残響のクロニカル

島原大知

本編

第1章


新宿・歌舞伎町。夜の帳が下りる頃、ネオンサインが街を鮮やかに彩り始める。喧騒と熱気に包まれたこの街角で、ひとりの少女がたたずんでいた。


「葉月、今日のお客は?」


スナックの裏口から顔を出したのは、葉月の「仕事仲間」のリカだ。濃いメイクで年齢不相応な艶っぽさを醸し出している。


「うん…もう少し待てば、誰か引っかかるでしょ」


葉月は投げやりに答える。客を物色するように、通行人に視線を送る。

幼い頃に母を亡くし、酒に溺れる父からの虐待に耐えかねて家出をした葉月。今は売春で生計を立て、客の提供する麻薬に溺れる日々を送っている。


「生きてて楽しいことなんて、何もないのにね」


心の中でぽつりと呟く。リカから差し出された煙草に火を点け、一気に肺に吸い込む。


「はぁ…」


紫煙を吐き出し、葉月はゆっくりと目を閉じた。いっそこの世界から消えてしまえたら。そんな考えが脳裏をよぎる。


***


夜も更け、人通りもまばらになった頃、葉月は公園のベンチに身を沈めていた。


「よお、こんな夜中に一人で寝てたら風邪引くぞ」


不意に話しかけられ、葉月は弾かれたように顔を上げる。

見上げた先には、優しそうな笑顔の青年が立っていた。柔らかな茶色の瞳に、月明かりが反射している。

その笑顔に、葉月は一瞬、不思議な感覚を覚えた。心の奥底で、かすかに揺れるものを感じた気がした。しかし、すぐにわき上がる嫌悪感にその思いは掻き消された。


「あんたには関係ないでしょ。どうせろくな用じゃないんだから、早く行ってよ」


冷たく突き放す葉月。だが青年は微笑を崩さない。


「そんな言い方しなくても。俺、直樹って言うんだ。葉月ちゃんのこと、前から気になってたんだ」


葉月の名前を口にした直樹に、葉月は眉をひそめる。


「私の名前、知ってるの…? まさか、客…?」

「ち、違う!通りすがりに何度か見かけてさ。その、葉月ちゃんが寂しそうにしてるから…」


直樹は恥ずかしそうに頭を掻く。その仕草が嘘っぽくなくて、葉月は僅かに警戒心を緩めた。


「…座る?」


唐突に、葉月は隣のスペースを指す。苦笑しつつ、直樹はそっとベンチに腰かける。


こうして、葉月と直樹の出会いは幕を開けた。互いに本当の自分を隠し持ちながら、それでも惹かれ合ってしまう2人。やがて訪れる悲しい運命を、まだ知る由もなく―。

第2章


公園での出会いから数週間。葉月と直樹は少しずつ打ち解けていった。

当初は警戒心を隠せなかった葉月だったが、真摯に接してくれる直樹の姿勢に、次第に心を開いていく。


「直樹くん、どうして私なんかと話してくれるの?」


ある日、いつものようにベンチに座りながら、葉月は尋ねた。

直樹は優しい眼差しで葉月を見つめ、静かに語り始める。


「葉月ちゃんは、もっと自分の価値に気づくべきだと思うんだ。辛い過去があったからって、自分を卑下することないよ」


その言葉に、葉月の瞳が潤む。自分を必要としてくれる人がいる。そう感じられることが、どれほど幸せなことか。


「私、直樹くんに会えて本当によかった…」


思わず漏れた言葉に、直樹はにっこりと微笑んだ。


「俺もだよ。葉月ちゃんと出会えて、良かった」


そう言って差し出された直樹の手を、葉月は恥ずかしそうに握り返す。大きくて温かいその手のひらに、安心感がじわりと広がっていく。


***


2人で新しい生活を始めようと決めた日、希望に満ちた陽光が街を照らしていた。

今日から始まる未来に思いを馳せながら、葉月は直樹と一緒にアパート探しに出かける。


「ここなんてどう?」


直樹が指差したのは、小さいながらも暖かみのある木造アパートだった。植え込みには色とりどりの花が咲き誇り、日当たりの良さが感じられる。


「いいね。ここなら、私たちの生活が始められそう」


葉月の言葉に、直樹もうなずく。

大家さんとの交渉もスムーズに進み、晴れて新居が決まった。


引っ越しの日、部屋に入った葉月は感慨深げに室内を見渡す。

日光に照らされて、フローリングがキラキラと輝いている。このような暮らしを、葉月は経験したことがなかった。


「私、ちゃんと直樹くんと一緒に生活していけるかな…」


不安げな葉月に、直樹は背中から抱きしめた。


「大丈夫。俺が、葉月ちゃんを幸せにするから。一緒に頑張ろう」


力強い直樹の言葉が、葉月に勇気を与える。この人となら、どんな困難も乗り越えられる気がした。


幸せな新生活。しかし、それは長くは続かなかった。


ある日、アルバイト先から帰宅した葉月の前に、見知った男が立ちはだかる。

葉月の顔を見るなり、ニヤリと不気味な笑みを浮かべる男。


「やっと見つけたぜ、葉月。久しぶりだな」


葉月は背筋が凍る思いだった。男の正体は、葉月の元客だったのだ。


「何しに来たの…?私には、もう関わらないでよ!」


怯えた様子で後ずさる葉月。男はそんな葉月に一歩近づく。


「お前に選択権はない。俺についてこい」


嫌がる葉月の腕を、男は無理やり引っ張る。必死で抵抗する葉月。

その時、「葉月ちゃん!」と直樹の声が響いた。


男の手から葉月を引き剥がし、直樹が葉月を背後に庇う。


「葉月ちゃんに触れるな!」


怒りに震える直樹。男はチッと舌打ちし、踵を返す。


「面倒だから今日は退散するけど、これで終わりじゃないぜ」


そういい残し、男は去っていった。

直樹に抱きしめられ、葉月は堪えきれずに嗚咽を漏らす。過去からは、簡単には逃れられないのだと思い知らされた瞬間だった。


第3章


元客との鬱陶しい再会から数日後、葉月の心は荒んでいた。

直樹の励ましの言葉も空しく響くばかり。過去の亡霊から逃れられないのだと、絶望感が葉月を蝕んでいく。


「どうして、私にばかりこんなことが…」


ため息交じりに呟く葉月。部屋の片隅で膝を抱え、うつろな目をしている。

そんな葉月を見かねて、直樹が隣に座った。


「葉月ちゃん、君は一人じゃない。俺がついている。必ず君を守るから」


優しく語りかける直樹。その言葉に、葉月は小さく頷いた。

直樹の温もりに触れ、少しだけ希望を取り戻せた気がした。


***


それから数日後、葉月はアルバイト先への道を急いでいた。

いつもより少し遅れてしまったことに焦りを感じながら、人通りの少ない裏路地を早足で進む。


ふと、背後から不気味な気配を感じた。振り返った途端、目の前に例の元客が立ちはだかっていた。


「やっと捕まえたぜ、葉月」


不敵な笑みを浮かべる男。葉月は恐怖で身体が硬直する。


「放してよ!私はもう、あんたとは関わりたくない!」


必死で訴える葉月。しかし男は聞く耳を持たない。


「俺の言うことが聞けないなら、大切な彼氏にでも危害を加えてやろうか?」


脅すような口調で男が言う。その言葉に、葉月の血の気が引いた。


「お願い、直樹くんだけは…」


泣きそうな声で懇願する葉月。男はその反応を面白がるように笑う。


「じゃあ、俺の言うことを聞けば、彼氏は無事でいられるって訳だ」


男にそう言われ、葉月は震える拳を握りしめた。直樹を守るためなら、自分が犠牲になるしかない。


「……わかったわ。言うとおりにするから、お願いだから直樹くんには手を出さないで」


覚悟を決めた葉月に、男は満足げに頷く。


「賢明な判断だ。じゃあ、今夜俺の指定した場所に来い。分かったな?」


葉月を睨みつけ、男は去っていった。

どんよりとした空模様が、葉月の心情を物語っているかのようだった。


***


約束の夜、葉月は男の指定したラブホテルの一室にいた。この後訪れる地獄に怯えながら、ベッドの上で丸くなっている。


やがて、部屋のドアが開き、男が入ってきた。ニヤついた笑顔で葉月に近づいてくる。


「いい子だ、葉月。大人しくしてればすぐ終わるからな」


そう言いながら、男は葉月の細い腕を掴んだ。たとえ嫌でも、抵抗することはできない。葉月は目を瞑り、震えながら男の欲望を受け入れるしかなかった。


***


夜が明け、朝日が差し込む部屋で、葉月はぐったりと横たわっていた。

男に散々に弄ばれ、心も体もボロボロだ。


「私は、汚れてしまった…」


涙を流しながら、葉月はぼんやりとつぶやく。

もはや直樹の前に出る顔がない。自分は汚れきった存在なのだと、絶望の淵に立たされていた。


この先、葉月はどうなってしまうのだろうか。

直樹との幸せは、遠い夢のように感じられた。


第4章


男に弄ばれた翌朝、葉月は泣きはらした瞳で空を見上げていた。

雲一つない晴天なのに、葉月の心には暗雲が立ち込めている。


「もう、私には生きる資格なんてない…」


ぼんやりと呟く葉月。歩く方向もなく、ただ街をさまよい歩く。


行き着いた先は、いつもの公園だった。葉月と直樹が初めて出会った、思い出の場所。

ベンチに腰を下ろし、葉月は目を閉じる。木漏れ日が優しく頬を照らすのを感じながら、幸せだった日々を思い出していた。


「葉月ちゃん!」


不意に聞こえた直樹の声に、葉月は我に返る。

目の前に立つ直樹は、安堵と心配の入り混じった表情をしていた。


「一体どこ行ってたの?心配したんだよ」


優しく語りかける直樹に、葉月は曇った瞳を向ける。


「私、もうダメなの…直樹くんの側にいられない」


震える声でつぶやく葉月。しかし直樹は、微笑みながら葉月の手を握った。


「何があっても、俺は葉月ちゃんを見捨てない。君の過去も、全部受け止めるから」


その言葉に、葉月の瞳から再び涙があふれる。


「私、汚れちゃった…でも、直樹くんのためなら…」


泣きながら事情を話す葉月を、直樹は力強く抱きしめた。


「馬鹿だな。俺は、葉月ちゃんが辛い思いをしてるなんて、望んでないよ」


直樹の胸で泣き崩れる葉月。二人で歩んでいく未来を、諦めかけていた。けれど直樹は、葉月の過去も全て受け入れると言ってくれた。


「私、直樹くんと一緒にいたい…でも、あの男から逃げられない…」


すすり泣く葉月に、直樹は真剣な眼差しを向ける。


「警察に相談しよう。必ず葉月ちゃんを守ってみせる」


その提案に、葉月は小さく頷いた。もしかしたら、まだ希望はあるのかもしれない。


***


警察に相談した後、二人で歩く繁華街。ネオンが街を鮮やかに彩っている。

葉月は、前を向いて歩く直樹の横顔をじっと見つめていた。


「直樹くん、私のことこんなに真剣に考えてくれて…ありがとう」


葉月のその言葉に、直樹は優しく微笑む。


「当然だよ。葉月ちゃんは、俺の大切な人だから」


その瞬間、葉月の胸に熱いものがこみ上げてきた。

直樹への想いが、ますます強くなっていくのを感じる。


そんな矢先、突然目の前に例の男が立ちはだかった。


「よくも警察に言いつけてくれたな、この女…!」


怒気を孕んだ男の形相に、葉月は恐怖で震えあがる。

しかし直樹が、葉月の前に立ちはだかった。


「葉月ちゃんに近づくな!警察は、もうすぐ来る」


屈強そうな直樹でさえ、男の狂気を前に怯んでいる。


「ふざけるな!警察なんて怖くない。それより女を引き渡せ!」


そう怒鳴る男は、ポケットからナイフを取り出した。

切っ先が、不気味に光る。


「やめて!お願い、もう許して!」


泣きじゃくる葉月。しかし男は高笑いしながら、ナイフを振り上げる。


「葉月ちゃん、逃げて!」


そう叫んで、直樹が男に飛びかかった。


「直樹くん!」


悲鳴のような叫び声を上げる葉月。

直樹と男がもみ合っている。

やがてナイフが、直樹の脇腹に突き刺さる。


「うっ…」


うめき声を上げ、直樹がよろめく。


「直樹くーん!」


絶叫する葉月。地面に倒れこむ直樹。

血が、どんどん道に広がっていく。


遠くで、サイレンの音が聞こえる。

けれど、もう遅すぎた。

恐怖に震える葉月の視界は、涙でぼやけていた。


第5章


灰色の空が、重たく街を覆っていた。雨に濡れた繁華街の通りは、ネオンの光に照らされ、不気味な輝きを放っている。


病院のベッドに横たわる葉月。点滴の管に繋がれ、意識を取り戻しつつあった。

かすかに瞼を開けると、白い天井が目に飛び込んでくる。最初は状況が飲み込めず、ただぼんやりと空間を見つめていた。


「…ここは…?」


か細い声で呟く葉月。すると、隣で誰かが驚いたように身動ぎした。


「葉月…!目が覚めたのか!」


聞き慣れた声に、葉月は驚きとともに顔を向ける。そこには、安堵の表情を浮かべた直樹の姿があった。


「直樹…?どうして…ここに…」


混乱する葉月に、直樹は優しく微笑んだ。その瞳には、暖かな光が宿っている。


「君を助けたんだ。あの時…廃工場で死のうとしていた君を、必死で止めたんだ」


直樹の言葉を聞き、葉月の記憶がよみがえってくる。薬物を大量に飲み、意識を失っていく自分。それを必死で止める直樹の姿。


「私…生きてるの…?」


震える声で葉月が問う。直樹は力強くうなずいた。


「ああ。君は生きている。これからも、俺と一緒に生きていくんだ」


その言葉に、葉月の瞳から大粒の涙があふれ出た。今まで誰からも愛されることのなかった葉月。初めて、自分の存在を心から肯定してくれる人に出会えたのだ。


「直樹…ありがとう…」


嗚咽混じりに呟く葉月を、直樹は優しく抱きしめた。痩せこけた身体が、温もりを求めるように寄り添ってくる。


「俺は絶対に、君を一人にしない。どんな時も、君の味方でいるから」


直樹のその言葉が、葉月の心に深く染み渡っていく。傷ついた心が、少しずつ癒されていくのを感じた。


窓の外では、雨が上がり、かすかに日差しが差し込み始めていた。雲の隙間から、青空がのぞいている。

まるで、2人の行く末を照らすかのように、暖かな光が差し込んでいた。


「葉月、俺と一緒に歩いていこう。新しい人生を、君と歩んでいきたい」


直樹が真摯な眼差しで言う。葉月は涙を浮かべながら、微笑んでうなずいた。


「うん…私も、直樹と一緒にいたい。これからは、2人で生きていこう」


かつては絶望の淵にいた葉月。それでも、直樹との出会いによって、新しい希望を見出すことができた。


これからの人生、どんな困難があろうとも、2人で乗り越えていける。そう確信して、葉月は直樹の手を強く握り締めた。


遠くの空に、虹が架かっていた。雨上がりの街に、希望の光が差し込んでいる。

葉月と直樹の歩む道は、まだ始まったばかり。されど、かけがえのないお互いを見つけられた2人には、どんな未来も恐るるに足りない。


こうして、悲しみと絶望に彩られた物語は、新たな希望の章を迎えるのだった。

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残響のクロニカル 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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