母親失格だった私が母になる

島原大知

本編

第1章


「お母さん、私ね、死ぬの」

携帯電話から聞こえてきた娘の声に、沙織の胸が締め付けられた。受話器を握る指に力が入り、爪が白く変色していく。10年ぶりに聞く娘の声は、弱々しくてか細く、まるで風前の灯のようだ。

「美幸...?どういうこと...?」

「ガンなの。もう手遅れなんだって。あと数ヶ月の命なんだって...」

美幸の声は虚ろだった。沙織は言葉を失い、黙り込んでしまう。

(美幸が、死ぬ...?)

現実を受け止められずにいた。


20年前、AV女優として一世を風靡した沙織は、突如として芸能界を引退し、表舞台から姿を消した。売れっ子AV女優としてのキャリアを捨て、シングルマザーとして娘の美幸を育てる道を選んだのだ。

しかし、母親としての責任の重さに耐えられず、沙織は次第に娘との関係に距離を置くようになっていった。母としての自覚が持てない自分に嫌気がさし、酒に溺れる日々。やがて美幸に愛想を尽かされ、母子の関係は断絶してしまった。

それから15年。沙織は娘と一度も連絡を取らず、AV女優としての過去も封印したまま、ひっそりと生きてきた。失ってしまった娘との思い出が、走馬灯のように脳裏をよぎる。


「ねえお母さん、お願いがあるの」

美幸の声が、沙織を現実に引き戻した。

「何でも言って。お母さん、できることは何でもするから」

「私、娘がいるの。まだ5歳なんだけど...。お母さんに、娘を託したいの」

沙織の鼓動が早くなる。娘に孫がいたことも、この電話で初めて知ったのだ。

「もしもの時は...お母さんが娘を守ってほしいの。お願い...!」

美幸の声は弱々しくなり、消えそうだった。沙織は震える声で答える。

「わかったわ...。お母さんが責任持って育てる。だから安心して」

その言葉が嘘のように感じた。母親失格だった私に、孫娘を育てる資格なんてない。けれど、必死に助けを求める娘の願いを、拒絶することはできなかった。


数日後、沙織の自宅のドアをノックする音が響いた。

ドアを開けると、そこには痩せ細った美幸と、隣に小さな女の子の姿があった。

「お母さん...」

美幸が弱々しく微笑む。その笑顔は10年前と変わらず、沙織の鼻の奥がツンとした。

「ごめんなさい、急に押しかけて...。これ、栞(しおり)。私の娘」

美幸に手を引かれた栞は、不安そうな瞳で沙織を見上げる。

「栞ちゃん、こんにちは。おばあちゃんよ」

沙織が優しく微笑みかけると、栞は恥ずかしそうにこくりとうなずいた。

「お母さん、ありがとう。これで安心して逝けるわ...」

美幸は小さく息をついた。沙織は娘の細い肩を抱きしめると、耳元で優しく囁いた。

「私も、ごめんなさい。お母さんでいられなくて...。今度は、ちゃんと栞のことを守るから」

美幸の瞳から、涙がこぼれ落ちた。


そして数週間後、美幸は息を引き取った。

葬儀の日、沙織は真っ黒なドレス姿で、美幸の遺影に手を合わせた。隣で栞が、ぽろぽろと涙を流している。

「栞、ごめんね。おばあちゃんが、しっかり守るからね」

沙織は栞の小さな手を握り締め、強く誓った。

過去は変えられない。けれど、娘が最期に残してくれた宝物を、守り抜くことはできる。

AV女優だった過去も、母親失格だった過去も、全てを引き受けて生きていこう。

美幸への愛おしさがこみ上げ、沙織の瞳から雫が落ちた。


葬儀の帰り道、沙織は栞の手を引き、駅に向かって歩いていた。

初夏の日差しが道端の植え込みを照らし、白いレースのような蝶が飛び交っている。

「栞、知ってる? 蝶は、さなぎから羽化するのよ」

「はっか?」

栞が不思議そうな顔をする。沙織は優しく微笑んだ。

「そう、羽化。前の姿から脱け出して、新しく生まれ変わること。おばあちゃんも、今日から新しい人生が始まるの」

沙織は空を見上げ、深呼吸をした。

胸の奥に、再生への希望が静かに灯っている。

娘を亡くした悲しみは消えない。けれど、孫娘と共に歩む未来がある。

「栞、お家に帰ろう。おばあちゃんが、好きなものいっぱい作ってあげるわ」

「うん!」

栞が無邪気に微笑む。

その笑顔を守るために、沙織は母として生きていくのだ。


夕暮れ時の電車に揺られながら、沙織は遠くなっていく街並みを眺めていた。

高層ビルのガラス窓が、夕日を受けてキラキラと輝いている。

川面が、オレンジ色に染まっていた。

AV女優だった頃を思い出す。派手な衣装に身を包み、華やかなスポットライトを浴びていた日々。

でも今は違う。地味なワンピース姿で、孫娘の頭を撫でている。

シンプルな幸せを感じながら。

沙織はふっと微笑んだ。

過去の自分に、今の幸せを教えてあげたい。

迷い悩んでいた、あの頃の自分に。

新しい人生は、いつだって始められる。

母になる勇気を、もう一度持とう。

沙織は心の中で、美幸にそっと語りかけた。


第2章


「栞、お弁当忘れないようにね」

沙織は笑顔で栞の頭を撫でる。小学校の校門の前で、満開の桜の花びらが舞い散っていた。

「うん、わかった!」

ランドセルを背負った栞が元気よく返事をし、小走りに校舎へと向かっていく。ピンクのランドセルカバーが、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。

沙織は我が子を見送る母親たちの輪の中に、ぽつんと取り残されたような感覚だった。

(ああ、私はこの輪の中にいていいのかしら...)

胸の内で自問自答を繰り返す。

AV女優だったことのある私が、この可愛らしいママたちの仲間入りをしていいものだろうか。

罪悪感に苛まれ、沙織は俯きがちになる。


「あの、すみません」

そんな沙織に、隣に立つ母親が声をかけてきた。

「娘さん、転校生ですよね? よければご一緒にお茶でもいかがですか?」

満面の笑みを向ける母親。沙織は思わず戸惑ってしまう。

「あ、でも私...」

「ほら、みんなで仲良くなりましょう! 子育ての悩みとか、共有できると嬉しいな」

沙織の言葉を遮るように、母親が手を差し伸べてくる。優しさに溢れたその笑顔に、沙織は思わず吸い寄せられそうになった。


しかし次の瞬間、沙織の背筋に冷たいものが走る。

(もしも、私の過去がバレたら...)

ママ友たちは、きっと軽蔑の目で私を見るだろう。

優しい笑顔の仮面を剥がされ、哀れみと侮蔑の目にさらされる。

そんな光景が頭をよぎり、沙織は思わず身を竦ませた。

「ご、ごめんなさい。私、ちょっと用事があるので...」

沙織はおずおずと言葉を紡ぎ、母親たちの輪から離れていく。

温かな誘いの手を、拒絶せざるを得なかった。

孤独を選ぶしかない、私なのだと自覚する。


公園の片隅で、沙織はぼんやりとブランコに揺られていた。サクラの花びらが風に揺らめき、辺りは淡いピンク色に染まっている。

穏やかな春の陽気とは裏腹に、沙織の心は晴れない。

「ママー!」

ふいに聞こえた子供の声に、沙織は我に返る。

目の前を、幼い親子連れが通り過ぎていく。母親に手を引かれ、嬉しそうに駆けていく子供。

微笑ましい光景なのに、沙織の瞳は曇ったままだ。

(私には、ママと呼ばれる資格なんてないのに...)

自己嫌悪の念が、沙織の胸を締め付ける。


「...っ!」

ふと後ろから、男の気配を感じた。

咄嗟に振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。

長身に刈り上げ頭。鋭い目つきに、セクシーな口元。

沙織は目を見開いて息を呑む。

「ひ、久しぶり...健一」

「よう、沙織。覚えててくれたんだな」

唇の端を吊り上げ、健一が皮肉っぽく笑う。

まるで狼が獲物を見るような、冷たい瞳。

沙織は背筋が凍りつくのを感じた。


健一はゆっくりと沙織に近づいてくる。長い脚で地面を蹴り、ブランコに腰掛けた。

錆びたブランコが軋む音を立てる。

「お前、どうしてここにいるんだ? もしかして...」

健一の低い声が、沙織の耳元で囁くように響く。

まるで獲物を前にした野獣のような口調。

沙織は思わず目を伏せた。


「俺はよ、自分の娘に会いに来たんだ」

「え...?」

沙織が驚きに目を見開く。健一は苦々しげに口元を歪めた。

「そう、栞は俺の娘なんだよ。美幸が黙って連れ去ったけどな」

沙織の鼓動が早くなる。

お酒に溺れてホストに通ってた時の担当だった健一が、まさか栞の父親だったなんて想像もしてなかった。

「俺も、栞に会わせろ」

健一の眼光が鋭く沙織を射抜く。

「そ、それは...」

沙織は言葉に詰まった。

AV女優だった過去すらも、栞には話していない。

ただでさえ不安定な親子関係に、また禍根を残すことになるのではないか。

「俺には父親の権利がある。それとも、お前の汚れた過去、娘に知られたくないのか?」

健一の唇が、意地悪く歪む。

沙織は瞳を潤ませ、健一を見つめ返した。

春の日差しが二人の間に差し込むが、冷たい緊張感が漂っている。

沙織は拳を握りしめ、健一に言い返す言葉を探した。


第3章


沙織は部屋の片隅に座り込み、ダンボール箱を開いていた。

美幸の遺品が、整然と詰まっている。

思い出の品々を前に、沙織の瞳が潤む。

「美幸...」

娘の名を呼ぶ。けれど、もう応える声はない。

ダンボールの中から、古びた日記帳が出てきた。

表紙には「美幸の日記」と、稚拙な字で書かれている。

沙織は息を呑み、そっとページを開いた。


『ママがAV女優だったなんて、子供ながらに驚いたわ。

でも、ママはママ。

私を大切に育ててくれた、優しいママ。

過去がどうあれ、私の愛するママには変わりない。

いつかママに、そう伝えられたら...』


涙で文字が滲んでいく。

美幸は、娘として私を愛してくれていたのだ。

AV女優だった過去さえ、受け入れてくれていた。

なのに私は、娘の愛に応えることができなかった。

母親失格だと、娘を突き放してしまった。

後悔の念が、沙織の胸を焦がした。


『今日、健一さんから婚約の申し込みがあった。

でも、私にはまだ早いと思う。

自分の気持ちの整理もつかないし、

なにより、ママのことが心配。

健一さんは優しいけれど、

ママの過去を受け入れてくれるかしら...』


ページをめくる指が震える。

美幸は最後まで、私のことを想ってくれていたのだ。

けれど私は、娘の優しさに甘えてばかりいた。

母としての責任から、逃げ続けていた。

そんな私に、娘を託そうとしてくれた美幸。

母への愛が、沙織の心を激しく揺さぶる。


『愛する娘の栞へ。

もしママが先に逝ってしまったら、ごめんなさい。

ママは栞が、元気に育ってほしいの。

笑顔でいてほしいの。

おばあちゃんの沙織と一緒に、幸せに暮らしてほしい。

きっと、おばあちゃんは良いおばあちゃんになってくれるわ。

ママみたいに、強くて優しい女性に育ってね。

ママはいつも、栞のことを見守っているからね。

大好きよ。』


最後のページに、美幸の愛が溢れていた。

「美幸、ありがとう...」

沙織は日記帳を胸に抱きしめ、嗚咽を漏らした。

娘を愛する気持ちを、もう一度胸に刻む。

AV女優だった過去も、娘に伝えなければ。

娘に嘘をつき続けるわけにはいかない。

真実を全て受け止め、前を向いて生きていこう。

沙織は心に誓った。


翌朝、健一から携帯電話に着信があった。

「もしもし、健一?」

「沙織、分かったことがある」

健一の声は、いつになく重々しい。

「なに...?」

「お前がAV女優だったことだよ」

沙織の鼓動が跳ね上がる。

「そ、それは...」

「俺はな、娘には真っ当な母親が必要だと思ってる。お前みたいな女に娘は任せられない」

健一の冷たい言葉が、沙織の胸を突き刺す。

「私だって、真っ当な母親になろうとしているのよ!」

沙織は必死に抗議の声を上げる。

「あ? 笑わせるなよ。元AV女優のくせによ」

健一は冷笑を浮かべ、沙織を見下ろした。

「俺が娘を引き取る。お前には親権はやらねぇ」

一方的に告げると、健一は電話を切ってしまった。

沙織は茫然と、受話器を握りしめる。

これまでの努力が、全て水泡に帰すのだろうか。

「私...負けるもんか...!」

沙織は歯を食いしばり、拳を握り締めた。

娘に託された栞を、絶対に守り抜くと誓う。

母になる、覚悟を決めたのだ。


その夜、沙織は栞を自分の隣に座らせ、切り出した。

「栞、おばあちゃんね、言わなきゃいけないことがあるの」

「なぁに?」

栞が無邪気な瞳で見つめてくる。

その瞳に嘘をつき続けることは、もうできない。

「おばあちゃんはね...その...」

沙織は言葉を選びながら、ゆっくりと切り出す。

「AV女優っていう、そんな立派じゃない仕事をしていたの...」

「AV...じょゆう?」

栞が首を傾げる。

沙織は深呼吸をし、覚悟を決めた。

幼い栞に、どこまで真実を伝えられるだろうか。

けれどこの子には、嘘をつきたくない。

たとえ、正直に話したことで軽蔑されたとしても。

私には、母として生きる道を選んだのだと。

沙織は優しく微笑み、栞の頬に手を添える。


「昔ね、おばあちゃんは...」

窓の外では、春の嵐が木々を揺らしていた。

風に飛ばされた花びらが、無数の影を落としている。

けれどもう、心が暗転することはない。

娘を想う気持ちが、沙織を強くする。

真実を全て受け止め、前を向いて歩んでいく。

母として、新しい人生の一歩を、踏み出すのだ。


第4章


「AV女優って、どういう仕事なの...?」

栞の純真な問いかけに、沙織は言葉に詰まる。

けれど、もう隠し立てするのは止めよう。

娘に心を開くことが、私にできる精一杯の愛情表現なのだ。

「ええとね、お仕事の一つなんだけど...その...恥ずかしいことをする、あまり偉くない仕事なの」

沙織は顔を赤らめながら、ぎこちなく説明する。

「ふぅん...でも、おばあちゃんは偉いよ。だってママのママなんだもん」

栞は微笑み、沙織の手を握った。

その小さな手のぬくもりに、沙織の瞳から涙があふれる。

「栞...ありがとう...」

孫娘の愛に、母の心が震える。

過去は変えられないけれど、私にはこの子の未来を守る義務がある。

たとえ世間から白い目で見られようと、私は母親としてこの子を育てていくのだ。

沙織は栞を抱きしめ、決意を新たにした。


数ヶ月後、真夏の陽射しが照りつける中、健一との親権裁判の日がやってきた。

沙織は真っ白なブラウスに黒のスーツ姿で、法廷に立っていた。

隣には、娘の美幸の遺影が置かれている。

「娘の親権を、私にください」

健一が法廷で訴える。

「母親が元AV女優では、娘の教育上よくありません。私が父親として、しっかり娘を育てます」

健一の言葉は、沙織の胸に突き刺さる。

確かに、AV女優の過去を持つ私に、まともな母親が務まるだろうか。

周囲の視線が、沙織を射抜く。

沙織は観客席に座る栞に目をやる。

不安そうな表情で、じっと沙織を見つめている。

(負けるわけにはいかない...!)

沙織は奥歯を噛みしめ、法廷に向き直った。

「娘の美幸は、私に栞を託してくれました」

沙織の声が、法廷に響き渡る。


「確かに私には、不適切な過去がありました。ですが、それ以上に、栞を愛する気持ちがあるんです」

沙織は美幸の遺影に手を添え、涙を浮かべた。

「娘を看取れなかった私の罪は重いです。けれど、娘が最期に望んだのは、私が栞を育てることでした」

声は震えながらも、沙織は真っ直ぐ訴え続ける。

「どんな過去があろうと、私は栞のおばあちゃんです。そして、栞を愛する母親になりたいんです」

法廷は静まり返った。

やがて、裁判長が口を開く。

「原告の訴えは退けられました。子を思う祖母の心情を汲み、栞ちゃんの親権は沙織さんに認めます」

がんと、木槌の音が響いた。

沙織の胸から、大きな吐息が漏れる。

「ありがとうございます...!」

感謝の言葉を噛みしめ、沙織は栞に駆け寄った。

「栞、一緒に帰ろう。おばあちゃんが、ずっと栞を守るからね」

涙で濡れた頬を、栞の小さな手が優しく包む。

裁判所を出ると、眩しい夏の日差しが二人を出迎えた。

セミの鳴き声が、耳をつんざくほどに響き渡っている。

「栞、かき氷でも食べに行こうか」

沙織が優しく微笑むと、栞も満面の笑顔を見せた。

「うん! おばあちゃんと一緒なら、どこへでも行く!」

手を繋ぎ、歩き出す祖母と孫娘。

吹き抜ける風が、髪を優しくなでていく。


人生に絶望していた時期もあった。

娘を捨て、自分を偽り続けていた時期もあった。

けれど、今はもう前を向いて生きていける。

娘が託してくれた命を、母として守り抜いていける。

沙織は青空を仰ぎ、生まれ変わった心で深呼吸をした。

悔いも後悔も、全てを乗り越えて、歩いていこう。

栞の小さな手を握り締め、沙織は微笑んだ。

公園では、ピクニックを楽しむ家族連れで賑わっていた。

そこかしこから、子供の歓声が上がっている。

沙織と栞は、木陰に腰を下ろし、かき氷を食べ始めた。

「おばあちゃん、私のかき氷、トロピカル味だよ! すっごくおいしい!」

キラキラと輝く瞳で、栞がかき氷を口に運ぶ。

「そう、おばあちゃんのはレモン味。さっぱりしておいしいわ」

沙織は微笑みながら、自分のかき氷を味わった。

夏の暑さも、愛する孫娘と一緒なら心地よく感じられる。

「ねえおばあちゃん、あの雲、ウサギに見えない?」

栞が空を指差し、はしゃぐ。

「ほんと、ウサギみたいね。風に乗って、どこまで行くのかしら」

沙織もまた、子供のように無邪気に空を見上げた。

穏やかに流れる夏の空。


雲の形を探しながら、二人でキャッキャと笑い合う。

「ママも空から、私たちを見守ってるよね」

ふと栞が言った言葉に、沙織の鼓動が高鳴る。

「ええ、そうよ。美幸もきっと、安心して栞を見守ってくれているわ」

今はそう言える。

胸の奥に、娘への愛おしさがあふれるのを感じた。

美幸、あなたが最期に遺してくれた宝物は、ちゃんと輝いているよ。

きっと私も娘として、あなたを誇りに思っていただろう。

沙織は白い雲を見つめ、空に向かって手を伸ばした。

風に吹かれて、指の隙間を抜けていく。

「ママ、ありがとう」

栞も一緒に、空に手を合わせる。

沙織は幸せに浸りながら、この一瞬を胸に刻んだ。

娘の愛が導いてくれた、新しい人生。

母として生きる、かけがえのない日々が始まったのだ。

青空の下で、沙織は大きく羽ばたく夢を見た。

愛する娘と、愛する孫娘と共に。

新しい人生の序章が、今始まったのだと。


第5章


「栞ー、朝ごはんできたわよー」

沙織が優しい声で呼びかける。

午前10時、日差しの差し込むダイニングルームに、焼き立てのホットケーキの甘い香りが漂っている。

「はーい! 今いくよー!」

元気な返事と共に、栞が駆け込んでくる。

ショートカットの黒髪を揺らし、無邪気な笑顔を見せる少女。

随分と背が伸び、めきめきと成長した。

「わぁ、おいしそう! いっただっきまーす!」

栞が合掌すると、パクパクとホットケーキを頬張り始めた。

「もっとゆっくり食べなさい。喉に詰まらせるわよ」

沙織が微笑みながら、栞の背中をさする。

孫娘の健やかな成長に、母の顔で接することができる。

この何気ない日常が、どれほど尊いものか。

沙織は有り難みを噛みしめるように、ゆっくりと紅茶を啜った。


「ねえおばあちゃん、今日は天気いいし、ママに会いに行こうよ」

栞が唐突に提案する。

「美幸に...?」

沙織が驚いた様子で尋ねると、栞がうなずいた。

「うん。ママの誕生日だもん。プレゼント持っていこうよ」

栞の瞳が、きらきらと輝いている。

母を亡くしながらも、前を向いて生きる孫娘。

その凛とした心根が、沙織の胸を熱くする。

「そうね、行きましょう。美幸も喜ぶわ」

沙織は暖かな微笑みを浮かべ、栞の頭を撫でた。


二人で花屋に立ち寄り、美幸の好きだったガーベラの花束を買った。

真っ赤な花弁が、まるで美幸の明るい笑顔のようだ。

寂しげな人だったが、娘の前では自分の感情を隠し、いつも笑顔でいてくれた。

きっと、母として強くあろうとしていたのだろう。

そんな娘の姿が、今は沙織の中で美しく輝いている。


やがて二人は、美幸の眠る霊園に到着した。

青々とした芝生の向こうに、白い墓石が静かに佇んでいる。

「ママ、お誕生日おめでとう」

栞が優しく声をかけ、墓石にガーベラを手向ける。

「ママ...私は今、すごく幸せだよ。おばあちゃんと一緒に、楽しく過ごしてる」

潤んだ瞳で、栞が沙織を振り返る。

「おばあちゃん、ママに挨拶して」

その言葉に、沙織の鼻の奥がじんわりと熱くなる。

「美幸、母でいられなくてごめんなさい」

沙織は墓石の前に脆き、深々と頭を下げた。

「あなたを看取ることができなかった悔しさは、今でも消えないわ。けれど...」

言葉を詰まらせながら、沙織は顔を上げる。

「娘が託してくれた栞を、しっかりと育てているわ。母親として、あなたの分まで生きているのよ」

熱いものがこみ上げ、沙織の頬を伝う。

娘の死を乗り越えて、私は確かに前を向いて生きている。

母になる勇気を、娘が与えてくれたのだ。

「ママ、安心してね。おばあちゃんは最高のおばあちゃんだから」

栞が沙織の手を握り、はにかんだように微笑む。

「...ありがとう、栞」

沙織は涙を拭うと、栞をぎゅっと抱きしめた。

美幸への想いを胸に刻み、母として生きていく。

それが、娘への恩返しだと、沙織は心に誓うのだった。


「さ、帰りましょうか。晩御飯は栞の好きなオムライスを作るわ」

「やったー! おばあちゃんのオムライス、大好き!」

満面の笑みを見せる栞に、沙織も思わず顔がほころぶ。

「ふふ、よく食べて大きくなるのよ」

「うん! ママみたいに、優しくて強い女の子になるんだ」

胸を張る栞の姿に、沙織は目頭が熱くなるのを感じた。

美幸の面影を感じずにはいられない。

娘の生きた証が、こうして目の前で輝いている。

沙織は空を仰ぎ、心の中で美幸に話しかける。

「美幸、あなたの願いは叶ったわ。母になれたのよ」


夕暮れ時、春の陽光に照らされた川沿いの道を、沙織と栞が歩いていた。

揺れる木々の葉が、斑模様の光を作っている。

「おばあちゃん、手繋ごう!」

栞が無邪気に手を差し出す。

「あら、もうこんなに大きいのに、恥ずかしくないの?」

「ぜんぜん! おばあちゃん大好きだもん」

愛おしそうに微笑む栞に、沙織の胸が熱くなった。

「おばあちゃんも、栞が大好きよ」

握り返される小さな手のぬくもりに、沙織は幸せを感じずにはいられない。

かつての過ちも、今は娘と共に歩む原動力になっている。

娘の愛が、母としての人生を照らし出してくれたのだ。


「いつかは結婚して、おばあちゃんから離れちゃうのかな...」

ふと寂しそうに呟く栞を、沙織は優しく見つめた。

「そうねぇ。素敵な人と巡り会えたら、おばあちゃんのもとを離れていくわよ」

「でもね、おばあちゃん。私、ずっとおばあちゃんの孫娘だから」

真っ直ぐに微笑む栞の瞳に、沙織は吸い寄せられた。

「そうよね。おばあちゃんも、ずっと栞のおばあちゃんよ」

「大好き、おばあちゃん」

「おばあちゃんも、大好きよ」

固く抱擁を交わし、二人はそっと歩み出した。

春の日差しが、祖母と孫娘の背中を優しく包み込んでいく。


新しい人生の一歩を、私は踏み出したのだ。

娘が導いてくれた、母の道を。

美幸、あなたの愛が、私を育ててくれた。

心の中で、娘への感謝の言葉を紡ぐ。

そして栞の手を握り締め、沙織は微笑んだ。

どんな過去も乗り越えて、前を向いて生きていこう。

母として、祖母として。

命をつなぐ母の道を、これからも歩み続けていくのだと。

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母親失格だった私が母になる 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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