1話

 誠が幸という少女と出会ってから、もう八年の月日が流れた。十七歳だった幸も先月二十五歳の誕生日を迎え、もう少女とは呼べなくなっていた。


『しばらく休業いたします。  店主 白石誠』


 喫茶店CLOUDの入り口には、三日前からこの張り紙があった。いつも患者、医者、看護師などでにぎわっている店内も、今日は閑散としていた。

 何故客層がそんなに特殊なのか。それはこの喫茶店が位置する場所が、大学付属総合病院の院内だからである。

 白石幸――旧姓恵藤幸は、生まれつき重病を患っており、一度も病院から出たことの無い少女だった。誠はそんな彼女のために、院内に喫茶店を開き、幸もその店で働いていた。

「もしかして、三原さんですか」

「あら、院長先生」

 張り紙を見詰めていた老婦人に、しっかりとアイロンのかけられた白衣をまとった院長が声をかけた。

「やはりそうでしたか。お久しぶりです。しばらくお見えにならなかったから、幸ちゃんたちが心配していましたよ」

 三原のどかは長年幸を担当していた看護師で、退職してからも喫茶店の常連として幸を気遣っていた。

「ちょっと膝を悪くしてしまって。いけませんねぇ、歳をとると」

 苦笑いしたのどかは、再び視線をちらりと張り紙に向けた。

「幸ちゃんの体調が悪化したのですか」

「………」

「そうですか」

 何も言わないことこそが答えだった。

 幸の余命は、とうの昔に尽きているはずだった。しかし、誠の存在のおかげなのか奇跡がおき、何とか一命を取り留めた。辛い治療でも泣き言ひとつ言わず懸命に耐えてきた甲斐もあり、奇跡に奇跡を重ねて今まで生きてきたのである。誠と結婚して五年。もちろんできる限り長生きして欲しいと心から願っていたが、のどかは正直、ここまで幸が生きていられるとは思っていなかった。それほどに幸の病状は重かった。

「今も、幸ちゃんは五〇二号室にいるのかしら。お見舞いしたいのですけれど」

「彼女は今、この病院にいません」

「別の病院に移されたのですか?」

 首を傾げつつ問う。この病院には、幸の病気に詳しい全国でも有数の腕利きな医者が揃っており、別の病院から移されて来ることはあったとしても、こちらから移すことは考えにくかった。

「違います。幸ちゃんは今、ちょっと遅れた新婚旅行に行ってるんです」

 のどかは大きく目を見開いた。

「でもあの子は病院の外には……」

「それでも、一度くらい外に出たかったのですよ。ずっと、出たかったはずです」

 窓に手を当て、雲を見詰めていた幸の姿が、ふとのどかの脳裏に蘇った。

「どこに行ったのですか」

「どこか空気の綺麗な田舎に行くと。流石誠君と言うべきでしょうね」

 少しでも幸の身体に負担がかからないように。愛妻家の誠らしい。そしてきっと幸にも誰にも、幸のためにそこに行くのだとは決して言わないのだ。あくまで自分が行きたいから行くのだと。幸は誠の気遣いを知りつつ、気づいていないふりをするだろう。そうやってお互いがお互いを思い、想い合っている夫婦なのだ、あの二人は。

「早く再開して欲しいですね」

 院長が張り紙に触れて呟いた。名医である院長ならば、わかっているはずだった。病状が悪化している上に外へ出た幸は、もう店に立てない可能性の方が高いことを。それでも、信じて待っているのだ。

「患者さんたちからもスタッフからも、CLOUDを閉めないでくれと文句を言われて困っているのですよ」

「まぁ」

 二人で笑った。幸は元々、病院内の誰もが知っている女の子だった。重病を抱えているにも関わらずいつも明るい彼女に、皆が元気をもらっていた。

 幸に会いたい。そう願っているのは、一人や二人じゃない。

「またここで紅茶が飲みたいわ」

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