第21話 信頼
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
信頼になっていた吾の上に、ローブが掛けられている。黒いそれは柔らかく、縫製師の吾でも見たことない布だ。
身体を起こして前に座るボルグを見た。
膝の上に置いた厚い紙の束を見ている。細かな字がびっしりと書かれた紙。この人は本当に頭がいいようだ。足の傷を治してくれ、聖符まで描けるという。
しかし、信用をしているわけではない。
見ず知らぬ者を警吏から匿い、逃がしてくれる。あまつさえ、学問と剣術を教えてくれるという。
無償でそんなことをする人が、いるわけがない。
この馬車だけでも二十二ルピアもの大金が掛けられたのだ。
善意。それを信じるほど、吾も愚かではない。
第一、この人は怪しすぎる。警吏から逃げるにしても、その対応が慣れているのだ。
公貴の坊ちゃんの手際ではない。それに、ルクスの怪しげな技を使う。
いったい何者なのか。
高価そうなローブを横に置き、窓に目を移した。空は赤く、夕刻になっていることを教えている。
二日間も馬車に揺られていただけだ。ゆっくりと寝られたし、身体は楽になった。ルクスも十分だ。
この国は人攫いが多い。攫った人間を他国に売り飛ばすのだ。吾の集落でも、何人もの子供が消えていた。
こいつはそれに違いなかった
でも。それでも、この者に縋るしかなかった。
あの場を切り抜け、逃げるにはその力が必要だった。
後は、この外北守護領地を抜け、この人からどこで逃げ出すかだ。
「起きましたか」
掛けられた声に、窓に映るボルグを見る。線は細そうだが、その目は深く、怖さすら感じさせる。
「そろそろ、領境のイスバル街道駅に着きます。準備して下さい」
「分かったわ」
とにかく、外北守護領地を抜けるまでは、この人を利用しないといけない。
吾は外套を着ると、そのフードを被った。
「それで、街道駅からどうするの」
「このままでしたら、着くのは関門が閉められた時間になってしまいます。今日は関に一番近い宿を取り、明日の関の開門と同時に越えるようになります」
「明日の朝一番ね」
「はい。ですが、今晩にも追手が街道駅に入ります」
以前も同じようなことを言っていた。どうしてそんなことが分かるのか聞いたら、意識を潜らせたとか。意味が分からない。
「どうするの」
「状況で判断します」
短く答えるだけだ。
仕方がない、ここは任せるしかなかった。
窓の外は傾いた陽に、街道も燃えているように見える。
やがて、イスバルと書かれたゲートが見えてきた。
馬車はゆっくりと速度を落とす。もう一度フードを深く被りなおした。
ゲートを潜ると馬車が止まり、ドアを開けたボルグが衛士に吾の旅札も併せて見せる。
拍子抜けするほどに、すぐ馬車は動き出した。衛士に吾は何も聞かれなかった。簡単すぎるように思える。
しかし、考える間もなく馬車は止まり、ドアが再び開かれた。
大きな宿の前だ。一階の食堂からは、嬌声と笑い声と怒号が入り混じって響いている。
騒々しさに圧倒される吾を置いて、ボルグが先に立って中に入った。
途端に食堂は静まり、次の瞬間、嘲笑にも似た笑いが起きた。何なのだろうか。吾はどこかおかしいのだろうか。
それでも急いでボルグに足を進めた。彼はカウンターで言葉を交わすと、そのまま階段を上がる。
背中に好奇の視線を感じながら、吾も階段を上がった。
向かった部屋は二階の一番奥になる。ボルグに続いて中に入ると、思わず息が漏れた。
広い部屋だ。その広い部屋には、ベッドが二台だけ。これが公貴が泊る部屋なのだろう
扉を閉めると、
「フレアさん。まずは髪を染めてください」
言いながら、ボルグがバッグから小さな瓶を出した。
「髪を染めるの」
「はい。これはノイバラと呼ばれる花を乾燥させたものになります。これを水に溶かして、髪につけてください」
「それだけで、髪が染まるの」
「染まります。この部屋には奥に洗面室がありますから、そこを使ってください」
言われて、その瓶と真新しい布を受け取り、奥に見える扉を開けた。
そこは小さな部屋になっており、白いつやつやした洗面台と大きな桶のようなものがある。壁についているのは、鈍く金色に光る蛇口だ。
工場では、レンガの洗面と手桶しか見なかった。蛇口など、監督官の部屋にしかなかった。
石の嵌められた床を桶に進む。
髪を染めろ言われたが、まずは汗で汚れた身体を拭きたい。大きな桶に水を溜めながら服を脱ぐ。
今までは洗面の手桶で身体も拭いていた。こんなに水があるのは、集落にいた時以来だ。
身体を丸めて桶に入り、大きく息を付いた。本当は服も洗いたいが、替えの服がない。
身体を拭き終えて、瓶を取った。茶色の粉のようなものが入っている。
その蓋を取り、水を入れた。次の瞬間、水は緑色に代わった。なぜ、茶色の粉が緑になるのかは分からない。でも、これを塗れば髪も緑になるのだろう。
それを手に取り、髪に塗っていく。しかし、何のために髪を染めるのだろうか。緑の髪は、エルミの血が入った者だけだ。
得体は知れないが、ここはあの人に任せるしかないのだろう。
緑になった髪で服を着ると、洗面室を出た。
部屋は暗く、ボルグは窓際に立っている。
光球を出そうとすると、
「待って下さい。追手がゲートに来ています」
彼の声に止められた。
吾も窓際に進んだ。ここからはゲートがよく見える。それもあって、この部屋を選んだようだ。
そのゲートでは、四人の衛士と二人の警吏が言い争っているように見えた。
「どういうこと」
「衛士は軍務司の管理になり、警吏は警務司の管理になります。あれはその縄張り争いです」
「そうなの。では、警吏はゲートが閉められている間は、ここに入られないのね」
「いえ、もし何かあればその責任は軍務司に押し付けられます。互いに協力する形で、衛士の面目も立てるはずです」
その言葉通り、警吏がゲートを潜り六人が一緒になって動き出した。
「ここに来るの」
「彼らが追ってきたのは、マルグス街道駅を出た馬車です。そこにフレアさんが乗っていたとの確証があるわけではありません。現に一組は他の街道駅を当たり、もう一組は森の探索に動いています」
また訳の分からないことを言い出す。これも意識を潜らせたとかいうのだろう。
それよりも、六人は真っ直ぐにこの宿を目指してきている。多分、衛士に吾たちがこの宿に入るのを見られたのだ。
どうする。
「フレアさん」
ボルグが上着を脱いだ。
「フレアさんも服を脱いで下さい」
な、何よ。どうして服を脱ぐの。
「早く服を脱いで、裸になって下さい」
言いながらボルグは、どんどん服を脱いでいる。何を言っているのか理解できない。でも、その切羽詰まった様子に、吾も服に手をかけた。
幸い明かりもないために、恥ずかしさも半減している。
急いで服を脱ぐと、その手をボルグに掴まれた。引き寄せられ、ベッドに倒れ込む。
な、なんだ、押し倒されているのか。待て、吾のルクスが発動していない。心が許したのか。
そんなことはない。殴り飛ばそうと手を上げる。
その瞬間、扉が激しく開かれ、光球が部屋を照らし出した。
わずかに遅れてボルグが身体を入れ替え、吾に背中を向けさせながら起き上がる。
「どういうことだ。ウラノス王国八十三家の一つ、ロウザス家と知っての狼藉か」
間髪入れずに鋭い声を浴びせた。
「いえ、自分たちは公貴に対する傷害事件を追っておりまして」
受ける声は震えている。吾にも分かった。声を発したタイミングと勢いに気押されてしまったのだ。
「それが何の関係がある。王宮に呼ばれ、道を急ぐ客人に対する態度というのか」
再び叩きつける声に、
「申し訳ございません」
言葉を残して光が消え、扉が閉められた。
「な、何だ。学門を収めた賢者のくせに、女を侍らしているのか」
「下らん俗物だよ」
「やめておけ。緑の髪だから一緒にいたのは同じエルミの女だ。フレアとかいう女じゃない。それに、王宮に呼ばれているとなると厄介になるかもしれん」
扉越しに声が聞こえた。
女を侍らす。食堂での嘲笑の意味がやっと分かった。偉い人が、女遊びに興じる姿をあざ笑ったのだ。
そして、吾の髪を緑に染めたのもこのためだ。
同時に吾の心に思い浮かんだものがあった。
以前に見た夢、泥沼に呑まれ沈んでいく吾を、遥かな高みに運んでくれた翼竜。
最初に見た時、外套を着てもらうのはこの人しかいなと思った直感。
この人は吾を助けてくれる人だ。
「もう大丈夫です。服を着てください」
背を向けたまま立ち上がろうとするその背に、吾は身体を預ける。
「教えて。あんたは本当に吾を助けてくれるのか。それとも、どこかに売り飛ばすのか」
「僕はあなたを助けます。この守護領地を抜ければ、好きな所で別れてください」
「どうしてそこまでしてくれる」
「僕は罪なき罪で捕えられたこともあります。その時の僕とフレアさんの姿と重なったかもしれません」
「それだけの理由でなのか」
「十分な理由です」
「吾を攫うのでは、ないのだな」
「確かに、この暗黒大陸では誘拐が多いと聞きます。僕はそれとは関係ありませんから安心してください」
肩を抱く吾の手に、ボルグが手を重ねた。
暖かい手だ。
「王宮に呼ばれているのか」
「まさか。ああ言えば、彼らにはそれを調べる手段はありません。公領主から王宮に問い合わせてもらうしかありませんから」
「ボルグは噓つきなのか」
「あなたを守るためなら、嘘もつきます」
「分かった。吾はボルグを信じる。もし、売り飛ばされても、それが吾の運命だったと思う」
「ありがとうございます。そこまでフレアさんが信じてくれるのでしたら、僕も本当の名前を伝えます。僕の名はアムル・カイラム、今はなきカイラム家になります」
「アムル、それが本当の名前なのか」
「はい。これであなたも僕の弱みを握りました。ですから、安心してください」
重ねた手を外し、アムルが立ち上がった。
本当に吾は助けられたのだ。
安心感だろうか、身体の力が抜けるのを感じる。
「あいがとう。吾を助けてくれて」
急に恥ずかしさを感じ、吾は慌てて脱ぎ捨てた服を取った。
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