水神様の使い

森一人

一 、八郎

四方を山に囲まれた土地に小さな村があった。

山から海へと続く川が村を横断するように流れていることから、川走かばしり村と呼ばれていた。

山の湧き水を源流とするこの川には水神様みずがみさまが住むと言われ、かつて村の者は皆、水神様を信仰していた。

しかし時と共に人々の記憶は薄れ、世代が交代してゆく中で、伝承は薄れつつあった。

その信仰はどこからやってきたのか。

いつから始まったのか。



知っている者はもうほとんどいない。



*



初夏の陽光を反射した川の水面が、白く光っている。

八郎はちろうは川底に仕掛けた網を手繰り寄せた。

冷たい水の中を、四、五匹の魚が跳ねている。

小さい魚ばかりだが、このくらい取れれば上々だ。八郎は気分が良かった。

びちびちと抵抗する魚を掴み、腰にくくりつけた籠に放りいれていく。

すると、背後から


「おい!」

と、低い声がした。

またか。

うんざりして、ゆっくりと振り向く。


いつの間にか、背後で十太じゅうたが仁王立ちしていた。

たくましい色黒の腕を胸の前で組み、いかつい顔で八郎を睨み付けている。

色白で痩せぎすの八郎と向かい合うと、まるで熊のようだった。


「八郎、おめえ、取り過ぎだ。籠よこせ」

十太は村長の息子だ。

自分の立場を誇示したいのか、ことあるごとに難癖をつけてくる。

逆らうと更に面倒くさいことになるので、八郎は黙って腰の籠を十太に手渡した。

少し離れた場所で、彼の子分たちが河原の石を蹴飛ばしながら、こちらの様子を見ている。

「おめえは一日三匹までって決まってるだろ。それ以上は村のもんだ」

一日に村の川で取ってよい魚は三匹まで。

それが、"外れ"である八郎のきまりだった。

取りすぎた魚は川に返すか、自分を"外れ"に置いてくれている礼として、村長の家に持っていかねばならない。

「……これから、村長のとこに持ってく」

ところだった。

と言い終わる前に、十太の拳が八郎の頬を打った。

やあやあ、いいぞ。と子分たちの盛り上がる声が河原に響いた。

「痛え……」

八郎の口内に血の味が広がる。

少し遅れて、頬骨にじんじんと重い痛みが走った。

「はずれの八郎が、言い訳すなや!」

川の上で籠を逆さにした。

魚たちはこれ幸いとばかりに泳いで逃げていく。

八郎が血の滲んだ下唇を噛んだ。

「ふん」

十太は頰を押さえている八郎を一瞥し、空になった籠を投げ捨てると、子分たちのところへ歩いて行った。


八郎はまた網をしかけ直したが、それ以降は全く芳しくなかった。

夕日が山に落ちるまで漁をして、家に持ち帰ることができたのは稚魚のような小魚二匹だけだった。


八郎の家は、村から離れた林の奥にある。

家といっても、所々壁の剥がれ落ちた、あばら家のような小さな小屋だ。そこに一人で住んでいる。

元々は村の中にある家に住んでいたが、両親が死んで"外れ"になった時に取り上げられたのだ。今はそこに村長の親戚が住んでいるらしいと、十太の子分たちが話しているのを聞いた。


八郎は固い床に寝転んだ。

所々腐食した木の板が軋み、ぎいと嫌な音を立てる。

今日の夕飯は焼いた小魚とほんの少しの粟だけだった。ぐうと腹が鳴る。


……十太さえ来なければ。

今なって悔しさが湧き上がる。

が、八郎は十太に対して、直接言い返すほどの心はなかった。

仕返しが怖いという事もあるが、十年もこの扱いを受け続ければ慣れもする。

それに、怒るよりも諦めた方が楽ということに気がついてしまった。

八郎は固く目をつむった。

睡眠は空腹と寂しさを忘れさせてくれる。

ただひたすら、眠りに落ちるのを待った。

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