#2
その実、白娘には名前が無かった。
この世界に産まれ落ちた時、息の仕方もわからずに無闇に泣き喚いていた白娘は、彼女の身体が冬の吐息みたく白い事に卒倒した母親に連れられて、夜な夜な山寺の戸を叩いたと聞く。
その後、貧しい母親は白娘を「邪悪だ」と言った山寺の僧侶の助言で、禍々しい白娘を人買いに10匁で売り捌いた。
今なら考えられない話かもしれないが、残念ならがこうやって売られてゆく子供は後を絶たない。
名前を持たない白娘は売られてからずっと、まるで廓の遊女のように木製の格子から何も変わらない毎日をただただ過ごす日々だった。
上玉の商品として大切に陳列された白娘が売り払われた先では、同じように売られても人として扱われぬ子供が沢山居る。
その中でも右目に大きな火傷の跡がある少年は、痛々しいケロイドが散ったその顔のお陰で「化け物」と呼ばれていた。
化け物はいたく働き者で、どれだけ店主に殴られようと蹴られようと、濡れ衣で折檻を受けても愚痴一つ漏らさない健気な子供。
白娘はそんな化け物に好意を寄せ、化け物が何日も飯を抜かれた時には、そっと自分の飯を分けてやった。
2人は仲睦まじく、扱いは違えど商品として売られながら日々を過ごしては眠る。
そんな日を続けるなか、冬の終わりと春の始まりの季節に、化け物は何処ぞの地に売り払われた。
別れ際の朝、悲しそうな表情で霧みたく美しい双眸を伏せた白娘の手を取って笑った化け物は、白娘を「木蓮」と呼ぶ。
「君は白木蓮によく似てる」
「……白木蓮?」
「そう……僕を蔑視しない慈悲深さと、何にも染まらないその気高さは、『望春花』と言われるあの花にそっくりだ」
そう言い残して歩き出した化け物の背中が小さく小さく見える時、白娘は溢れる頬の雫を飲み下して「木蓮」という言葉をなぞる。
怪物がいなくなってから3度の季節が巡り、白娘が16になった頃。
最早自身の運命を受け入れ、何もかもを諦めかれたその時に──白娘は、出会ってしまったのだ。
たまたま遠い地を治めるお屋敷の主は、返り血を浴びた着物をものともせずに店内を物色する。
「おや」
それが始まりだった。
聞き馴染みのないその声にゆっくりと振り返る白娘は、草の上の露によく似た、朧で何とも儚げに濡れた睫毛の奥に据えた虚無を揺らす。
「白……か」
再び言葉を吐いた傲慢で冷血、酷く独占欲の強い『郷堂』という名を持った獣は、自身の乱れた前髪を整えるようになぞって白娘を見初めた。
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