婦人の隣でいいんですか? 一番下座でも一向に構いませんよ?
「ようこそ、アンリ君。紹介しておこう。まずは私の妻のクローディーヌ。それから長男のダヴィド、ダヴィドの妻のデルフィーヌだ。皆、この子が話していた魔法使いのアンリ君だ」
「はじめまして、アンリです」
「まあまあ、可愛らしい魔法使いさんね」
伯爵夫人がニコニコと笑みを浮かべつつ手をたたく。
「主人から勇ましい話はたくさん聞きましたけれど、なにか私にも見せてくれないかしら? あんまりびっくりはさせないでね、心臓が止まっちゃうわ」
「そう、ですね」
室内で、危なくない、驚かせない魔法となるとやはり光魔法だろうか。
俺は手のひらの上に光球を作り出すと、それをテーブルの上のほうに飛ばした。
それから光球を弾けさせて、光の花火を生む。
ひとつ、ふたつ、みっつ、ちょっとしたミニチュア花火大会だ。
色とりどりの花火が室内で弾けた。
たっぷり数分も光の幻想を撒き散らして、俺は一礼する。
「どうでしょう。喜んでもらえたでしょうか?」
「素晴らしいわ。本当に素晴らしい」
伯爵夫人はまるで少女のように目を輝かせて拍手する。
領主の息子や、その妻は驚き呆気に取られているようだ。
「素敵なショーだ。こんなものは初めて見たよ」
「楽しませることができて良かったです」
「では今度は私が君を楽しませる番だな。さあ、座り給え。晩餐を始めよう」
領主の言うとおり、贅を尽くした晩餐はこれ以上無いほどに俺を満足させた。
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