『ちいさき神の、作りし子ら』〜コミュニケーションについての舞台

奈良原透

『ちいさき神の、作りし子ら』義庵 中野ザ•ポケット

舞台というものは上演期間が限られているので評判を知った時には観ることが叶わないことが多い。


この『ちいさき神の、作りし子ら』も、私にとってそんな一本で、おそらく名前を知った時から20年以上の時を経て、今回、観ることが出来た。


耳の不自由なヒロインと、聾学校の教師の物語。


『愛は静けさの中で』という邦題で映画化されているので、そちらの名前で馴染みのある方のほうが多いかもしれない。


英語版Wikipediaによれば、耳の不自由な女優さんとそのご主人の実話がベースにされたようであるが、実にリアリティのあり、観る側の心に近づいてくる舞台であった。


半円形のストリングスカーテンが舞台の背後を覆うシンプルなセットに、簡単な小道具の出し入れだけ休息無しの2時間半を一気にみせる舞台。


こういう役者さんの実力と、観客の想像力がガチンコ対決をする空間が、小劇場の魅力である。


本作も主人公・ヒロインの2人と、それを取り囲む5人の登場人物で話は進む。


聾学校を舞台とした作品で、ハンディキャップを持つ者とそれを理解しようとする者の恋愛を軸に話は進む。


が、この作品が描いているのは単に“ハンディキャップ”を持つ“聾者”への理解という単純なテーマではない。


作品のテーマは、異なるコミュニティ間の理解のためのコミュニケーション。


そして、そのコミュニティの中に置いてもその背景、考え方により人間の数だけコミュニティが存在し、そこにおいても理解のためのコミュニケーションが、必要という大きな問題である。


まずは、健常者というマジョリティのコミュニティと聾者というハンディキャップを有したコミュニティ間のコミュニケーションが提示される。


さらに物語が進むにつれ浮き上がってくるのは、マジョリティのコミュニティの中でも主人公、上司、弁護士の間には隔たりがあり、それぞれの属性に基づくコミュニティ間での円滑なコミュニケーションの困難さである。


これは、マイノリティのコミュニティでも同様で、登場する3名の聾者の考え方も異なり、すれ違う。


すれ違うコミュニケーションの中、時にイラつきながらも、その登場人物に対し、否定はしきれず、それぞれに共感してしまう。


私にとって、救いだったのは、完全に崩壊していた母と娘という同じコミュニティ(家族)に所属していた2人のコミュニケーションが、主人公のおかげで再び繋がりを持った点だった。


そして、クライマックス。


ヒロインの手話による演説の場面で、観客に提示されるのは“個人”の尊厳に対するリスペクトである。


見事に濃い空間であった。


また、作劇もうまいのである。


聾者の方々の苦労に関し、私は、頭では理解しているつもりであった。


上演中、ヒロインの手話を主人公が上手くセリフの中で説明し、物語は進んでいかのであるが、時に、聾者同士での手話のみの場面もある。


そこで、観客の私は、そこでなされている会話を完全には理解できず、疎外感を感じる。


つまり、聾者の方が早口でなされている会話を理解しきれないもどかしさお同じ体験を、客席にいる私達にさせることで、聾者の方の抱える困難さを体感させてくるのである。


これは見事な作劇術と思った。


出演者の熱演も見事で、劇場に足を運んで良かったと思える作品であった。








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『ちいさき神の、作りし子ら』〜コミュニケーションについての舞台 奈良原透 @106NARAHARA

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