断簡零墨

里見 瞭

コーヒー

 変な目の覚め方をした朝は、絶対にコーヒーを飲まないようにしている。コーヒーを飲んでしまうと、その日の朝がカフェインで固定されてしまって、元の世界に戻ってこれないような気がするからだ。

 そんな日は自分がまるで別の人間になったような気分で一日を過ごし、なにごともなかったように就寝していつもの正常な目覚めに戻るようにしている。

 その日の目覚めもどこかおかしかった。予感らしいものはなかったが、異変が起こる時は決まってそういう時だ。

 まず眼がぼやけていた。そして指先が痺れ首が痛い。起き上がろうとすると、首と背中の中心、僧帽筋に強い痛みが走った。身体を起こせず、布団の上で顔をしかめた。

 どうやら首を寝違えたらしい。右の壁に掛けられた時計は午前八時を示しているが、左で充電されたスマホは手を伸ばせないほど果てしなく遠い。首が左に回らないのだ。私がいつ左側だけを磔刑に処されるような悪行を働いたのかと問えば、昨晩を含めた普段の夜更かしだろうと私が答える。

 肩をゆっくりと回して、痛みの所在を確かめつつ布団から起き上がる。首を動かさないように台所へと向かいコーヒーに左手を伸ばすが、痛みがそれを止める。

 朝食には水、米、昨晩の残り。

 仕事の返信を確認して、椅子に腰掛ける。項垂れた姿勢を維持すると少しばかり楽になる気がした。昨今はストレートネックが話題になっているが、私の頸椎も例に洩れず筋が一本通ったような出で立ちをしているのだろう。

 パソコンを開くが、それすらも肩の痛みが止めてくる。

 嗚呼、煩わしい。

 ため息をついて薬箱をあさる。湿布を剥いて手探りで確かめた痛みの所在に張り付ける。少しばかり冷たいが、これで痛みも引くっだろうと椅子へ戻ろうとした時に、歯みがきをしていないことを思い出した。湿布が効き始めるまでの暇潰しと思って洗面台へと向かう。

 取ろうとして落ちた歯ブラシを拾おうとすると、また肩の痛みが走った。

 嗚呼、煩わしい。

 歯ブラシの先端を水で流し、歯磨き粉をつけて口に突っ込む。

 その時、私は初めて顔を見た。

 左の眼窩に填まった煌々と光る青白い目。

 そして、私の左肩に重たい刃物を突き刺している老婆の不気味に笑うその顔を。

「こっちを、みたね」

 声が耳元から聞こえた。

 飛び跳ねた私は、尚も鏡に映る老婆を目にして、それが現実であると認識してしまった。息を飲んで振り返る。手を伸ばしても老婆はそこにはいなかった。

 しかし、鏡の中では老婆が私の伸ばした手に大きな刃物を突き立てようとしている。慌てて手を引っ込めた。

「惜しかった、次は目玉かな」

 老婆が私の肩を登り、頭上へとしがみつく。私は振りほどこうと頭を振り回すが、空を切る音ばかりが聞こえる。

「無駄だよ無駄だよ、さあ頂こうか」

 振りかざした刃物が目玉を直撃した。左目に強い痛みが走る。血が流れたと思い、悲鳴をあげるが確かな感触として目玉は残っていた。

 老婆はひっそりと笑う。

「ああもらったもらった」

 刃物の先に青い炎が灯っていた。老婆は突き刺した炎を口へと運ぶと丸呑みにしてしまう。すると満面の笑みを浮かべて舌を踊らせて、虚空へと姿を消してしまった。

 私は鏡で自分の左目を確認した。普通の目がそこにある。切れていることもなければ、眼球がほじくり出されていることもない。見えている景色も何も変わらないことに安堵して、私はその場に膝をついた。

 途端に無性に寒気を感じる。暖かい飲み物はコーヒーしかない。私は渋々お湯を沸かしたが、もうすでに左肩の痛みは消えていた。

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