序/蛮族転生 4

 権力の王都、権威の聖都という言葉がある。


 大陸に覇を唱えて一千年。これほどまでの永き太平の世は磐石な基盤がなければ成し得ようがない。


 権力とはすなわち実効的な支配力であり、たいていの場合それは軍事力である。


 権威とはすなわち、支配力の正当性であり、大義名分とも言える。


 権威の伴わない権力はただの盗賊や野党、レジスタンスなどとさして変わりないし、権力の伴わない権威など、それはいかがわしい宗教の教祖か、裸の王様であるのと変わりない。


そして、エリニア王国における権威とは言うまでもなく世界の真理を握る聖都にほかならない。そしてその象徴たる聖女である。


 下校時。いつも帰路をともにするユナは校門をくぐる前に、例の女教師に捕まってしまった。どうやら期限の提出物を忘れていたらしい。


 今頃はあの女教師に絞られていることだろう。あの女教師の勤勉さにはリリベルも頭が下がる思いだ。


(ユナは忘れ物多いからなぁ)


 学友の解放を待ってもよかったが、リリベルとて暇ではない。仕方なくひとりで帰宅することにした。


 とはいえ、リリベルはひとりの時間が好きでもあった。


 幼少の頃から、聖女の家系として身の回りの世話をしてくれる者はいたし、聖女としての公務をこの歳でやることもあった。


 学院での態度もまた、常に気をつけなければならないし、自然と周りの目には敏感になる。


 それほどまでにこの国、特にこの聖都にあって彼女がゆっくりと、一人の時間を過ごせることなどない。


 実際送り迎えについても護衛付きの馬車が付くのが慣例ではあるが、そこはユナとの同行という条件付きで無しとなっていたわけだ。


 そういった事情もあって、ユナは学院での些細な不祥事をリリベルが秘密にすることで、リリベル自身のほんのささやかな自由を秘匿してもらうという協定が成り立っている。


 リリベルは夕暮れの街を歩く。ほんの少し遠回りをして。


 聖都を見渡せる広場がある。ひとりで帰る時、リリベルは必ずこの場所に立ち寄った。


 夕日に染まる巨大な構造物は聖都の中心、エリニアの大聖堂、セントエレノア。


 千年前はここはただの平地で、小さな教会があるだけだったらしい。


 辺境の小さな教会。そこの司祭の娘がかの九星剣王ミハイにイコンを授けた。


 王権の授与。のちにそう呼ばれるエリニア王国の発端となった、歴史的一大イベントは、そんな誰も知らないこの土地でささやかに行われた。


 司祭の名はヴェルトール、そして娘の名はエレノア。


 たった二人の父娘が、のちに覇権国家となる国にその権力を保障するだけの強力な大義名分を与えた。


 それは世界の真理ともいえるものだった。


 ヴェルトールは世界最古の書物を解読し、世界の構造そのものを言語化してしまった偉人。そしてその娘は、奇蹟とも呼べる力を行使する最初の人であった。


『世界を安寧に導く者。汝の覚悟に応え、わたしの奇蹟を預けましょう』


 エリニア王国史、統一事業の項における最初の文言は、奇跡の娘、最初の聖女の言葉からはじまる。


(聖女……様かぁ)


 リリベルはこの文言が好きだった。


 小さな田舎の小さな教会に、ほんとうに小さな奇蹟を起こせるだけの少女が、父親と暮らしている。


 そこへまだ名もなき剣士がやってきて、祝福される。


 なんて美してくて、なんて純粋なお話なんだろうか。


 リリベルはそれが行われた光景がとても幸福なもののような気がしてならなかった。


 何もない、まだ何者でもなかった人々が、己の善意と良心と、自分のできることをしてあげたいから、してあげた。


 いまとなっては特別なことも、当時は特別ではなかった。奇跡とはいっても、まだその頃は奇跡なんてものじゃなかったはずだから。


 自分の持てる唯一のものを分け与えただけだった。


 たったそれだけの善意が、世界を変えた。


 リリベルは大聖堂を左の手の平で隠して、その上に親指を下にした右の手のひらを乗せる。


 ちょうど大聖堂の尖った塔の先だけが、右手と左手でつくったキャンバスに収まる。塔の後ろに夕陽が落ちて、陰影を作った塔がまるで後光が指しているように見えている。


 大きくなる前の聖都。まだ善意と良心がたくさん残っていて、難しい政治や周りの目なんか気にしなくてもよかった頃の聖都。


 それを目に焼き付けて振り返れば、小さな女の子の影があって、ちらちらと視界に映る残像を影に乗せる。


(昔の聖女様は幸せだったんだろうな。きっと幸せなまま生きて、幸せなまま死んだんだろうな)


 一千年の安寧の世は豊かな国を作った。食うにも着るにも困らない世界。


 でもきっと、自分の思いを他人に託せるほど、善意を信じることができる世界。


 こことは時も様相も大きくかけ離れた世界。


 そんな今の世界は、聖女であり、奇蹟を起こせない彼女にとって最も生きづらい世界だったのかもしれない。


 リリベルはおもむろにポケットからハンカチを取り出した。そのハンカチを開き、手のひらの上に乗せる。

 ゆっくりと目を閉じて、大きく息を吐く。リリベルは集中している。


【求める記述はキレルトの飛翔体】

 【それは命なき物に命を吹き込んだ】

  【仮初の命は、空を目指す】

   【願いのすべてを届けるために】

    【我が意をなぞらえよ】

 

【翔べ】


 ゆっくりと目を開ける。ハンカチは手のひらの上に残ったままだった。辞術は発動しなかった。中等部のはじめで覚える浮遊系統辞術。


 聖女であるはずのリリベルはそれすら行使することはできない。


 ゆっくりと寄りかかっていた柵に背を預けて、座り込むリリベル。


(帰りたくない……なぁ)


 膝を抱えて、うずくまって、顔を腕に沈める。


「はぁ……」


 リリベルがため息をついた。



 リリベルのもとに人影が近づいていることなど気づくこともなく……


「どうされた?」


 顔を上げると、そこには街の衛兵の姿があった。リリベルの顔を見て、衛兵は驚く。


「これは! 聖女様ではありませんか! どうされたのです、こんなところで」


(あ、まずい)


 不覚をとってしまったリリベルはあわてて、


「いや、えっとすみません! ちょっと考え事を」


「はははっ! そうですか、そのお年で大役を担われているのですから、悩み事も人一倍でしょう! ですが、ここは近くが第四街区となっております。最近は良からぬ事件も起こっておりますゆえ、僭越ながらわたくしがご自宅までお送りいたしましょう」


「あ、いや」


 それはまずい。衛兵に送られでもすれば、なんと言われるかわかったものではない。丁重にお断りする言葉をリリベルは考えていた。そのときだった。


「遠慮されますな聖女様。これは私にとっても光栄なこ……」


 と、唐突に衛兵の言葉が止まった。かと思うと、ブルブルとその場で痙攣し始めた。


「え? ど、どうされたのです」


「ぐっ……ごぽっ……ぐぷっ」


 溺れるかのような声をあげて、がくがくと震える衛兵の姿を見て、底知れない恐ろしさがリリベルを襲う。


「がっ……」


 衛兵の口からなにかが吐き出され、リリベルに降りかかる。


 リリベルはそれを触ると、ぬめぬめとした感触が手にまとわりついている。赤い。血だった。


 どさりとくずおれた衛兵。リリベルは恐る恐る視線を上げる。そこにはリリベルと同じように返り血を浴びた、茶色のフード付きのマントを羽織った男の姿があった。


 フードの影から浅黒い肌と、鋭い眼光が垣間見える。異様に小さな瞳がリリベルを冷酷に見下ろす。


 しとしととしたたる刃物ががするりと全身を覆うマントに入っていった。


「え、あ……」


「ガキか。子どもを殺すのは趣味ではない」


 と、男の後ろから三人の新手が姿を現した。足音すら聞こえなかった。


「隊長。生かすっすか?」


「いや、いま騒がれては困る」


「なぁんだ。じゃあ自分の手を汚したくないってだけじゃん」


 最初の男の両脇にいたマント姿がそれぞれそう言った。中央の男は低い声で、両脇は若い男の声だった。


「あ。あう……」


 リリベルは助けを呼ぼうと声を出そうとするが、息が詰まって何も声にはならなかった。

 ただただ狼狽し、混乱している少女の姿がそこにはあった。


「君、運が悪いね。ごめんね、これも大義のためだ」


 男がリリベルの目の前にしゃがんで言った。


 さく。


 なにかがぬるりと胸に入り、そして抜けた。焼けるようにその部分が熱く、そして同時に背筋が凍るように冷たくなった。


「あ」


 リリベルが視線をやった胸元にじわじわと赤いシミが浮かび上がってくる。リリベルの口の中いっぱいに、液体が込み上げてきて、口の端からそれが、血が、漏れ出る。リリベルは全身の力が抜けて、そのまま横に倒れた。


「躊躇ないね」


「だって隊長の命令なんだから仕方ないでしょ」


「それにしたってね」


 後から姿を現した三人がそれぞれ言う。そこには全くの罪悪や良心の呵責めいたものはなかった。


「後続の部隊を誘導する。まだ少し時間がある、このあたりの衛兵は極力排除しておけ。無論……」


「はいはい。騒ぎにならないように死体の処理もでしょ」


「わかっているならいい」


 と、男は音もなくどこかへ去っていく。まるで幽霊のように。


「じゃあやりますかね。死体処理」


「俺はパスな」


「は、ずりぃよ」


 まるで、遊びに来たかのように話す男のうち、ひとりが異変に気づいた。


「あれ」


「どうしたんだ?」


「あのガキがいねぇ」


「誰が捨てた?」


「誰もまだやってねぇだろうよ」


「じゃあ生きてたって?」


「冗談だろ。心臓を……」


 と、ひとりが口ごもった。何かに気づいている。あとの二人は半分ほど見えている表情を見て、


「ん、なんだよ」


 と、二人も視線を同じ方向に向けた。


「あ? どういうこと」


 そこにいたのは、紛れもなく、心臓を刺されて死んだはずの少女の姿があった。

 少女の胸に広がる血。出血多量による失血死には十分なほどの血が流れていることを物語る。


 だが、少女は立っている。その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。

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