おばあちゃん食堂

長谷川 ゆう

第1話 おばあちゃん食堂「油揚げのお味噌汁」OL残業ストレスver

ああ、もう嫌だ。何もかも嫌だ。

仕事もうんざりする職場の人間関係もSNSで既婚のマウントをとってくるおんな達も、かなぐり捨てたくなる。


深夜23時、このご時世に残業をしてフラフラと帰宅するのは田中トモカ、29歳の中小企業に務めるお一人様だ。


もういっそ、仕事も人間関係もスマホも捨ててしまうか。そんな事を考えていると、人の疲れも考えない軽率な通知音がスマホからピロンとなる。


誰も歩いていない、うだるような蒸し暑い梅雨の始まりに、肩を落としてトモカはスマホを鞄から取り出し、チェックする。



夜の帳と共にトモカも闇に消えてしまいそうだが、文明の利器だけは容赦なく昼間のような明かりを広げる。


SNSで既婚の友人からだ。

「また旦那とケンカした!家事もしてくれないのよ!こっちは子供育ててんのにい!」


思わず舌打ちが出た。旦那選んだのも子供産んだのも他でもないお前だろうが。


トモカは「大変だね。嫌になるね」と心無い返信をするが既読はつかない。ついたと思ったら「ごめん!旦那が帰ってきて、子供たち寝かせなきゃ♪」


「あああっ!」

人がいない事を確認してからトモカは、叫んだ。仕事と人間関係で脳が限界だ。


両目から涙がポロポロ出てきた。もう一人暮らしの家にも帰りたくなければ、わんさかとストレスをためにくる人間がいる職場にも行きたくない。


ぼんやりと立ち尽くしていると、ほんのりとお味噌汁の香りがする。


ぐうっとお腹がなる。そういえば今日は仕事が忙しく、昼にコーヒーしか飲んでいない。


お味噌汁の香りがする方を見ると、人が1人通れるくらいのコンクリート打ちっぱなしの一本道の先に、ぼんやりと光がついている。


家屋だろうか?

トモカは興味だけに突き動かされて、フラフラと光に群がる虫のように歩き出した。


そこには、目の前に築30年は過ぎていそうな2階建ての家が左右に2件だけ建てられている。


右側の家は、すでに寝静まり真っ暗だが目の前の家の一階だけが明かりを灯して、引き戸の扉に小さな看板があり「おばあちゃん食堂」「今日のメニューは油揚げのお味噌汁と鮭の焼き魚ときゅうりのお漬物、560円」


「やすっ」

内容よりも値段に目がいく自分が情けない。思わず引き戸を開けてしまった。家屋だろうが幻だろうが、どうでもいい。トモカは自暴自棄になる。


引き戸を明けると、キッチンとカウンターに椅子が2つしかない8畳ほどの部屋にお味噌汁の香りがただよう。


「あら、よかった。もう閉めようかと思っていたのよお」

カウンターの中のキッチンには、トモカの祖母くらいの年齢のおばあちゃんが1人、割烹着を着てニコニコと笑っている。


「まだ、大丈夫ですか?」

引くに引けなくなりトモカは、店に入った。


「今日のメニューね」

おばあちゃんは、独り言を言うと食事の支度を始める。つぶれそうな木の椅子に座り、習慣のようにカウンターにスマホを置くと、驚いた。


圏外だ。


やけになって、まずい所に来たか。


砕いた氷が入った水と共に、お盆にのせられて出てきたのは、焼き鮭と油揚げの味噌汁と白飯と3切れのきゅうりの漬物だ。


「いただきます......」

思わず口にして箸をとり、冷たい水で喉を潤し、お味噌汁から手をつけていた。


「あっ、合わせ味噌だ」

味が濃い。よく学生時代に母親が作ってくれた濃い味と同じだ。


「味は、こいかしら?」

目の前でカウンター越しにこちらを見ている、おばあちゃんは、まるで自分の田舎に暮らしている祖母と重なり、トモカはブンブンと顔を左右にふる。


焼き鮭は、ほんのりと甘く、漬け込まれたきゅうりの漬物は深漬だ。


深夜23時過ぎに、ワシワシと食欲が湧いてきてトモカはあっと言う間に完食してしまう。


「お仕事、こんな時間まで大変ねえ、おつかれさまあ」

少し間延びしたしゃがれた「おつかれさまあ」にいつの間にかトモカはボロボロ泣いていた。


「あらあら、せっかくの美人が台無しじゃない」

おばあちゃんは、テッシュを2、3枚とるとトモカに渡す。


美人なんかじゃない。結婚もできない。できるのはクタクタになるくらいになるまで働く仕事くらいだ。


トモカは30分は泣いていた。お盆を片付け、おばあちゃんは熱いほうじ茶をだしたまま黙っている。


気持ちが落ち着くと、急に恥ずかしくなり「お会計は?」と早口で言う。


「560円です」

元はとれるのかと心配しつつ、トモカはぴったりお金を出すと、席を立つ。


古い時計が0時を3分過ぎている。


「お粗末ですけど、またいらっしゃい」

優しい声がトモカの背中に降りそそぐ。


細い来た道をまた公道に出て振り返ると、おばあちゃん食堂の電気がふっと消えた。


「あれ......」

今思うと、おばあちゃんの顔がよく思い出せない。スマホは圏内だ。


トモカは、迷惑だと分かりつつ電話番号を押す。


「あら、珍しいトモカじゃない」

田舎に住む祖母が電話に出た。トモカはまた泣き出した。


お腹は満腹で温かい。祖母の声も温かい。私はまだ生きていける。


夜の闇に消えないように、トモカは祖母と通話を切らずに明るいスマホを手に歩き出した。

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