キキの旅 前日譚

あめはしつつじ

出発のキキ

 十月、軽やかな熱を帯びた風が、廊下を駆け抜ける。

 たったったっ、と上靴の音。

 すっすっすっ、と息の音。

 車は急に、止まれない。

 廊下のリノリウムと、上靴のゴムの擦れる音。

 キュイーーーーーひ。

「すっ、すっ、異変っす。先輩、大変っす、大異変っす」

「ゆーちゃん、廊下を走っちゃ駄目でしょ」

「ブレーキが、ブレーキで、ブレーキの時、」

 ブレーキを踏まず、アクセルフルスロットルなゆーちゃんを、私は落ち着かせる。

 上靴を履いた私の足で、ゆーちゃんの、足を思い切り、

「ふんだっ」

 ゆーちゃんはそう叫んで、停止した。


「で? ゆーちゃん、どうしたの?」

「先輩、ひどいっす、元はと言えば、先輩が悪いんす」

 ゆーちゃんは、足をさすりながら、ゆっくりと、話し始めた。

「先輩のところで、自転車買ったじゃないすか」

 私の家は、自転車屋だ。

 スターリングサイクル。

 真っ赤っ赤の、大赤字。

 火の車で、自転車操業すら危うい。

 ゆーちゃんは、この十月に私の高校に転校してきた。

 転校してきて間もないころ、自転車通学をしたいが、まだ買っていない。ということだったので、うちの高校は、みんな、スターリングサイクルというところで、買うんだよ、と言って、騙して、買わせた。

「その節はどうも。お買い上げありがとうございした。なに? もうパンクしたとか」

「パンクしそうなのは、私の頭っす。っていうか、先輩のとこの自転車は、すぐにパンクするんすか?」

「話のハンドルを切らないで、脇道に逸れない。話を進めて」

「うーん、そのですね、喋るんす」

「なにが?」

「自転車が」

 私は、頭がパンクしてしまった、可哀想な女の子に同情した。

「うん、一度、落ち着いて。深呼吸したほうがいいかも。口から、すーすー言っているし」

「本当なんすー」

「分かったわ、じゃあ、お話を進めて」

「今日、投稿してくる時のことっす。自転車で家を出ようとしている時、何か忘れているっすー、と思ったす。ブレーキをかけて、立ち止まると、キー、と自転車が言ったす」

「す。進めて」

「本当っす、キー、だったす。家の鍵をかけ忘れてたっす。この時は、まだ、自転車が喋った、なんて思ってないっす。でも、心のどこかに引っ掛かりがあったんすかね、赤信号なのに、渡ろうとしてしまったす。ブレーキをかけると、危機キキー、って、その瞬間、トラックが目の前を通り過ぎて、危機一髪、間髪入れず、自転車の前輪スレスレだったっす」

「すー。進め」

「青信号に変わって、左に曲がって、しばらく自転車をこいでいたっす。あれ、これって、もしかするっと、自転車が喋って、教えてくれたんじゃないかって。そう、思って、また、ちょっと、スピードを出してなかったんで、今度は、気づいたっす。赤信号で、ブレーキを踏むと、聞きキキ、って」

「すー、すー、すー」

「それで、先輩に相談してるっす」

 すすす、と私はゆーちゃんから、距離をとった。

「ままま、待ってくださいっ。本当なんす。言葉を喋るんす。一度聞いて見てくださいっ」

 鬼気迫る、本気の目をしていたので、私とゆーちゃんは、駐輪場に向かった。


「いやー、驚きましたよ、僕も。あれは、自転車で、日本一周をするぞ、と出発したときでした。旅の始まりで、テンションが高かったせいか、危機感が欠如していたんでしょうね。自転車のハンドルのところに、僕、撮影機器をつけてまして、上手いこと、画角が決まらなくて、運転したまま、機器をいじってたんです。キーと自動車のブレーキ音。気づけば僕は、死んでしまってました。でも、日本一週をする、その夢が叶えられなくて、心残りで、多分、僕は、自転車に生まれ変わったんでしょうね」

 ぽかんと、開けていた口から、

「じっ、自転車が、言葉を喋ってる!」

 と私は叫んだ。

「だから、言ったじゃないっすか、喋るって」

 自分の言ったことが、信じられたことで、ゆーちゃんは、嬉々としている。

「だだだ、だって、そんな、奇々怪界、魑魅魍魎な、」

「そんな、人を化け物みたいに、言わないでくださいよ」

「ごめんなさい。でも、あなた、これから、どうするの?」

「そうですね、そのー、ものは相談なんですが」

「なんでしょうか」

「私と、一緒に、日本一周をしてくれませんか?」

「無理です」

「無理っす、うちも」

「そんな、どうして」

「学校があるからっすからねー」

「それに、これから、どんどん寒くなるし」

「そんな、お願いです。多分、その夢が叶えられたら、僕は、成仏できるはずなんです」

「困ったすねー、どうすか、先輩?」

「うーん、ちょっと、ちょっと、待ってね」

 喋る自転車。道行先で、大道芸や、見せ物としてもいいし、日本一周の旅の様子を動画サイトにアップすれば。

 私の家は、スターリングサイクル。

 真っ赤っ赤の、大赤字。

 火の車で、自転車操業すら危うい。

「分かった、大学生で、暇してるお兄ちゃんがいるから、ちょっと頼んでみるよ」

「本当ですか!」

「さすがっす、先輩」

「まあ、元はといえは、うちの店が蒔いたタネみたいなものだし」

 十月、収穫するのは、私。

 頭の中で、チャリンチャリンと、音がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キキの旅 前日譚 あめはしつつじ @amehashi_224

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ