第4話 春の味覚は、大人への踏み絵なのだ
春というのは、イメージと実際に違いがあるなぁと、最近しみじみ思います。長く続いた冬の寒さから解放され、日差しも明るく、風も柔らかくなって、うららかって言葉がぴったり。な、はずなのに、実際は、毎日気温が急降下し、そのせいか、体も心も不安定になりがち。そんな季節に新学期とか、新生活とかがあるのですから、しんどいに決まってますよね。
電車に乗っていて、一人で何かぶつくさつぶやいている人を見かけたりするのは、春が多いような気がするし、そもそも、電車の遅延トラブルは、春が多いような気がします。
そのような、穏やかな顔をして実は荒々しい春を旬に持つ野菜たちも、これまた癖のあるものが、多い様に思うのです。
子供の頃は、春特有の野菜が、苦手でした。筍などは、食べるのはまあよいとしても、下ごしらえの時の、筍をゆでる匂いが苦手でした。
学校から帰ってドアを開けた瞬間漂う、あの甘ったるいような、青臭いような匂い。あの湿った匂いが流れてくると、すばやく口呼吸に変えたものです。そういう日の晩御飯は、まず余程の事がないかぎり、筍ご飯に筍の煮物に筍のお吸い物、と、筍責め・・・ではなく、筍づくしでした。
決して嫌いなメニューではなかったですが、早春の筍は、舌にぴりぴりくるとげとげしさ、というか荒々しさがあって、子供の舌には、一年中売っている真空パックのゆで筍のほうが、食べやすかったです。
けれど、筍なんかよりもっといまいましかったのは、蕗です。蕗をゆでる匂いは、本当に本当に、今でも得意とは言えません。こげたゴムにも似た、あのえぐみのある青臭い匂いは、子供である私には、苦痛以外の何ものでもありませんでした。
私の母は、蕗を油揚げなどと一緒に薄味のだしでさっと煮あげるのですが、かなり大きくなるまで、積極的に箸をつける気には、なりませんでした。
しかし、よくよく観察して見ると、作った母も、それほど積極的に、橋を延ばしているようには思えませんでした。だとしたら、なぜ母は、わざわざ蕗を煮るのだろう。
疑問に思った私は、ある日、母に尋ねてみたのです。
「ねえ、どうしてこんな臭い物、煮るの?」
「そうねぇ・・・。やっぱり季節のものだからねぇ・・・」
「季節の物だから?」
「そう。蕗は、春のこの時期にしか、出回らないものだから」
「ふうん」
分ったような、わからないような。でもその時、何かちょっと、はっとさせられたいうか、感動のようなものを、私は感じたのです。ひょっとすると、母も蕗はあんまり好きじゃないのかもしれない。それでも、あえて食卓にのせるということがあって、それにはそれなりの意味があるんだ。
美味しいとか、まずいを越えて、ほんの一瞬の季節を知らせるために、食卓に乗る食べ物がある。ただ、お腹一杯に詰め込むためだけではない、何かを感じるために食卓に並ぶ食べ物。そして、その時感じたその何かを、大人たちはあえて“美味しい”と、表現しているのかもしれない。
それまで私が知っていた“美味しい”とは違う“美味しい”が、ある。これは、私にとって、新しい発見でした。
その晩、初めて自発的に、蕗の小さな一辺を口に入れてみました。水っぽくて青臭くて、やっぱり美味しいとは思えなかったけれど、確かに“春”を感じたような気がしました。
早春のほんのひと時だけ出回る野菜たち。彼らは大抵、青臭くえぐみがあって、とっつきにくい。けれど、それを欠点ではなく、個性と感じられるようになった時、人間は、ちっとばかり大人になったのだといえるのかもしれません。
そう思ったら、日本の成人式も、あんな立派な式典なんかやめにして、蕗の料理を山ほど出して、美味しく食べられたら、ハイあなたは成人、だめだったあなたは、来年再チャレンジしてねーって、そういう風にしたらどうだろう、ってやっぱりだめか。
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