第26話 誰にも話さなかった、夏休みの話
今年の夏は、本当に暑いですね。私は、神奈川県に住んでいるのですが、今朝ときたら、朝、すでに28度もありました。我が家では、暑くても朝の5時頃には一度クーラーを消して扇風機にするのですが(クーラーをつけっぱなしにすると、どうしても風邪を引くので)、うっかり窓を開けることが出来ません。消した後だったとしても、クーラーで冷えた室内の方が、外よりずっと涼しいからです。
朝食前に洗濯物を干してしまおうとベランダに出てみたら、すでにかなり暑い。予報によると、今日は36度まで上がるらしいのですが、蝉って、猛暑の日は、あまり鳴きませんよね。やはりバテるから活動を控えているのでしょうか。それとも、息も絶え絶えで、鳴くどころではないのかしら。
昆虫だってそうなのですから、こんな暑い日に、いつも通りのスケジュールをこなそうとする人間って、昆虫より愚かなのかもしれません。私も気をつけなければ。
そんなことを思いながら、黙々と洗濯物を干していると、前の通りを、中学生一年生くらいの男の子とそのお父さんが、ジョギングをしながら通り過ぎていきました。
朝のジョギングかぁ。でも、走るにはちょっと暑いかなぁ、ぎりぎりかなぁ。そんなことを思いながら、二人を見送ったあと、ああ、夏休みなんだなぁと、しみじみ思いました。
きっとあの中学生は、夏休み中に走り込みをして、ワンランク上の自分になって、新学期を迎えようとしているのではないかな。そして、そういうことなら、お父さんも一緒に走ろう、ということになったのではないかなぁ。いいなぁ。特別な夏休みになりそうだなぁ。
そう言えば、中学二年生の夏休み、こっそり早朝散歩をしていた事がありました。家の近所をぐるっと二十分くらい歩くだけですが、早朝の住宅街は、車も人もほとんどいないので、町を独り占めしているみたいな気分になれるし、そもそも家族に内緒で散歩をしているってことが、特別に思えて、たのしかったのです。
そんなある日、いつもの様に一人で最後の坂道を登っていると、坂の上から、自転車が猛烈なスピードで下って来るのが見えました。車が走っていないのを良いことに、道路のど真ん中を、思い切りスピードを出して走っているようです。
自転車がどんどん近づいてきて、乗っている少年の顔がわかった瞬間、私は、あっと驚きました。同じクラスのO君だと分かったからです。猛スピードで私とすれ違う一瞬、O君も、ちらっとこちらを見たような気がしました。
たったそれだけのことで、私はその日いちにち、ドキドキしながら過ごすことになりました。そもそも、私にとってO君が、クラスでちょっと気になる存在だったというのもありますが、学校以外の場所でクラスメートに合うなんて、やっぱり特別なことでしたから。
次の日も、その次の日も、最後の坂でO君とすれ違いました。そして、四回目にすれ違ったとき、O君は初めて、チリンと自転車のベルを鳴らしました。私が驚いて振り返ると、O君も自転車のスピードを落としてこちらを振り返っていました。
たったそれだけのことなのに、またまた私は、一日ドキドキしながら過ごすことになりました。
以来、毎日ではありませんが、散歩をしていると、坂の上から猛スピードで下りてくるO君と、出会いました。私がいると、すれ違いざまに、O君は必ず自転車のベルをチリンと鳴らしてくれます。私は、「おはよう」と、言われた気がして、とても嬉しくなりました。
それなのに、ああ、それなのに、いつの日からだったか、私は、早朝に起きられなくなってしまいました。早朝どころか、「いつまで寝ているの」と、母に叱られる始末です。遅めの朝食を食べながら、O君は今日も自転車で走ったのかなぁ、などと、ぼんやり思いました。あいつ、ちっとも出てこないなぁって、思ってくれるかな。そんなことを、くよくよ考えているうちに、夏休みは終わってしまいました。
新学期が始まり、教室でO君と顔を合わせましたが、お互い、朝、ばったり会ったことについては、一言も話しませんでした。私は、久しぶりにあった級友と、夏休みどうしていたか、たくさんお喋りしましたが、早朝に散歩をしたことは話しても、その時O君に会ったことは、誰にも話しませんでした。
そして、できればO君も、そのことを誰にも言わずにいてくれたら良いな、と、心の中でこっそり願っていました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます