血闘

 迫り来た第一陣を、環雷はその爪と牙と力でなぎ払った。何が起こったのかもわからず死んだ者もいれば、大怪我を負って倒れ伏した者もいた。

 しかし男どもはひるまなかった。大の男が大切なものを守るために、また大切なものを奪った奴を斃すために集まったんだってこと。さらに、手にしたかりそめの武器の光と松明の光が、男衆の気持ちをぼんやりとした膜のようなもので覆ってた。まるで麻の葉を吸った時みたいに、男衆の心は大儀に酔って痺れてたんだ。

 しかしその痺れも酔いも、環雷の強大すぎる力を前にやがて醒めてゆく。

 四人がなぎ倒され、その爪で引き裂かれると、男衆の勢いは失われた。

 失われつつも、雄叫びを上げて気力を振るい起し、わずかな隙をついて環雷の背中に平鍬ひらくわの刃先を叩きこんだ強者もいた。環雷がもの凄い悲鳴を上げる。

 憎き人喰いの悲鳴に鼓舞されて、手にした柄付きの鎌が、鋤が続いてその背に振り下ろされた。何本かは肉に食い込み、何本かは固い毛の上を滑り落ちて地面を叩いた。苦悶の声を上げ、環雷は駆けながら爪を振るった。先頭にいた男の首が、人形のそれのように簡単にもげて宙を飛ぶ。

 辺りには、人間と獣の血と肉と悲鳴と怒号が入り混じった。



 そんな阿鼻叫喚の地獄を、大木の陰からこっそり見てる一人の子供がいた。

 子供といっても十五歳くらいか。あの、かつて金太を囲んで虐めてたうちの一人。たしか一悟とかいったね。

 ぶるぶる震えながら成り行きを見てたそいつは、親からしっかり釘を刺されてたにも関わらずくだらない好奇心に負けてこの場に顔を出したことをすぐに後悔した。怒りに燃えた環雷と、ばちっと目が合ったのさ。

 その刹那、一悟は大量に小便を漏らし、ひきつけを起こしたみたいにのどをひくっと痙攣させた。と、それを合図とばかりに環雷が男衆の群れの中に走り込んだ。急に向きを変えた環雷に驚き、男衆のかたまりはわっと二つに割れる。環雷が突進した先には一悟がいた。

「ぎゃあああああっ」

 あまりの恐怖に一悟が獣みたいな声を上げた。環雷は一悟の叫び声など気にも留めず、その腰帯を咥えると、一悟を顎の下に軽々とぶら下げた。男衆は泡を喰った。

「なっなんだ⁉ なんで餓鬼がここにいる⁉」

「茂作んとこの餓鬼だ。ついて来やがったんだ‼」

 環雷は大きく吠えながら、そばの大木に体をぶつける。どしん、と腹に堪える嫌な音がして、環雷の体のあちこちに刺さってた刃物はいちどきに落ちた。そして周りの男衆を睨み回すと、一悟を咥えたまま山の斜面を一気に駆け上がった。

「逃がすな、追うぞ!」

 そういったものの、急な斜面を降りるならまだしも、駆け上がる四つ足には人間じゃ絶対に追いつけない。まして男衆は戦いに疲れ切ってた。環雷との距離はどんどん開いてく。

「ちっくしょう。あいつ、まだ全然参ってやがらねえ」

「餓鬼が喰われちまうぞ!」

「尾根を回り込もう。挟み撃ちにすれば、まだ……」

 しかし、もうほとんど環雷の姿は見えなくなってた。傷を負ってるとは思えない迅さだった。月を隠した雨雲も、わずかに環雷の味方をしてたんだ。



 追ってくる気配を、環雷は感じなかった。

 歩調を落として、それでも無意識に人間が歩きにくそうな藪をかき分け、苔むした岩場を跳びながら進んだ。振り返ると、松明はずいぶん遠い。

 完全に引き離したことがわかると、環雷の歩みはさらに遅くなった。やがて獣道を抜け、竹がおい茂る緩やかな藪も抜けると、急に開けた場所に出た。

 環雷は咥えたままだった一悟を乱暴に地面に落とした。一悟はとうに腰を抜かしてて、その場にへたり込む。叫びすぎてのどが涸れ、ひゅうひゅうって音しか出せなくなってた。あまりの恐怖で顔が異様な緑色になり、口からは白い泡が零れてる。小便だけじゃなく、糞も漏らしてた。

 そこは家が十軒くらいなら楽に建ってしまいそうなくらい広かった。真ん中に、すっぱりと平らに切り取ったみたいな大きな岩。幅が一段くらいはありそうな、舞台みたいな岩だ。

 その岩の前に影が立ってる。細長い影が。

 影は環雷をじっと見て、薄っすら口を開く。

「……俺、おまえが好きだ。村の奴らは嫌いだ。だから……考えたけど、わかんなかったよ。俺達とおまえ、どっちが正しいのか。俺、頭悪いからさ。――でも」

 環雷が低く唸った。刹那、夜風が強く吹いて黒い雲を散らした。

 天頂の月が影の手に、顔に光を投げかける。その顔を見て一悟は仰天した。

「――き、金太?」

 一悟ががさがさにひび割れた声で問いかける。

 その声に応えるように、鋼の塊は浴びせられた月光を禍々しく跳ね返した。

「これ以上おまえに人を殺させねえ……!」

 環雷は一声吠え、金太に飛びかかった。金太は軽く振りかぶり、俎を力いっぱい振り下ろした。

(う、腕が引っ張られる⁉)

 金太をもってしても、その鋼の塊はまだ重すぎた。

 狙った肩口から大きく外れ、俎の一撃目は地面に吸い込まれた。どおん、という大きな音に驚いて、環雷は金太を噛むことをやめて、いったん飛びのいて離れた。その音の凄さに一悟の張りつめ続けた精神はあっけなく崩壊して、呆けた顔のまま気を失った。

 金太は力を込めて、地面から俎を引き抜く。めりめりめりっと音がして、地面のおもてが大きく引き剥がれた。

 再び環雷が飛びかかってきた。金太が両手を真一文字に振るも、そのあまりの重さに思ってたほど迅さが乗らず、またも金太の狙いとは外れた場所に俎は当たった。今度は顎を狙ったつもりだったのだけれど、俎の鋭い刃は環雷の右肩に食い込んだ。環雷が悲鳴を上げる。

(なんだこりゃ⁉ 持ってんのと振るのとじゃあ全然違う。まともに振れやしねえ)

 金太は焦った。環雷は金太から少し距離を取り、金太の目をまっすぐに睨みつけた。

 その目には、金太がよく知ってるかつての子熊の面影は少しもなかった。男衆に傷つけられ、体のあちこちからは血が流れてるものの、環雷が弱ってる気配もまったくない。

「……まじぃぞ」

 息も乱れてる。落ち着かなきゃ駄目だ、と金太は思った。

 木を切るためにまさかりを振る時にだってコツはある。ただやみくもに振ってたわけじゃない。力任せに振ったって、木はそうそう倒れちゃくれない。環雷との相撲だってそうだ。力じゃない何かを使って組み合ってたんだ。それはことわりじゃない。それを教えてくれたのは環雷だった。

(重いから力で振ろう、なんて考えじゃ駄目だ)

 金太は環雷の目を見つめたままで、体のあちこちから力を抜いた。そして環雷と相撲を取る時にいつもそうしてたみたいに、どうどうと音を立てて流れる川を想像した。金太の頭の中を流れる川は、やがてその川幅をどんどん狭めていく。いつしか水の流れは穏やかになり、川幅は人ひとりがやっと跨げるほどになった。

 環雷はいつの間にか唸るのをやめてた。金太の息も整った。

「環雷。こっからだぞ」

 風が木々を揺らす音すらも、金太の耳には入らなかった。



 ぶつかり合い、打ち、はらう。切りつけ、避けられ、倒れる。立ち上がり、距離を取り、引き下がる。しばし間を置く。にらみ合う。前に出て、ぶつかり、離れる。そしてまたぶつかり合い、打ち、はらう。

 延々と続く。もう何度繰り返したかわからない。金太はまたも、肩で荒く息をしてた。

 金太はもうずいぶん前から、重いものを手に持って振る、じゃあなく、その重さの先までが自分の腕であるってふうに思うようにしてた。そう切り替えてから、金太はだんだんと俎の重さを自分の体の重さの一部みたいに扱えはじめてた。

 とはいえ、もう金太の腕に残された力はわずかだった。体中に環雷の爪痕が残ってる。血を多く流してた。そしてそれは環雷も同じくだった。

 もはやそれは、人間と熊との戦いじゃなかった。どう斬るか。どう噛むか。どうかいくぐるか。どう踏み込むか。どう跳ぶか。どうしゃがむか。どうかわすか。どうえぐるか。どう斃すか。もっと強く。もっと硬く。もっとやわらかく。もっと高く。もっと低く。もっとはやく。もっと迅く。

 二匹の獣の内を支配してたのは、そんな考えだった。

 ……いや。考えなんて呼べるほどのもんでもないんだろう。それはまるで、閃き駆け抜ける稲光だ。二匹の獣は、内を駆ける稲光の美しさに魅せられ、戦いがもたらす悦びに打ち震わされてたんだ。

 刹那。

 今まさに金太に覆いかぶさろうと、後ろ足に力を入れて立ち上がった環雷が急にがくん、と体勢を崩した。間がずれて、金太の放った俎の一閃が狙いから外れ、岩舞台の端を殴った。岩の欠片がいくつも飛ぶ。飛んだ岩の欠片のうち、殊更に尖ったその一つが、体勢を崩した環雷の右目に深々と突き刺さった。

 環雷の悲鳴が夜気をつんざく。悲鳴には金太のときの声が被さった。

 わずかな時の間だったけれど視界を失った環雷は、己の懐の中で金太の姿を視止みとめた。

 金太は膝を折り、低い構えで足に力を溜めてた。それを、一気に放つ。地面を蹴って伸びあがった。

 熊の命を取るために狙うべき場所は三つだ。

 一つ目は眉間。二つ目は、左胸の三本目の肋骨の下。そのすぐ下に心臓があるんだ。

 そして三つ目。両手で持った俎の刃を、環雷の首の下、がたがたと折れ曲がってる月の輪に深々と突き立てた。

(あにい。あいつの首の環さ、まるでかみなりみたいだな)

 刹那、自分の言葉が頭の中で閃き、消えた。

 環雷は悲鳴を上げられなかった。出そうにも、穿うがたれた首の溝から空気が漏れて声にならなかったんだ。

 金太は体中に力を入れ、踏ん張って、さらに深く刃を刺しこんでいった。さすがに刃を押し込むだけでは太い首の骨を折ることはできなかったけれど、その骨の半分がたに刃を喰い込ませることはできたみたいだった。金太は環雷の熱い血を体いっぱいに浴びた。

 最期の力を振り絞って一声嘶いななくと、環雷は腕を払い、懐にいる金太を横薙ぎに吹っ飛ばした。金太はもんどりうって転がり、すぐに起き上がる。その手には俎は握られてなかった。環雷の首に深く突き刺さったままだった。

 環雷は動かなかった。風も止んでる。聞こえるのは金太と環雷の荒い息の音だけ。月の光が、うるさいくらいに環雷を照らしてた。

 そのまま音もなく、環雷はぐにゃりと横倒しになった。体中から力が抜けたみたいだった。

 それを見た金太の膝の力も抜け、その場にぺたりと座り込んでしまった。



 急に強く吹いた風が草原を鳴らし、その音で金太は目覚めた。

 はっとして周りを見回す。何も変わったところはない。ごく短い間、気を失ってたみたいだった。

 金太は深くため息をついた。両手と両足に力を入れ、何とか立ち上がる。手も足も痺れて、まるっきり力が入らなかった。体が自分のもんじゃないみたいに重かった。

 もう戦えない。まだ環雷に力が残ってたならば、自分は間違いなくやられる。次の一撃を、自分は避けることができないだろう。金太はそう感じてた。

 そばに立ち、環雷を見下ろした。荒い息をついてる。

 俎はまだ環雷の首に突き刺さってた。金太はかがみ、それを引き抜いた。と、あまりの重さについ取り落としてしまう。金太の腕にはもう俎を持つ力も残されてなかったんだ。

 首から重い鋼の塊が取り除かれたことで、環雷の息は少しだけ楽そうになった。身じろぎもできないまま環雷は、岩の欠片で潰されていない方の目だけを動かし、金太を見た。

(あそこで環雷が体勢を崩してなきゃ、俺はやられてたかもしれねえ)

 いや、きっとやられていたはずだ。そう思い、金太は環雷の後ろ足を見た。

 右後ろ足に、輪のようにぐるりと傷が一周してた。

 見覚えのある傷だった。その傷から血がたくさん出てた。

「……そうか。おまえ、これが痛くて」

 やっぱり、あの時のくくり罠の傷は深かったんだ。金太は環雷のそばにしゃがみ込み、首元の毛を優しく撫でた。

「……ごめんな。俺がもっときちんと傷を治してやってりゃあ。そしたら……」

 環雷はかりそめの狩人から逃げおおせていたかもしれない。矢に傷つけられることもなかったのかもしれない。そしたら、環雷は狂っていなかったのかもしれない。

(金太。全部おまえが悪いんだよ)

 どこかから声が聞こえた気がした。

 環雷の顔を見る。目を見開いたまま、環雷はこと切れてた。

 目ははや、どろりとした灰色に濁り始めてる。顔中血だらけで、わらってるような口のめくれが、金太の目に初めて恐ろしげに映った。

 金太は環雷の濁った目を見つめ続けた。しばし呆けてて、後ろから近づいてきてる者にもすぐに気づけなかったんだ。

「……今の話、どういうことなんだ?」

 いきなり背中から声をかけられ、金太の体は跳ね上がった。

 振り向くと、そこには泥にまみれた汚い鎌を持った男が立ってた。

「……佐吉っつあん」

 佐吉はこの数日でげっそりとやつれてたけれど、その目の底には力があった。

「なあ、金太。今の話、一体どういうことだよ」

 金太は呆然としてた。どうして佐吉がここにいるのかもわからなかった。人喰い熊を狩るため、男衆に交じって追ってきたってことにも考えがゆかなかった。

「おまえ今、確かに俺がもっときちんと傷を治してやっていれば……って言ったな。……それ、どういうことなんだよ」

 言うべきことを思いつかない。

 やっと一言「佐吉っつあん」とだけ、金太の口は動いた。でも声にはならなかった。

「思った通りだ。やっぱり人喰いは、おまえの熊だったんだな。あ、あの。あのど畜生のくそったれ熊は。おまえの熊だったんだな⁉」

「……佐吉っつあん、俺は……」

「おまえが育てたようなもんだよ。……だってそうだろ、おまえが罠からそいつを助けてなかったら、そいつは人を喰わなかった。そしたらそいつは化け物にならなかったんだ!」

「佐吉っつあん」金太はごくり、とつばを呑んだ。口の中はからからだった。「違うんだよ」

「一体何が違うってんだ⁉」

 佐吉は金太を怒鳴りつけた。その目には涙があふれていた。

「ええっ、言ってみろ金太! 何が違うんだ? 一体何が違うんだ? いったい……一体、何が……」

 佐吉は嗚咽した。持ってた鎌を取り落とし、両手で顔を覆った。

 また風が強く、続けて吹き始めた。嗚咽の狭間に佐吉が何事か呟いた。けれど、風が草原を揺らすざっ、ざっ、という音で金太の耳にはうまく届かなかった。

 かろうじて聞き取れたのは「おまえもそいつと同じだよ」という言葉だった。

「……え。佐吉っつあん、いま何て言ったんだ?」

 金太は佐吉のもとへ一歩踏み出した。

「近づくなっ‼」

 佐吉はまた怒鳴った。その剣幕に、金太の足は止まる。佐吉は手負いの獣みたいな目で金太を睨みつけた。

「化け物め」


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