山へと

 数時間前の日差しが嘘のように、空はいつの間にか重い灰色の雲で覆われていた。

 砂丘を降り切ってもしばらくは砂地が続いたが、湿り始め、表面温度の下がった砂はさほど歩きにくくはなかった。風は湿気の匂いを孕んでいる。

(雨が降る)

 男は歩いた。生存本能が体の不調を上回り、無理やり体を動かしたせいか、背中の痛みは砂浜にいた時より少しましになっていた。しかし、焼けた砂の上を歩き、這ったせいで膝や手のひら、足の裏が引きつれたように痛んだ。炎症を起こし始めているようだった。肩の皮膚も、日焼けの影響かひどく痛んでいる。表面が張り詰めており、少しでも切れ目を入れると、そこから裂けていってしまいそうだった。

 そのまま数百メートル歩くと、やがて地面は固くしまり、砂地は荒地に変わった。膝ほどの高さの草がまばらに生えている。

 男はずっと生まれたままの姿だった。何か服の代わりになるものが欲しかった。周りを見回す限り、喰える見込みなど限りなくゼロに近そうな細長い草しかない。人家は一軒も見えなかった。一本の木すら、まともに生えていなかった。

 遥かに、山々が見える。あそこまで行けば、今の自分に必要なものが色々と手に入るに違いない。ひんやりした緑。木々。森。流れる小川。房なる果実。動物の肉。男ののどがぐびり、と鳴った。

(この地がどこかはわからないが、こんな荒地にいるよりはずっとましだ。こんな乾いた屍のような荒地よりは)

 山である限り、そこに何らかの恵みはあるはずだ。そう信じ、男は足を前に運んだ。

 湿気の匂いが強くなった。そう思う間もなく、草を揺らす風の音に、雨音が混じり始めた。

(……来たか。いいぞ)

 果たして男の祈りは通じ、あっという間に雨脚は激しさを増していった。

 男は痛む背中をなだめすかしながらしゃがみこむと、ぐっしょりと濡れた細い草や穂を口に入れ、ねぶり回した。ほんのわずか口内が潤うと、また次の草の束を口に入れ、頬張った。それを何度も何度も繰り返した。

(頼む、もっと。もっとだ!)

 雨はより一層強くなり、男の赤く日焼けした背中や肩、尻から火照りを奪っていく。縮れた茶色い髪や、口の周囲とあごと覆った同じ色の髭にも水が滴った。それも手のひらで集め、水分をしごき取るようにして口に運んだ。汗のせいか海水のせいか、それは強い塩気を含んでいた。それでも男は飲んだ。

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