第3話
東京の西、都心からは少し離れたとある駅の最寄りに、そのライブバーはあった。
6月ももうまもなく終わるというその日はじめじめとしていて。もう日も暮れていたけれど、ライブバーへの道のりを歩いているだけでじんわりと汗がにじむ。
だけどわたしの心はワクワクでいっぱいだった。だってこの日は、待ちに待った葉瑠さんのライブの日だったから。
駅からしばらく歩いて、少し不安になるような人気のない道を通ったら、スーパーの近くの角に小さな看板が出ていた。
狭い階段を上がっていくと、ドアの前には古いウクレレが飾られている。お店の前のボードには今日のイベント名と、それから出演者リストの中に葉瑠さんの名前があった。
「こんばんは」
勇気を出してドアを開けると、既に何人かのお客さんが席についていて、人の良さそうなマスターがカウンターの奥から顔を出した。
「いらっしゃいませ。あれ、初めてですか?」
「はい。葉瑠さんの演奏を聞きにきました」
そう簡単に受け答えをして席についた。
葉瑠さんの出番は2番目だ。1番目の出演者の演奏が終わると、慌ただしく準備を始める女性がいる。ウェーブのかかったロングヘアの髪に、ふわふわしたワンピースを着た、やわらかい雰囲気のひとだ。
慣れない様子で、バタバタと楽譜を取りに戻ったり、スマホのカメラをセットする場所に悩んだり、マイクのラインに引っかかりそうになったり。
ああ、もう、見ていてハラハラする。
だけど、すぐにわかった。その人が葉瑠さんなのだと。
バタバタと準備をしているうちに時間が来て、マスターの合図のあとすぐに、葉瑠さんの演奏が始まった。
あ、この曲。
この歌詞は、わたしも知っている。
葉瑠さんの出している長編小説の、劇中歌だ。友達に長い間片想いをしている女の子の『恋人になれなくてもいい』などという、半ば諦めのような、だけど確かな愛の感情を歌った曲だ。
今までにも動画を通して聴いていた葉瑠さんの声だけど、やはり生で聴くと全然違う。
透き通った声がピアノの伴奏と共に、お店の中に鳴り響く。曲を聴きながら、その元になった小説のストーリーまで蘇ってくる。初めての体験だった。
1曲目が終わって、葉瑠さんのMCが入る。すごく緊張した様子で話し出した。そうだ、葉瑠さんは今日が初めての弾き語りライブだと書いていた。
心配になってしまうくらいしどろもどろのMCのあとの2曲目も、また別の小説のイメージソングを歌っていた。その小説は誰かのSNSでの発言を参考にしたものだと言っていたけど、やっぱり切ない恋愛ソングに仕上がっていて、さすがだと思った。
3曲目からは、
そのまま2人で2曲演奏した。2曲は葉瑠さんのために深青さんが作ったオリジナル曲ということだった。深青さんはびっくりするほどピアノが上手くて、それから葉瑠さんとのハモリもすごく美しくて、息が合っていて。
ああ、2人は本当に仲の良い友達なんだろうな、と。そう思った。
いいな、そういう友達がいて。そんなことを思う心と、百合オタク目線の『尊い……』と思ってしまう気持ちとがごっちゃになって、なんだかよくわからない心境になる。
戸惑っている間に、ラストの曲だった。葉瑠さんがまたわちゃわちゃと場所を動いて、今度はギターを持った女性がステージへ向かう。ギターの女性は惟さんという人で、ベリーショートの髪がかっこいい。いかにもミュージシャンという感じだった。
ギターのチューニングの間にまた葉瑠さんがMCをするのだけど、あんまりボロボロだったもので、深青さんが助け舟を出すシーンもあった。
ああ、なんだろう。この気持ち。
葉瑠さんのことはもちろんすごいなあ、と思っているのだけど。おそらくずっと年上の女性なのに、どこか放って置けないような気持ちになる。
そんなことを考えている間にチューニングが終わり、今度はピアノとギター、そしてボーカルの3人での演奏が始まった。ラストの曲は、ギターの
曲は3拍子で、なんだかおしゃれな雰囲気だった。MCの時に葉瑠さんがこの曲を好きだと言っていたけど、なんだかわかる気がする。お部屋の中で静かに聞いていたい雰囲気の曲だった。
最後に葉瑠さんが挨拶をして、ついでに自分の小説の宣伝をしていた。そう、今日演奏していた曲の元になった小説を、同人誌にして販売しているのだ。今日、この場所で。
ライブバーで同人誌を売るなんて、そんな人聞いたことないけど。なんだか商売上手だなと思って笑ってしまった。
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