それからは

池田明治

第1章 大学生

第1話

 彼は右を向いて座っていた。M駅から歩いて五分。小さな交差点の角にあるコンビニエンスストアのちょうど斜向かいに一軒のデザイナーズマンションが建っている。

その目の前の、綺麗ではないタイプのビルの犬矢来いぬやらいの途切れた部分に、彼は腰掛けていた。

 とくだん、何か理由があったわけではないが、彼は十分ほどそうしていた。冬の風が彼の鼻を凍えさせ、太ももには鳥肌が立っていた。

 ここ数日、彼は気落ちしていた。なぜそんな気分だったのか、心当たりはあったが、理由になるほどのものではないと、彼は感じていた。

 理由のない憂鬱に悩まされることに、彼は慣れていたが、慣れているからこそ、もう良いのではと思っていた。いつもの憂鬱とは違うのではと彼は感じていた。

 その日はあまりに寒かったので、彼はしばらくしてから家に帰った。やはり、自分の覚悟とはこの程度の物なのだと、彼は思っていた。



 ゴトンゴトンと、電車が揺れる。八時四十分あたり家を出て、駅についてから最初に訪れるその電車に、彼は毎日、スマホを見ながら、ゆっくりと歩きながら、時に舌打ちをして走りながら乗り込む。

 T駅行きの電車に乗ることができれば、少しだけ彼の気分は晴れる。途中のN駅で乗り換えれば、彼の通う学校まで、家から三十分で向かうことができるからだ。

 だからこそ、ホームに着いて最初の電車がO駅止まりの電車だった時は、ひどく残念な気持ちになる。O駅で乗り換えると、乗り換え待ちのため、学校までは五十分かかることになるからだ。

 このことを友人のジジに話したとき、彼は最悪な気分になった。「スマホで調べてから家を出ればいいだけだろ。」と、あんな目をして言い放ったジジと、それ以来彼は口を聞いていない。

 ジジと何度目かの絶交をしたその日の夜に、君がどうしても僕を傷つけてしまうように、僕もどうしてもそれを調べることができないのだ、と、彼はベッドの中で寝返りを打ちながら独り言を言った。



 その日はテストが近かった。O駅で電車を降りた彼は、乗り換えの電車が来るのをホームで待っていた。

 駅内にある飲食店の匂いと、先へ急ぐ人たちの匂いが混じって、いつも彼は吐きそうになる。

 しばらく待った後、学校行きの電車がいつものホームに到着した。O駅と、学校の最寄り駅の一つ向こう、K駅で折り返して運行されるこの電車は、そのほとんどの乗客が彼の通う学校の学生だった。

 彼は列の先頭に並んだ責任があるので、ドアが開く前に、なるべくその近くに立つ。そしてドアが開いた途端に、走らないように気をつけながら車内に駆け込んで、座席争いを横目にドア付近のベストスポットに体を滑り込ませる。

 確かに座ってしまった方が楽だが、彼はそんなことで、朝から争いたくはなかった。それなら、ドアの近くにもたれて立っていられる、この場所の方が心地いいと、彼は思えるのだった。

 寝不足の目をこすりながら、前に背負い直したリュックの中から青色のファイルを取り出した。今日の範囲を見直そうと思ったが、しばらくやる気が出ず、ただぼーっと車内の吊り広告を眺めていた。

 電車が走り始めて、車内が混雑し始めた頃、彼の目の前にある女が立った。美しいと感じたので、彼は瞬きもせずに彼女を見つめていた。

 途端、女が顔を上げた。目が合った瞬間、彼はまずいことをしたと思った。視線を下げて、何事もなかったことを一生懸命に主張した。しばらくそうした後、視線を女に戻すと、女はスマホに視線を戻していた。

 ゴトンゴトンと、揺れるのに紛れて、彼は女のスマホ画面が覗き込める位置に移動した。流行りのゲームをしていた彼女に、彼は少しだけ落胆した。

 視線を女から外して、レジュメを見返そうと、その中身が見える位置にファイルを動かした。

 その瞬間、電車が大きく揺れた。

 ガタンと揺れた電車のせいで、目の前の彼女がぐらっとバランスを崩した。彼もバランスを崩したので、手に持っていたファイルが、弧を描くように大きく揺れた。その軌道は彼女と重なり、彼女の頬から血が流れた。

 周りの女から小さな悲鳴が上がり、車内中の視線が彼に集まったような気がした。

すいません、と、彼女は何故か謝ってきた。彼はことあるごとに謝るタイプの人間を心底嫌っていたのだが、そんなことはもうどうでも良かった。その白い手で、赤いほおを抑える彼女に、彼はどうしようもなく高揚していた。

 そのまま何も答えない彼を不審に思ったのだろうか、彼女は彼のことを訝しげに睨んだ。さすがに何か言わなければと、彼は小さく謝罪を絞りだした。

 彼女は彼を、頭の先からつま先まで一秒もかからずスキャンすると、彼の視界から外れようと、男を挟んで少し遠くに移動した。

 今思うと、傷つけておいて、謝りもせず見てくる男がいれば、気持ちが悪いと思うのは当然だろう。

 しかしその時の彼は、そんなことは考えもしなかった。ただ高揚する気持ちに任せて、彼女をもっと眺めていたかった。もっと言えば、彼女の傷ついた頬を触りたかったし、そうした時に彼女がどんなことを彼に言うのか、それとも何も言わないのか、確かめたかった。


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