洞穴より

 岩屋……といっても何もない洞穴なんだよ。

 入り口は、大人の男が背を屈めなきゃ入れないくらいの高さしかないけど、一歩中へ進んだら天井は高く広がってる。高さは大人の身長の倍はあるだろうね。そこは四、五人が車座になれるくらいの広さがあって、その先にもうひとつ小さな部屋がある。ちょうどひょうたんを寝かせてるようなかたち、と言ったら想像しやすいかもしれない。

 そのあちこちに、岩壁のくぼみの形を利用してともし火が据えてある。夜になるとまったく光は差し込まない岩屋だったけど、その油を使ったともし火のおかげでなんとか暮らしていくことはできたよ。

 二つ目の部屋の先からは急に道が細くなって、そのままずっと奥まで続いてる。光だって届かないくらい深い。

 そんな何もない山の中の岩屋で、たった一人、わたし一人で挑んだ出産だ。

 別段、卑しい生まれでも育ちでもない、まっとうな人生を送るはずだったわたしが、一体どうしてこんな暗い洞穴で、それも一人で子を産まなきゃならないか。それについては、おいおい知っていってもらうことになるだろうさ。今は先を話すよ。

 子を産んだのはこれで二度目だったけど、一度目とは比べ物にならない辛さだったね。雨雲が厚く重く垂れこめると左足の付け根から腿の裏側にかけてしんしんと痛むのは、その二度目の出産の時の影響なんだと思うよ。……ただ、ほんの少しも後悔はしていない。このたった一人の出産を、わたしはとても誇らしい心持ちで挑んだんだ。……何故かってそりゃ、あのひとの子を生むことができるんだからね。誇らしい心持ちにもなるさ。

 わたしは、血まみれで泣いてる赤ん坊を抱いて岩屋の奥に行った。岩屋の奥には、鍾乳石から滴る水が溜まってる場所が二つある。そのうち一つの水場を飲むために使って、もう一つは体を洗ったり野菜を洗ったりすることに使ってたんだ。

 わたしは這うようにして水場にゆき、綿みたいになってしまった腕に無理やり力を込めて、赤ん坊をゆっくり水に浸した。そうして、冷たすぎない水を少しずつ体にかけてやりながら、改めて赤ん坊をまじまじと見た。そして三つのことに気がついたんだ。

 一つ目は、その肌の色だ。異様なほど、赤みが強かった。

 生まれたばかりの赤ん坊は、赤というよりも灰色がかった紫色に近いもんだ。でもその子の肌の色は、桜色をうんと濃くしたような色だった。そんな色の赤ん坊を見るのは、わたしも初めてだった。体を清めても、その不思議な色は変わらなかったよ。

 もう一つ。その子は巨大だった。普通の子の、二回りほどもあったんじゃないかな。こんな大きなものが、自分の狭い股の間から出て来たことに何より驚いたね。

 でもまあ、大きいのも当然だ。その子は十五月以上、お腹の中にいたんだからね。

 もちろん苦しんだ分だけ、例えようもない愛情は芽生えたよ。でもその時の素直な感情は、なんて肌の色だ。そしてなんて大きさだ。だったね。

 最後の一つ。赤ん坊の頭には、すでにうっすらと髪の毛が生えていた。その髪の毛の色が、夕焼けを映す小波のような金色だったんだ。



 そうそう。もう一つあったんだよ。

 こぼれ落ちそうな瞳の色は、黒くなかった。お日様が西の山際に落ち込んでゆく時間の空が見せる、燃えるような赤と沈み込むような青のちょうどはざまのような色だった。あんな色を、一体何色と呼んだらいいんだろう。

 わたしも顔を拭いながら水をがぶがぶ飲んだ。そしてよろよろと立ち上がって、取っておいた割ときれい目の木綿で赤ん坊をくるんだ。そのまま、赤ん坊と一緒に岩屋の外へ出た。

 夜空には大きな満月が出ていたよ。月明かりが眩しいくらいで、近くの、遠くの山々をくっきりと照らしてた。……そう、赤ん坊の髪の毛の色に似た、白みがかった黄金の月だった。そんな月明かりの下でも、赤ん坊の肌はやっぱり赤く見えた。岩屋のともし火に照らされて赤く見えていたわけでもなかった。

 やがて赤ん坊は月に気づいた。女王みたいに夜の空を支配する、その黄金の巨大な塊を、やっぱり不思議そうにじっと見つめていたよ。それから、自分自身の視線に導かれるみたいに、短い両手を空の黄金へと差し出そうとした。……と、左手が木綿のふちに引っかかってうまく出せない。

 何故か思い通りに動かない自分の左手に気づいて、赤ん坊は月から左手に視線を移した。

 そして左手が木綿のふちにかかってることを知るや、そのまま左手を無理やりに上へと突き出し、あっけなく木綿を引き裂いた。着物に使うような分厚い木綿だ。

 一瞬、呆気にとられた。そしてすぐに、その木綿がまだ新しいものだと思い込んでただけで、実際は洗いを繰り返された代物であったのかもしれない、と考えた。その一方で、この赤ん坊は将来とてつもない運命に翻弄されるのかもしれない、という予感もあったんだ。

 赤ん坊は、ついに自分の思惑通り、両手を月に向けた。

 月はさっきより、いくぶん光を増していたようだ。神秘的な光景だった。

 とにかく、そうして生まれたんだ。彷徨い続ける運命に抱かれて。

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