紅蓮将軍、野良猫を拾う

八葉

第一章 炎の記憶の復讐者

第1話 野良猫、主人に出会う

 ……燃える。


 全てが燃えていく。

 街が……故郷が。家族が、友人が。

 そして、思い出が。

 紅蓮の炎の向こう側へ消えていく。


 そんな絶望の光景を前にただ立ち尽くす一人の青年。

 叫びは無く、涙も無く。

 ただその見開いた瞳にはゆらゆらと踊る炎が映っていて……。


 何故なのか。

 何故……自分の故郷が燃えているのだろう。

 何故……家族や友人は命を落とさなければならなかったのだろう。


 そんな事を考えながら青年は一人の女性を見ていた。


 紅い世界に一人立つ彼女。

 炎の中に立つのに相応しい深紅の武装の……深紅の髪の女性。

 その横顔は息を飲むほどに美しく、こんな状況でなければ自分はきっと無邪気に彼女に見惚れるだけだっただろう。


 だが。


 この惨状は他ならぬ彼女の手によるもので。


 青年の故郷や家族や友人を焼き払ったのは目の前の美しい女性で。

 だからこそ彼女は……。


 自分が、この手で……殺さなければならない。


 彼女が奪ったものの重さを、大きさを、刃に乗せて届けなければならない。

 それが自分の役割。

 生き残ってしまった……自分の責務だ。


 紅い世界で彼は誓った。


 …………復讐を。


 ────────────────────────


──『主役』というのは、ああいう人の事を言うのだ。


 否応なしに人目を引く美貌、凛とした表情……だけど時折見せる柔和な笑み。

 そして何よりも……。

 炎のように鮮やかに赤い髪と鎧。

 絵画のように整った横顔にはほんの僅かにだが幼さが残っているようにも見える。


 人は彼女を『紅蓮将軍』という異名で呼ぶ。


 常勝無敗の帝国軍の、その要たる七人の将軍の一人。

 彼女は十八歳という若さでその地位へと登り詰めた。

 紅蓮将軍ファルメイア。

 異名の如く真紅の炎を自在に操り、また辣腕の剣士でもあるという。


 今、帝都の大通りはその紅蓮将軍の二ヶ月ぶりの凱旋に沸き立っていた。

 歓声を上げる多くの市民たちの中を彼女と彼女の部下たちが騎馬で進んでいく。


 そして、今。


 白馬に跨るその紅蓮将軍へ人ごみの中から一人の男が聊か頼りないと形容するより他はない足取りで進み出た。

 彼が将軍の下へ辿り着くよりも早く二人の騎士が間に入った。

 不審な者を主に近づけない為である。


 近寄ってきたのは痩せた若い男だ。

 薄汚れたぼろぼろの外套を身に纏っている。

 黒髪の頭部には三角に尖った獣の耳が二つ……半獣人だ。

 猫科の動物の耳であるように見える。

 顔付きは整ってはいるが目の下の隈が目立ち覇気がない。

 眼鏡を掛けているが片方のレンズは端にヒビが入っていた。


「……止まれ」


 馬上の騎士が半獣人の青年を制止した。

 何かあれば即座に対応できるように騎士の片手は腰に帯びた剣の柄に掛かっている。


「騎士様、どうか……この哀れな獣人めにお恵みを……」


 半獣人の青年は掠れた声で言うと恭しく頭を下げた。

 ……物乞いか、と騎士が鼻白む。

 このご時勢には別段珍しくも無い。

 帝国軍が大陸制覇の為に各地に侵攻を開始して四十年以上が経過している。

 故郷を失った者などいくらでもいる。

 そして流浪の民となった者は得てして栄えている場所を目指すもの。

 即ち、この大陸で今最も栄えているこの帝都バルエンシアを。


「路銀は尽き困り果てております。どうか……どうか、なにとぞ……」

「失せろ。お前のような者にくれてやるものなどない」


 鬱陶しそうに眉を顰めて騎士が言う。

 自らを見下ろすいかつい顔の騎士に半獣人の青年が愛想笑いを見せる。

 それは辛うじて笑みに見えなくも無い、というレベルの引き攣ったものであった。

 だがそんな卑屈な振る舞いの裏で青年の脳みそは静かに、そして冷静に状況を判断している。

 ここまでは概ね想定の通り。

 取るに足らない者として振舞え……自分。


 ……後はもう少し、彼女の顔を間近で見る事ができれば……。


「どきなさい」


 所がその一言が聞こえて事態は彼のまったく想像していなかったほうへと転がり始めた。

 やや高めの女性の声。

 誰のものかは問うまでも無い。

 わずかな躊躇も無く青年の視界を塞いでいた二騎が左右に退いた。


 そして、青年と彼女を隔てるものは何もなくなった。


 馬上の紅蓮将軍が自分を見下ろしている。

 親愛の微笑もなければ嫌悪の嘲笑も無く……ただ冷静に。


「あ、あの……」


 想定外の出来事に言葉に詰る青年。

 だが彼は即座にその反応を自分で良しとする。

 そうだ、このまま思いがけず権力者に直に接する機会を得て萎縮する小人を演じるのだ。


「お目に掛かれて光栄でございます。自分は……」

「名前は?」


 ファルメイア将軍が青年の言葉を遮って言った。


「レン。……レン・シュンカです」


 僅かに迷って青年は本名を口にする。

 咄嗟に偽名が思いつかなかった。

 まさかここで名を尋ねられるとは思っていなかったのだ。

 己の迂闊さにレンは内心で渋面になる。


「……そう」


 大して興味もない風でそっけなく将軍は言って、そして後ろ髪をサッとかき上げた。


「じゃあレン。あんたは私が拾ってあげる」

「……!!?」


 その言葉に息を飲んだのはレンよりもむしろ彼女の周囲の騎士たちであった。

 鉄塊を腹にぶつけられたように目を剥いた者もいる。

 だが、それでも声を上げた者は一人もいなかった。

 自分の主はこういう場で諧謔を口にするような人物ではない事を彼らは皆よく知っていた。


「私に仕えなさい。私に尽くしなさい。今日からあんたは私の所有物よ。……いい?」


 どこか自慢げに、勝ち誇ったようにも聞こえる彼女の言葉。

 それは自らの言動に絶対の正しさを確信している王者の立ち振る舞いだ。


 逡巡はほんの一瞬。

 すぐにレンはその場に片膝を突き深く頭を垂れた。

 何を考えてこんな薄汚れた半獣人を拾おうなどという酔興を思いついたか……。

 まったくわからないが本気ならば願ってもない。

 自身のへの大幅なショートカットになる。


「……紅蓮将軍様に……忠誠を誓います」

「励みなさい」


 レンの言葉にファルメイアは鷹揚に肯き一人の騎士を招き寄せる。

 その騎士に何事かを言いつけて手早くメモを書き手渡した。


「彼について行きなさい」


 端的に命じて将軍ファルメイアは行軍に戻った。

 声を抑えてざわついていた群衆たちも再び歓声を上げる。

 まるでそんな一幕などなかったかのように再開されるパレード。

 その賑わいの中、列から騎士と共に外れるレン。


「来い」


 ぞんざいに言って騎士は馬を進める。

 パレードとは別の方向へだ。

 どことなく不機嫌そうなのはレンの気のせいではないだろう。

 不審がられている。……当然のことだ。

 こちらは素性もわからない半獣人。

 帝国では人と獣人、半獣人は同等であるのだがそうなったのも近年の事。

 未だに人類種族の中には獣人を忌み嫌い下に見る者もいる。

 人に野の獣を自分たちと同格に扱えと言ってもそれは無理だろう。

 彼らにとっての獣人とは半分野の獣なのだ。

 そんな半獣人を連れてどこか居心地が悪そうにも見える騎士。

 自分が彼の立場であっても同じ風に感じただろうとレンは思う。


(……気の毒にな)


 自らの前を行く名も知らぬ馬上の騎士にどこか他人事のように同情するレンであった。


 ────────────────────────


 騎士がレンを連れてきたのは貴人や富豪の住まいの立ち並ぶ居住区。

 立ち並ぶ豪邸……その中でも一際大きく、最早宮殿と言っていいような屋敷の前で騎士は足を止めた。


(……ここが……ファルメイア将軍の住まいか)


 我知らずレンは喉を鳴らしていた。

 圧倒されてしまう。

 門から建物までが遠い……よく手入れされた広い庭園が続いている。

 一瞬不便ではないかと思ったが、そもそも将軍は門から建物まで徒歩で移動はしないのだろう。


 そしてここへ連れてこられて自分はどうなるのだろうか?


 騎士は門の守衛に何か伝えて先ほど将軍から受け取ったメモを手渡している。


「私はここまでだ。後はここの方々の指示に従え」


 刺々しさを最後まで隠すことなく騎士はそう言って踵を返した。

 ありがとうございます、とレンがその背に頭を下げる。


「ふん……くれぐれも閣下のご厚情を裏切るなよ」


 振り返らずに苦々し気にそう言い放って騎士は戻っていった。


 ────────────────────────


 程なくして門まで一人の女性がやってきた。

 ロングスカートのメイド装束に身を包んだ黒髪の背の高い女性だ。

 隙の無い凛とした雰囲気の整った容姿の女性で銀色の長髪をポニーテールに纏めている。

 歳は……当然子供ではないが若く見える。二十代前半……だろうか?

 彼女の怜悧な視線が自分を射抜いた時、レンは言い知れぬ圧を感じて己の額に汗が浮くのを感じていた。

 威圧されているわけではあるまい。

 しかしその瞳に全てを見透かされるような気がして彼の全身は強張った。


「レン・シュンカ……です。……よろしくお願いします」


 頭を下げるレンの前で守衛からメモを受け取るメイド。

 さっと目を通した彼女の表情は変わらない。


「シルヴィア・アルバトラスです。お屋敷で使用人たちを束ねています」


 無感情にそう名乗ってシルヴィアはレンの頭頂から爪先まで視線を滑らせる。


「ファルメイア様は貴方をお屋敷で召し抱えるとおっしゃっておられます」

「せ、精一杯頑張ります」


 ぎこちなく頭を下げるレン。

 気圧されてばかりもいられない。

 この状況に何とか喰らい付かなくては……。


「仕事着を用意しなくてはいけませんね。その間に湯浴みをしてください。後は……髪を当たって眼鏡も用意しなくては」


 レンズのヒビを見て言ったのだろう。

 シルヴィアとレンの視線がレンズ越しに交差した。


「これからは貴方の立ち振る舞い、見た目はファルメイア様の風評となるのです。その事を心してください」

「……はい」


 恐縮したレンが頭を下げた。


 ────────────────────────


 屋敷の主人、ファルメイアが帰宅したのは日が落ちてからの事であった。


 玄関を潜ってすぐのロビーで彼女はマントを脱ぐと脇に控えていた従者に手渡す。


「お帰りなさいませ。ファルメイア様」


 主を出迎えたシルヴィアが恭しく一礼した。


「ただいま。シルヴィア……はぁ、くたびれちゃったわ」


 表情を緩めて苦笑するファルメイア。

 公の場や外では彼女がほとんど見せることのない表情である。


「陛下もお元気よね~。あんなお爺ちゃんなのにどうしてあそこまでバリバリの威圧感出せるのかしらね。前に立ってるだけでも肩凝っちゃう」

「……ファルメイア様」


 主の明け透けな物言いにメイドの言葉は多少窘めるような調子を帯びた。

 そんな彼女に紅髪の女主人は「わかっている」というようにウインクして見せた。

 両者の気心の知れた間柄を表すやり取りだ。


「それより、あいつどうしてる? 急にごめんね。押し付けちゃって」


 ファルメイアが微かに申し訳なさそうに言う。

 メイドはうなずくと背後を振り返った。


「来なさい、レン」

「はい」


 ロビーに出てきたレン。

 彼は昼間のみすぼらしい旅装ではなく黒を基調とした執事の衣装に身を包んでいる。

 頭髪を整え眼鏡も新調して……直立するその姿は見た目だけであれば若い従者として中々に絵になっていた。


「へえ」


 感嘆の吐息を漏らしてからファルメイアがニヤリと笑った。

 猫を思わせる表情だった。


「いいじゃない。まあ……中身はこれからでしょうけどね」


 状況を面白がるようにニヤニヤ笑いを浮かべたままでファルメイアの視線は何度もレンを眺めまわした。

 何とも居心地の悪い思いをするレンであったが表面上は静かに佇むのみ。

 何しろこの主人が帰ってくるまでの間にも色々と叩きこまれていたのだが最優先事項として強く言われているのは「動じるな。平静であれ」という事であった。

 自信のない立ち振る舞いは良家に仕える者として相応しくないという事だ。

 それを忠実に守ってレンは主人と今相対している。


「良い拾いものをしたって私に思わせてみなさい。期待しているわ」


 最後まで楽し気に彼女はそう声を掛けてからレンに背を向けた。

 歩み去る将軍にシルヴィアが付き添う。

 遠ざかっていく両者の背に向かってレンは深々と頭を下げた。


 視線を床に向けながら心の温度が急速に落ちていくのを感じるレン。

 ……憎悪の冷気だ。

 それが今心地いい。

 この憎しみが今日まで自分を生かしてきた。

 日々心が乾いて徐々に崩れていくその憎悪と憤怒を維持しようと苦心してきたのだ。


「お前は俺が殺す。……紅蓮将軍イグニス・ファルメイア」


 口の中だけで呟いて青年が顔を上げた時、彼の怨念の対象は既に曲がり角の向こうに消えており視界には豪奢な無人の廊下が広がるのみであった。

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