第11話

 高円寺でのあの夜の会話は、惟さんの中ではなかったことになっているのか、その後も惟さんからはなんのアクションもなかった。


 私は少しだけがっかりした気持ちと、だけど同時に、ほっとしてもいた。

 私の中での惟さんへの気持ちはすでに大きくなりすぎて、どうしたらいいものか、持て余していたのだ。


 いい歳をして情けない話だけど、私は深青を好きになって以来、他の人に対してこんな気持ちになったことはなくて。だから惟さんを好きになってしまっている自分に気がついても、ここから先をどうしたらいいかなんて、まるで見当もつかなかった。


 そんなあるときだった。惟さんはSNSでまた、自撮り写真を上げていた。

 時刻は午前6時。早朝の池袋で、友人たちと飲んでいるとのことだった。


 『今から来れる人、募集中』


 こんな時間に、そんなふざけた誘い文句で。誰も来るわけないじゃない、って。

 もう、これだからミュージシャンは、なんて思ってしまうのだけど。


 気づけば私は、惟さんにメッセージを送ってしまっていた。


 『今から、行ってもいいですか?』


 返事はすぐに返ってきて、惟さんはお店の名前と場所を教えてくれた。


 まだ布団の中にいた私は飛び起きて、すぐにシャワーを浴びて、それから1番お気に入りの服に着替える。


 外は小雨が降っていた。

 梅雨時で、じめじめとした空気は気持ちが悪かったけれど。

 それでも惟さんがいると思ったら、私はこうやって、ホイホイと出かけてしまうのだ。


 惟さんとメッセージのやりとりをしながら、池袋に向かう。

 電車に乗っている時間も惜しくて。早く着かないかと気ばかりがはやる。

 

 惟さんに会いたくてたまらなかった。

 本当に私は、バカなのだと思う。


 池袋に着いて、惟さんたちの飲んでいるお店へ向かう。西口を出てすぐのところの、格安の居酒屋だった。


「あ、葉瑠」


 私が着くと、惟さんは大きく手を振って迎えてくれる。やたらとニコニコしていて、気持ちよく酔っているようだった。


 惟さんの他には2人のメンバーがいて、惟さんは2人に私を紹介してくれたのだけど。


 明らかにお疲れの2人に対して、惟さんだけが妙にテンションが高くて。


「来てくれてありがとう~」


 そんなことを言ってご機嫌な様子だった。


 惟さんはなぜかノリノリで、恋愛に関する話題を振ってくる。


「最近した、ときめくキスの話しよう?……じゃあまず、葉瑠からね」

「なんですかそれは」


 ほら、他の2人もなんだか呆れている気がする。


「理想のシチュエーションの話でもいいよ」


 そんなことを言うものだから、私は困ってしまう。


「私は……好きな人とだったら、なんでもいいですけど」


 思わずそう答えたけど、面白くない答えだった気がする。

 だけど他のメンバーだって、夜の公園で……とか、手を繋いで吊り橋の上で……とか言っていて、その話は大して盛り上がらなくて。


 惟さんは結局、ため息をつきながら言う。


「はぁ……彼女ほしい。キスしてえ~」


 いくら酔っ払ってるからって、欲望丸出しで笑ってしまう。惟さんにはこんな姿もあったのかって、びっくりしてしまったけど。それなのになぜだか、そんなところも可愛いなんて、思ってしまって。


 私もなんだか、もうダメだった。


 しばらくして、お疲れモードの2人が限界を迎えて先に帰ると、私と惟さんの2人だけが残された。


 惟さんは相変わらず、びっくりするほど楽しそうにしていて。

 せっかくだから、さっきの話を掘り下げて聞いてみることにした。


「惟さんは……そんなにキスがしたいんですか?」

「うん、したい」

「彼女が欲しいんですか」

「うん……欲しいねえ」


 私と目を合わせたまま、惟さんはそう言う。

 キラキラした目で。もう、こんなの、ずるい。


 だから私は、思わず言ってしまったのだ。


「私じゃ、だめですか」


 そんなこと、言うつもりなんて、なかったのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る