第2話
それでも彼に、そんなことができるはずはないだろう。
彼はただ、高揚した気持ちを抑えながら、鞄にファイルをしまう。指についた彼女の血の感触は指先でひっそりと感じるのにとどめていた。
学校の最寄り駅について、電車を降りようとした時、後ろから誰かに強く押される。彼はよろめいて、ほとんど転びそうになりながら、ホームに飛び出る。
背中越しに、笑い声と舌打ちが聞こえた気がした。僕はいても立ってもいられなくなって、その場から走り出してしまいたい気持ちになった。
しかしやっぱり彼にはそんな勇気はないため、普段と何一つ変わらないように細心の注意を払って、改札に向かって歩き始めた。
「おう、何してんの。」
駅を出て歩き始めた彼に、一人の男が話しかけた。彼より少し高い背格好で、彼ではない誰かに手を振りながら話しかけてきていた。
「ジジ…。授業だよ。…じゃあ。」
そう言って彼はその男から逃げようとしたが、ジジと呼ばれた男は彼に沿うようにして歩き始めた。
「授業か、俺も。何号館?」
「1号館。」
「あ、そう。ていうかお前、概論取ってただろ?テスト無くなってレポートらしいぞ。」
ジジはポケットに手を入れたまま、彼に歩調を合わせてそう言った。
絶交をするたびに彼に有益な情報、もしくは彼が無視できないような話題を持って、ジジはこうして何事もなかったように話しかけてくる、それはほとんどその男の習性だった。
彼も彼で、いつもジジのその緩やかなクラデーションに飲まれて、全てを水に流してしまう。結局、全てがジジの思うがままになってしまう、そんな関係が、彼にはひどく心地よかった。
「あとさ、これ見た?結構評判らしいぜ。」
ジジはそういうと、手に持っていたスマホの画面を彼に向けた。そこには「舞台文化論公演『欲望という名の電車』」と書かれたポスターが写っていた。
「授業で公演やってんだって。そんな授業あったんだな。」
「へえ、大学生がやるの?『欲望という名の電車』を?」
「まあ、なんでもいいんだろ。」
ジジはスマホを見ながらそう言った。演劇サークルに所属している分、何か思うところでもあるのだろうかと、彼は思っていた。
「ふうん。…見にいくの?」
「いやー、どうしようかなと思ってる。誰かいれば、見に行こうかな。…あっ。」
ジジはそこまで話すと、遠くに友達を見つけたようで、小さく声を上げた。
「じゃあ、またな。」
「うん。また。」
そう言うとジジは、いつも一緒にいる友人に向かって、歩き始めた。彼は一人、カバンから青いファイルを取り出して、レジュメを見ながら教室へ向かった。
「ジジ、今日はよく会うね。」
帰りがけ、電車に乗り込むジジの背中を彼は見つけた。珍しく一人だったため、彼は早歩きでジジの背中に近づいた。
「おう、ほんとだな。帰りか?」
「うん。O駅まで一緒だっけ?」
「おう。」
そう言うとジジは手元のスマホに視線を戻した。彼は一瞬のためらいの後、ジジに話を切り出した。
「ジジさ、さっき言ってた公演、どうするの?」
「公演?」
ジジは視線を上げると口元にスマホを近づけ「ああ、あの講演か」と小さくつぶやいた。その仕草が彼は好きだった。
「んー、悩み中かな。お前は?」
「僕行こうかと思っててさ、よかったら、その、ジジも一緒に行かない?」
「俺と?」
ジジはそう言って一瞬彼の方に視線を上げた。少し驚いたような顔をして、それからすぐに手元へと視線を戻した。
「いや、いいけど、一緒に行くやついないの?」
「いないよ、知ってるだろ。」
彼は後半ほとんど口の中でつぶやくようにしてそう言った。ガタガタとうるさい電車の中で、その言葉がジジに届いたかどうかはわからない。
少し空いた間に気がついた彼は、誤魔化すようにして言葉を続けた。
「いや、その、誰かと行く予定があればそれでいいんだけど、お互い一人なら、その、どうかなって、思って。」
そう話す彼の額にはしっとりとした汗が光っていた。
「ああ、いや、いいよ、俺そんなにいきたいわけじゃないし。行ってきなよ。」
ジジは顔もあげず、そう言った。彼は目の前の男から発せられたその言葉に、過剰に反応してしまわないようにと努めることで精一杯だった。
「そっか、ありがと、教えてくれて。」
彼がそう言うと、N駅への停車を知らせるアナウンスが流れた。なんとも救われた気分だ、と彼は思った。
「あ、僕、今日ここで乗り換えだから。…じゃ。」
「あ、おう、じゃあな。」
ジジはスマホからほとんど視線を上げずにそういった。彼はほとんど逃げるようにして電車を降りた。
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