イーター【感情を喰らう化け物のはなし】

音三

00:プロローグ


 一言でいえば煮凝りだった。ふつふつと心の鍋で煮込まれたどす黒い感情は冷えて固まり汚染物となる。在るだけでようやく芽吹いた命を枯らし土壌は痩せて衰える。清らかな川は見るもなくヘドロと化す。肥料にもならず化石になって燃料になることもなく。生まれた瞬間からマイナスに傾いていくだけの塊。そんな煮凝りを何個と抱えてまでなぜ生きねばならないのか。


 人と相対するたびに生まれ増える塊に随分と困り果てていた。子供のころから積みあがったそれは恐れられる賽の河原の鬼すら壊すことができない。大人になってからは職場の腹立つ上司の言葉で生まれた煮凝りがアリの巣のように根を張り部屋を作り子供をこさえていく。上司の言葉の子供が同僚の陰口と結婚して更に膨らむ。ネズミ算式で増えていく煮凝りに耐え忍んだところで、わたしの心はイナゴの大群が襲った田畑のごとくだ。実りは無い。一見無事な土の下も、もう何も芽吹けないほど負の感情に汚染されている。わたしの世界に存在できるのは、この塊だけなのだ。


 わたしが生きること自体がマイナスなのだと知ってから、わたしは自分の世界に閉じこもることにした。自分のことだけを考える日々を過ごす。あったはずであろう育ててくれた恩も、良くしてくれた思い出も。わたしの心に住んだせいで全て枯れ落ちてしまった。


 わたしが産み落とすのは呪いだけ。でもわたしが全て悪いのか?この心がこんなに汚染されているのはわたしだけのせいなのか?わたしだって何かを成せる可能性だってあったはずなのに。わたしにも何かを抱ける未来があったはずなのに。わたしがこうならない人生だって、あったはずなのに。


 うらめしい。

 くやしい。

 はらだたしい。

 かなしい。

 むなしい。 


 ずるずると体を這いずる負に皮膚をかきむしる。ガリと伸び散らかした爪が皮をえぐり堪らず声を上げれば急に喉が詰まるような息苦しさが襲う。頭がぐわんと鈍く痛み、視界はちかちかと明滅する。びりびりと痺れる手足、ぎゅうとわし掴まれた心臓。苦しいからかバクバクと跳ねる鼓動を感じるが、酸素を供給できないからその間隔は徐々に広く弱くなっていく。


 これが『死』か。そう思った。わたしはこんなに苦しく痛いのに、無性に可笑しくなってしまって、喉から嗤っていた。


 惨めだ。無様だ。滑稽だ。

 わたしの人生はこんな馬鹿馬鹿しい終わりなのか。

 わたしが残すのはこの黒く膿んだ感情だけなのか。


 薄らぐ思考の端で、わたしの心を食らいつくしたイナゴが一匹、嘲るように飛び去った。


「……はは、は……」


 この感情は全てを汚染して枯れ尽くす。だが、それはアイツらが生存競争を勝ち抜くために糧とした実りと何が違うのだろうか。


 もしかしたら。わたしが生きるためには、この汚染された環境が必要だったのではないか。わたしは自分の存在のために、この実りなき世界を守らねばならなかったのではないか。


 にくい。にくい。にくい。

 わたしも、あのイナゴのように、すべて食べてしまおう。

 そうすれば……わたしだってここにいてもいいはずだ。



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